六十二話 伏兵
「がっ……!?」
何だ。背中が酷く痛い。
背中だけじゃない。痛みが胸まで突き抜けている。鋭く、長く、何かが俺を突き刺している。
「それ」が見える。俺の背中から刺さったものが、左の胸から突き出ているのが見える。
剣だった。細い刀身の剣だ。それが多分、肩甲骨の下から、あばらの隙間を抜けて……
その間にあるのは、心臓か?
「ぐっ、あ……」
喉から逆流して、血が口の中に広がる。耐えられずそれを吐き出す。傷口からも、痛みと一緒に血が迸る。
全身が痺れる。痛みで強張る。力が抜ける。意識が遠退く。
その中で、声を聞く。
「危なかった。待ってたのよ」
「……一体、何をしているんだ?」
アナイアに続いたのは、低い男の声だった。俺の後ろから聞こえてきた。
俺を刺したのは、こいつか。こいつが、俺を……
「何なんだ、こいつは……妙に強い魔力を持っている」
「わからないわ。多頭竜と戦ったって話だけど」
「何故お前がそんな奴と関わりを持っている……?」
「雇い主がちょっと、事を構えてね」
「そこまで面倒は見切れん……私の任はお前の護衛だけだ」
「なら、その子お願い」
何を話している。誰なんだ、お前達は。
駄目だ。頭が回らない。血が溢れる。傷が痛い。身体が冷たい。
やられた。駄目だ。耐えろ。無理だ。
こんな痛み、味わったことがない。死んでしまう。怖い。痛い。死ぬ。痛い。痛い。痛い。痛い。
──やめろ。大丈夫だ。落ち付け。冷静になれ。
痛みは、無視できる。
魔力を全身に流す。痛覚を切る。感情も麻痺させる。
心臓? 心臓が何だ。傷に変わりはない。
「うぐっ、おあ、ああぁぁっ!!」
咄嗟に、『転移』を発動した。何故かはわからない。本当に咄嗟のことだった。
極短距離の『転移』だ。わずか数メートル。ただそれでも、胸に突き刺さる鉄の感触からは逃れることができた。
制御が上手くいかない。『転移』の光から抜けた後に妙な慣性が働き、俺は壁に転がり、全身を打ち付けた。
「あがっ……!」
痛い。頭を打った。
だが、それが幸いしたか。その痛みのせいで、胸の傷が一瞬だが気にならなくなった。その隙に『治癒』を発動させる。
「あら、逃げられた」
とぼけたアナイアの声。霞む目でそちらを見る。
そこに、アナイアと、もう一つの人影が立っていた。
黒い、凝った意匠ながら細身の鎧に身を包んだ男だった。
騎士と言っていいのだろうか。これまた妙に凝った兜で顔を隠し、右手に血の付いた長剣をだらりと垂れ下げている。
あれか。俺を刺したのは。
そして、左手には……何かが三つ、垂れ下がっている。
赤黒い汁を垂らす、それは……生首、か?
……そう、だ。あれは、あの顔は、さっき俺が見逃した奴らだ。
逃げる途中で見付かって、殺されたのか。口封じか。雇い主であるサルベールすら声を失っている。
その首を放り捨てるのを見て、アナイアが言う。
「あら、そっちの始末もしてくれたの?」
「怪しかったから、何となく、な……ところで、奴だが」
「ん?」
「『転移』まで使うのか。大した魔導師だ。底が見えない」
「ああ。ね、何か気になるわ」
「あ、あ、だ、誰だ……お前は……」
最後のはサルベールだ。あいつもこの男のことは知らないのか。
だが、アナイアの口振りから奴の知り合い、仲間であることは明白だ。護衛とか何とか言っていたし。
……落ち着いてきた。傷が治ってきたからか。
血の味がまだべっとり口の中に残っているが、それは仕方ない。気持ち悪いが仕方がない。
呼吸を落ち着かせる。傷を押さえる。心臓を一息に突かれたはずだが、何とかまだ生きている。
我ながらよく生きているものだ。無意識のうちに『治癒』を使っていたか。恐らくは貫かれた瞬間から。
「……死なないか。あの傷をこの短時間で」
「あら凄い」
アナイアと男が俺を見て感心する。馬鹿にされているような感じだ。
だが、今気にすべきことはそれではない。問題は別にある。
この鎧の男のことだ。俺は、刺されるその瞬間まで、こいつの存在に一切気が付かなかったのだ。
『探知』は使っていた……はずだ。少なくとも、サルベールみたいな普通の人間が感じ取れる程度には。
こいつもアナイアみたいに『隠蔽』を使っていたのか。俺の『探知』をすり抜ける程度には隠密性の高い『隠蔽』を。そして今もそれは同じで、俺はアナイアと同様この鎧野郎の気配を感じられずにいる。
まんまと出し抜かれた。アナイアに気を取られ背中を晒した。失態だ。
いつの間にか二対一、それも相当やる二人が相手だ。
これは、多分まずい。退くか、それとも……本気を出すか?
