五十六話 挟み撃ち
水桶に目一杯湯を溜めてやって、浴室にやったキリカをシオンに任せた。
これは俺の勝手な考えだが、今のキリカには人目があった方がいい。自分一人だと何をどう思い詰めるかわからないからだ。
かといって俺が浴室に入るわけにもいかない。ここはシオンに任せるのが穏当だった。女同士ならば変に気を張る必要もないし、楽だろう。
さて、普段ならば女の子二人が浴室でくんずほぐれつなどといったらもう辛抱ならんというものだが、今の状況でそんなこと考える余裕は、さすがに今の俺にもなかった。
考えるべきは、礼の奴隷商だ。
今回のことを見るに、相手は大分躍起になっている。護衛に魔導師まで雇って、自分を嗅ぎ回る相手はその背後まで洗おうという動きようだ。
多分、収まりがつかないのだろう。
何せ、王国でも有数の大手奴隷商会から金を奪って逃げたのだ。引くも地獄なら突っ走るのみというところか。
であるならば、このまま終わるということはあるまい。
嗅ぎ回っていたキリカを捕らえておきながら、逃した。しかし俺の名前は吐かせた。保身のために、まず俺を排除したいと考えるはずだ。
宿が割れる可能性も皆無ではない。襲撃は常に考えられる。常時、警戒を怠ることはできないだろう。
ならばと、俺はこの部屋に打ち込んだ『楔』に意識を向けた。
まず、この『楔』という魔法。遠隔地にあっても俺と結び付きのある魔力の塊を残す魔法で、今までは『転移』の目印として扱ってきた。
だが、これをもう少し発展させて使うことはできないかと考えた。
そうだ。俺は『氷矢』にこの『楔』を打ち込んで放つことができた。ならば、その逆も可能ではないのかと。
つまり、『楔』に別の魔法を組み込むことで、俺の制御を離れても発動し続けることにならないかと。
結果は成功だった。先程キリカを探しに行く時にやった『結界』だ。『楔』に打ち込んだ『結界』は、今も効果を残し続けている。
『楔』はその性質上、時間が経ち過ぎる、数を打ち込み過ぎて俺が存在を覚え切れないといった要因で消えてしまうが、これ一つに集中するならば絶えず魔力を注ぎ込むことで保持は可能だった。なので、これを利用することにする。
この『楔』に、もう一つ魔法を加える。『探知』だ。これで、この『楔』は常時稼働し続ける警報の役割を持ってくれるだろう。
精度をある程度保つために、探知範囲は百メートル前後にしておく。これならば俺の魔力消費も抑えられる。
……何というか、これはもっと応用が利きそうな技術だな。
例えば攻撃魔法を組み込んで感応式の罠にするとか、あるいは衣服に付呪することで咄嗟の反撃手段にするとか。『楔』は極々単純な魔法、というより魔力の操作技術だ。発展の伸び代はかなりある気がする。
いかんな。キリカの心配をしなければならないのに、こんなことで一人勝手にワクワクしていては。
ただ、対抗手段は必要だ。今軽々と動くわけにはいかない以上、待ち構えて痛い目に遭わせる必要がある。「罠」という手はこの状況において最適で、そして唯一使える手段と言えた。
何にせよ、まだ終わっていない。これは始まったばかりだ。
喧嘩を売ったのはこっちが先かもしれないが、キリカに手を出した以上、容赦しない。こちらの保身のためにも、本腰を入れて奴隷商と魔導師を探し出してやる。
そして、殺す。跡形もなく消してやる。恨みなど残らないように。
綺麗さっぱり片付けなければ、俺にも、キリカにも憂いが残る。
そうするわけにはいかない。キリカには、早く元に戻ってもらわないと。
あの、明るくて掴みどころのないキリカに──
と、そうやって『楔』に意識を集中させていると、二人が浴室から上がった。
