六十一話 第三者
誰だ? 何故ここにいる?
それよりも致命的な疑問が浮かび、俺はぎょっと顔を上げた。
暗がりからぬるりと現われた、黒いローブと外套で身を包む細長い人影。
口元だけがフードの隙間から覗き、俺から見えるその唇はぷっくりと美しい肉厚で、しかしどこか紫っぽく毒々しい印象が拭えない。
声と併せて、女と断定するにいささかの迷いもなかった。
だが、問題はそれではないのだ。
「まったく、サルベール様。ご勝手はなさらないように頼みましたのに」
女が、奴隷商のものらしき名前を呼んで俺達に笑いかける。
奴隷商はなおも怯えていたが、女が来たことにわずかな安堵を覚えているようでもあった。
こいつか。こいつが護衛の魔導師とやらなのか。
ならば、現状の異常さにも納得がいく。
異常さというのは、俺がこいつに気付かなかったことだ。
俺は、『探知』を使っていた。なのにこの女は、今までも、そして今も、その存在を俺に察知させずにいるのだ。
腕がいいという予想はついていた。だが、俺の『探知』をすり抜けるほどの『隠蔽』を使えるまでだったとは。
ミナスの森で戦った魔導師達と同等か、あるいはそれ以上か……?
「ア、アナイア殿! 何をしていたのだ!」
「何って、探していたんですよ。サルベール様がいつの間にかどこかに行ってしまわれたから。何してるかと思ったら勝手に人雇って勝手に始めていらっしゃるんですもの。困りますわ」
「困る!? アナイア殿が何もしようとしないからだろう! 私を狙っている賊の名前も、居場所もわかったというのに!」
賊呼ばわりは一瞬イラッときたが、黙って二人のやりとりを聞く。勝手に話してくれるなら好都合だ。
ただ、女がサルベールとやらではなく、俺の方を見ながら薄気味悪い笑みを浮かべているのが気になったが。
「全て私にお任せいただけると、そう仰ったじゃないですか。こうならないために私は待ってほしいと言ったのに」
「な、こ、それが護衛の言うことか! 私は雇い主だぞ!」
「そうは言いましても、これじゃただ墓穴を掘っただけでしょう?」
言われて、サルベールが言葉を詰まらせる。歯に衣着せぬ女の言に、雇い主だというのに完全に言い包められていた。
その時点で、俺は警戒を厳にした。
俺を見て焦ってもいない。サルベールを馬鹿にする余裕もある。何より、そんなに無防備に見えて隙がない……気がする。
危険なのは、こいつだ。
多分キリカを襲うよう仕向けたのもこいつだったのだろう。
確証はないが、そんな気がした。言いがかりかもしれないが、だとしても別に問題はなかった。
こいつが敵なのは変わらない。敵は全部排除する。
サルベールの襟を掴み、手首から出した『氷刀』を頬に当てて黙らせ、女を見た。
「言い合ってるのは勝手だがな。いつまでも無視してくれてっと、お前の依頼主殺しちまうぞ」
「あらぁ、ごめんなさい。除け者で寂しかった?」
「冗談を言ってる場合か?」
「多分、違うわね」
ふざけている。これだけは確信を持って言えた。
俺も大概ふざけているが、この女はさらにその上だ。依頼主と言ってはいるが、サルベールのことを微塵も気にした様子がない。
俺が『氷刀』の刃をぐいと引いて、サルベールが血を流しながら喚いていても、何ら顔色を変えないのだ。どうかしてる。
「一応聞いておくけど、俺の連れに手出してくれたのはお前らか?」
「連れ……って言うと? 赤髪でツリ目がちの可愛らしい子かしら?」
とぼけた様子で女が言う。
ふざけやがって。わかってておちょくってるのか。
女が笑い、肩を竦める。
「そうねぇ。そちらの方が嗅ぎ回ってる蠅が目障りだって言うものだから、ちょっとご足労してもらったわ。足が早くて逃げられちゃうかと思ったけど、捕まえちゃえばこっちのものね」
「……」
「あなた、セイタって言うのよね? あの子、口が固くて中々あなたのことも話してくれなくて……本当、困ったわ」
「……」
「大事にされてたのね? そういう関係? 駄目よ、女の子は一人にしちゃ。この辺りは物騒──」
「もういい。黙れ」
よく喋る女だ。いい加減黙ってもらおう。
サルベールの頬を切り裂きつつ、右手を女に──アナイアに差し向ける。展開するのは『雹撃』の魔法式。距離は十メートルもない。適性距離だ。
が──それと同時に、アナイアも右手を上げていた。
「なん──」
無数の氷片を目の前に集めながら、おかしい、と思った。
上げられたアナイアの右手には、何の魔力も込められていない。魔法式も組まれていない。
ただ俺に向けただけだった。しかし、同時にそれだけではないと思った。
瞬間、俺はサルベールを蹴り飛ばしつつ、反射的に後ろに退いた。
それと同時に、俺が立っていた位置に石と土の槍が床から突き上がる。木片と石材が割れて飛び散り、視界を覆う。
「フェイントッ……!」
「あら、いい反応」
舐めた真似をしてくれた。しかしただ舐めたわけではない。