アナイア達は用心しているのか、まだ来ない。これ幸いと立ち上がる。
なお、サルベールはまだ呻いていた。
「どうする?」
「そうね……気になるけど、雇い主もいることだし。あの子はあなたに任せるわ、ギリング」
「わかった……もう、大方終わっているがな」
ギリング、という名らしい鎧の男が、そんなことを言って俺に向かってくる。
何だ。どういうことだ。もう終わって……?
と、その時だ。
俺の胸から、全身に、鋭い痛みと燃えるような熱が走ったのは。
「がっ……!?」
何だ。どういうことだ。
痺れる。指が。腕が。頭が。身体が。苦しい。息ができない。
傷は治したはずだ。胸の穴も塞いだはずなのに。なのに、これは。
別種の、異質の痛みだ。突き刺すような、ではない。燃え広がるような、全身を侵すような痛み。
これは、もしかして……
「毒っ……!?」
「その通り……まだ喋る余裕があるか」
ギリングの声を聞きながら、耐え切れず咳き込む。口を押さえた手の指の間から血が零れた。
目の前が真っ白になる。駄目だ。『治癒』だけじゃどうにもならない。
だが、解毒の方法がわからない。そういう魔法はあるが、今の精神状態では組めない。使えない。練習したこともない。
抵抗力を肉体の『活性』で無理矢理引き上げ、耐えるしかない。苦しいがそれしかなかった。
毒と抵抗力のせめぎ合いで全身がバラバラになりそうだ。『精神操作』で耐えるのにも限界がある。
「うぐ、あ……」
「苦しいだろう。すぐに終わらせてやる」
ギリングが二度、三度剣を振るって、それを脇に引く。また突く気か。
まずい。あの刀身に毒が塗られてあるのは明白だ。これ以上上塗りされたら本当にまずい。
ギリングが、奇妙なことに音もなく踏み込んでくる。反射的に『超化』を使い、『氷鎧』で右腕を覆うだけの籠手を作る。
それで、迫るギリングの剣を弾いた。
「ぬっ!?」
「くっそ……!」
『障撃』によって大きく打ち返し、わずかながら隙ができた。
本来ならここで反撃に行くべきだが……今は無理だ。
逃げなければ。毒はまだ回り続けている。このままじゃ動けなくなる。戦ってる場合じゃない。
だが……後退しようとした足が、膝が、がくんと砕ける。
「がっ……」
駄目だ。予想以上に、身体が駄目になっていた。
立てない。足に力が入らないだけじゃない。三半規管まで狂い出していた。全てが歪んで見える。床が傾いてるように感じる。
その中で、ギリングが体勢を直した。まずい。ヤバい。動けない。
剣を振り上げるのが見える。こびり付いた俺の血が宙に舞うのを。なのに動けない。意識だけが加速して、ただそれを見るだけ。
せめて頭だけは守ろうと、右腕の『氷鎧』を構えた。どうせこのままではジリ貧だったが、今はそれしかできない。
そう思った時──俺の耳にがんと響く声があった。
◇
「セイタさん!」
「セイタ!?」
シオンとキリカだった。二人の声が、アナイアとギリングの後ろから響く。
二人がそちらを向き、アナイアは目を剥いたように見えた。
シオンには、教えた『隠蔽』で二人一緒に姿を隠しているようにと伝えた。そのためだろうか。アナイアは多分『探知』を使えるだろうが、それでもシオン達の『隠蔽』は隠れるのに充分だったか。驚いたということはそういうことだ。
だが──
「な……どうして、来た……!」
「どうしてって……」
「セイタさんの『思念話』が……急に変になって、それで……」
「って、シオンが」
くそ……そんなつもりはなかったが、シオンには伝わっていたか。
多分、俺が刺された時の動揺だ。それを確かめに来たのか。
心配してくれたのは嬉しいが、この状況では……
「それより、どうしたのよあんた!? その血は!? それにこの人達は!?」
キリカが叫ぶ。それがアナイア達の注意をさらに引いたようだった。
来るべきではなかった。アナイアもギリングも危険だ。今の俺では守り切れない。くそ。失態だ。
今さら考えても仕方がない。だが、どうすれば……
「あら……見知った顔ね」
「え……?」
アナイアがキリカを見て笑った。しかしキリカはアナイアのことがわからないようだった。顔がわからないか、それとも元々会ってもいないのか。
どちらでもいい。二人を守らなければ。
サルベールの始末はこの際後回しだ。とにかく今は、二人を。
でも……身体が動かない。
どうすれば……
「シオ……」
「逃げろ」と言おうとした。もうどうしていいかわからなかった。
そこで、声が止まってしまった。
シオンの目を見たからだ。シオンの目が、俺を向いて悲しそうな色に、そして次の瞬間には、アナイアを向いて憤怒の色に染まったからだ。
「……セイタさんに」
その両手に、魔力が集まっていくのが見える。
青白い光が手を隠すほどに眩く、辺りを照らし、渦巻いている。
それを手中に凝集した瞬間──シオンが叫んだ。
「──何をしているんですかっ!!」
咆哮一閃、シオンの両手から『氷矢』が放たれた。