俺は険しい顔を止めて、シオンとともにキリカをベッドに座らせる。
それから、しばらくキリカにつきっきりで『治癒』を使った。
「痛くないか?」
「平気。もう大丈夫だから」
「でも、傷が残ったら嫌だろ」
「……そうね」
と言っても、俺の『治癒』はそれこそ際限なく魔力を注ぎ込みさえすれば、欠損部位すら完治させるほどに強力なものだ。多少酷い傷だろうと、跡が残るということはまず考えられない。
実際、シオンにも確かめてもらった。キリカの肩や背中に付けられた無残な傷は、ほんの少しの赤みを残してなくなっているということだった。
よかった。一生ものだからな、こういうのは。
男なら勲章でも、女の子にとってはただただ辛くて痛いだけだ。たとえ記憶が残っていようと、傷だけでもなくなるのは無意味ではない……はずだ。
が、キリカは、それでも少し気にした様子で俺に怯えた目を向けた。
「……セイタ」
「何だ?」
「セイタもやっぱり……傷物の女って嫌?」
えっ。
おい。いきなり何を言い出すんだ。
冗談でも、自分のことでも、傷物と称すのはよくないことだろう。
いや、冗談ではないか。何せキリカは被害に遭った本人だ。
もしかしたら、俺の『治癒』の効力を知らなかったら一生ものの傷を付けられたと思っていたかもしれない。
それに、何より、実際にあの傷を付けられたのは覆しようのない事実だ。
記憶だけにしか残らないとしても……傷は傷だ。
でも、俺は……
「傷物なんかじゃねえよ。お前は」
「……」
「傷なら、何度だって治してやる。だからそんなの、俺は全然気にしない。ただ、お前に手を出した奴らは殺してやるけど」
「……ぷっ」
噴き出された。何かおかしなこと言ったか。
「笑うな」
「だって……セイタ、馬鹿みたいに真面目な顔」
「真面目な顔しちゃ悪いのか、俺が」
「悪くないけど、変な感じ」
いや、うん……確かにここ最近はずっとふざけてたからな。
ふざけてはないか。自然体なだけだ。スケベとアホが信条の俺だ。そうしていないといざという時に身体が動かない。頭が働かない。
煩悩が原動力だ。何でも余裕を持たないと駄目ということだな。
余裕がなくなるのは……シオンとキリカに何かあった時だろうか。
「変で悪かったな。落ち着いたんならとっとと寝ちめえ。明日、お前の服を買い直しに行くからな。その着替えだけじゃろくに外も出られないだろ」
「うん……ごめん。ありがと」
珍しくしおらしくなったキリカ。
……が、一向にベッドに潜らない。顔を伏せたまま、自分のベッドで胡坐をかいた俺と向き合う形となる。そのまま数十秒経った。
「……寝ろよ」
「……うん」
「いや、うんでなくて」
早く寝ろと言うておるのに、キリカは寝ない。シーツを掴んだ手が戸惑うように開いたり閉じたりしている。
何だ。何か言いたいのか。だったら……
「セイタさん」
声を出したのは、ベッドの脇に立っていたシオンだった。そちらを向く。
シオンは……笑っていた。
「何、何だ? シオン」
「あのですね……お願いがあるんです」
「は? お願い? 何だ?」
「はい……」
何だ。シオンの頼むことならいくらでも聞く余裕はあるぞ。
でも、何故だろう。普通に可愛らしいはずなのに、シオンの笑顔が少し怖い。迫るような何かを感じる。
これは……そうだ。あの夜みたいな……
って、おい、まさか。
「セイタさん、キリカさんと話して頼もうと決めたことなんですけど」
「う、うん?」
「今夜は……私と一緒に、キリカさんを可愛がってくれませんか?」
見かけによらずとんでもないことをのたまうシオンに、俺は絶句する。
その隙を突いてベッドを降り、こちらに迫ってくるキリカに、俺は反応できないのだった。