アナイアの魔法──多分『練成』だ──は、無詠唱だった。しかも、それでいて威力が確保され、展開速度は俺の『雹撃』より早かった。
並の魔導師ができることではない。こいつは、やる。
失態だ。そもそも、杖など補助のための魔導具を持たないことに違和感を覚えるべきだった。
だが──今度はこっちの番だ。
『雹撃』を無造作に前方へ放つ。石槍を砕いて氷片が散弾のように飛ぶ。
それをアナイアは『障壁』で受け止める。赤い光と細かい氷の結晶が奴の前で弾けていた。
さすがに一発では無理か。なら、何発もだ。
流れで戦闘になってしまったが、この際どうでもいい。
さっさと始末させてもらおう。女だからって容赦はしない。
先程回収した『榴弾』を懐から出し、『雹撃』に続いてアナイアに投げる。俺は野球の経験などないしノーコンだが、そこは『念動』で誘導する。三方向から迫る土塊に、アナイアの目が細くなった。正体を悟られたか。
「ちょっと、それは危ないって……!」
言って、アナイアは身体の前で手を重ねた。同時に床からせり上がってくる、土と石と木の壁。
『練成』だ。そうしてできた壁が俺の『榴弾』を遮る。
だが、面倒なので構わず起爆する。
爆音、障撃、熱、破片。それらを周囲に撒き散らして、『榴弾』が内部から炸裂した。
屋内ではどこも殺傷範囲内だ。放った俺本人もが『障壁』で防ぐ必要があった。ただしサルベールを守る義理はないので放っておく。
「ぎゃあぁあぁぁぁぁっ!!」
後ろから悲鳴。悲鳴が聞こえるということは、生きているということだ。
問題ない。今は目の前の土壁の向こうのアナイアだ。
土壁は『榴弾』の炸裂で大きく穴を穿たれていた。だが、崩れ切ってはいないし、その穴の向こうにアナイアもいない。
まずい。強力な『隠蔽』を使った奴に『探知』は効かない。出力を上げればまだわからないが、それでは咄嗟の反応が遅れる。
耳を澄ます。目をこらす。煙の中で気配を探る。
いや、違うな。探るのは魔力の流れだ。
風の流れで揺らめくように、土壁に残った残滓から漂う魔力を辿り──
「……後ろか!」
咄嗟、発動した『障撃』に何かがかち当たり、女の悲鳴が上がる。
振り返って見る。案の定、アナイアだった。俺の『障撃』で弾かれたらしいナイフを手に、踏鞴を踏んでいる。
「残念……背中に目でも付いているの?」
「手癖の悪い」
口汚く吐き捨てつつも、この女への警戒心は俺の中でなおも膨れるばかりだった。ナイフまで使うとはな。
一体いつの間に背後に回ったのか。多分、予想以上に俺の視界までも眩ました『榴弾』の炸裂に乗じたのだろう。咄嗟によくやったものだ。
判断力、行動力、何より魔力……この女はやはり危険だ。生かしておけば、必ず俺に、俺達に害をなす。
「殺す」
踏み込みながら、無造作に右拳を振るう。顔面を狙ったが外れる。
次いで、左拳で腹を狙う。今度は後ろに飛び退かれ、これも外れる。
だが──
「あらっ?」
その先は壁だった。背中をどんと打ち付けて足を止めるアナイア。
そこを狙う。両手に『氷刀』を握り、両側から鋏のように斬りかかる。
「おぉあっ!」
氷の刃が、手応えを俺に返す。
だが、斬ったのはアナイアの肉ではない。床からせり上がった『土槍』と『土壁』だった。
また咄嗟に防御された。あまりに反応がよ過ぎて、若干頭の奥にピリッと苛立ちが走った。
「今のは危なかったわ」
言いながら、アナイアがふっと腕を振るった。何となく嫌な予感がして、その場から飛び退く。
と、俺が立っていた位置に『土槍』が突き出ていた。しかも何本も、剣山のようにだ。
やはり、発動が早い。酷く魔法に熟達しているのがよくわかる。
若いように見えるが……見かけは信じない方がいいのか?
「まさかこれほどだなんて思ってなかった」
「そうかよ」
「ええ。結構危ない相手に目を付けられてるとは思ってたけど。何せ多頭竜と戦った相手でしょ?」
「よく知ってんな」
「有名よ、あなた」
キリカが言っていたが、まさか本当に名前が割れてるとは。
ただ、顔は割れてなかっただろう。ここでこいつらを殺せば問題は……
……いや、だったらさっきの奴らも始末しておくべきだったかもしれない。今さら詮無いことだが。
「でも……」
アナイアが一度切り、それから目を細め、笑んで言う。
「……何か、気になるのよね。あなたの奇妙な魔法。というか、戦い方……? 魔法の腕の割に、どこかちょっと、慣れてない感じが」
「……」
「ねぇ……あなた、何か隠してなぁい?」
「……」
意味深だった。言葉も、表情も。
どういう意図で言ったんだ。カマをかけたのか。それともただの時間稼ぎか。
あるいは、何かを悟って……?
馬鹿な。『隠蔽』で魔力は隠してある。わずかな漏れもないはず。何がどうバレるというのだ。
下らない話術だ。いささかも乗ってやる必要はない。
左手の魔力で『榴弾』を作り、地面から引き寄せる。計二個のレモン大の土の塊だ。今度は防御ごと吹き飛ばしてやる。
そうやって『榴弾』を振り被った瞬間だった。
俺の背中に、鋭い痛みが走った。