彼の涙
ある日の夜、兄は神妙な面持ちで話しかけてきた。
「ルカ、あのさ…。お願いがあるんだ。」
兄がお願いを言うなんて、一度も無かったから私は驚いた。
「どしたのお兄ちゃん、何かあったの?」
私は少し、心配しながら尋ねた。
「ッ…。」
兄がものすごく躊躇しながら、必死に言葉を紡ぎだそうとしている。
その緊張感は私にも伝わってきた。その空気を感じながらも兄の言葉を待った。
そして。
「ボランティア、手伝わせてくれない?」
思っていたよりも、明るい内容に一瞬目を丸くしてしまったのだろう。
兄はとても慌てはじめた。
そんな兄を初めて見たものだから、思わず頬が緩んでしまった。
「ごめん、お兄ちゃん。もちろん手伝ってくれるのは嬉しいよ!でもどうして急に?」
私が尋ねると、兄はまた言葉を選ぶのに試行錯誤し始めた。
こんなに必死に言葉を探す兄が、何を話すのか、再び待った。
「あの絵本…、まだ持ってるよな…?」
あの絵本とは、私が小さい時に貰った絵本だ。夕暮れに一緒に遊んでくれたお姉さんが、寂しがってた私の為に作ってくれた絵本。
世界に1冊しかない、私だけの絵本だ。
「持ってるも何も、私が朗読の練習でお母さんやお兄ちゃんに聞かせてるじゃない。」
という言葉で、とても大切にしているということを伝えた。
「無理を承知で言うよ。貸してほしいんだ、あの絵本。」
頼む、という言葉で兄は頭を下げた。
私はそれ以上は何も聞けずに、兄にそっと絵本を手渡した。
(愛お姉さん、元気にしてるかな…?)
懐かしくて、寂しい気持ちになりながら、当時の事を思い出した。
あのお姉さんが絵本をくれた時、泣きそうな顔でお別れを告げたのを覚えてる。
お姉さんがそれ以上悲しまないように、必死に笑顔を作ったのも、あの絵本をお姉さんだと思って大切にするって約束したのも、10年経った今でも覚えてる。
懐かしい記憶を抱えて眠りについたのに、夜中に目が覚めてしまったその日。
喉が渇いたからキッチンに行こうとすると、兄とママがリビングで話し合っているのが聞こえた。
兄の声は、何処か上擦っていた。
私はどうしたのかわからず、二人の話に聞き耳を立てていた。
「それで…意識が戻らないんだって…。でも…、何もしないなんて出来ないって…思って。」
「ルカには言えなくて…。絶対悲しむから、こんな想いは俺だけでいいって。」
「ごめん、母さん。まだ俺弱いや…。」
(私に言えない…?)
「そんなことないわ、あなたは優しくて、とても強い私の自慢の子だわ。ルカだってそう、絵本のお姉さんのおかげであの子は笑顔になったもの。クラージュ、あなたの思うようにしなさい。お母さん、咎めたりなんてしないわ。大丈夫、絶対に愛さんだって意識が戻るわよ。」
ママがあったかくて優しい声で兄に言った。
愛お姉さんの名前が出た時、私は息を飲みこんだ。
(愛お姉さんの…、意識が戻らない…?お兄ちゃん、愛お姉ちゃんを知ってる…?)
たくさんの情報が流れ込んできて、私は喉の渇きも忘れて部屋に戻った。
その後、兄の不器用すぎる優しさと大好きな人の現状に声を殺して泣いた。




