閑話 終われない
初閑話です。
時系列としては一話の直後になります。ついでに初めての主人公以外の視点です。
タイミング的に今挟むのはいかがなものかと思いましたが、話的にはもういつ挟んでも同じだとも思いました。なので多分今後の位置変更もないです。
飽きるほど死を見た。腐るほど殺してきた。
それでも、僕は妹の死に顔を忘れたことはない。
無数の死の中で、最も残酷に、最も美しく僕の中に残り続けている。
◇
「お前も灰に帰る」
黒く禍々しい顔を笑顔に歪めて、魔王はそう言った。炎熱魔法を得意とするヴォルゼアらしい物言いだった。
「世界と希望を背負うのは苦しかろう。我が全てから解放してやる」
ヴォルゼアはそう言った。仲間達が恐怖と怒りと闘志でもってそれに返す。
僕は何も言わなかった。心も冷えていた。
とうとうここまで来た。そしてようやく終わると思った。
僕は剣を抜いて、魔王と相対した。
世界を救うためではない。恨みを晴らすためだけに。
戦いが始まった。長く辛い、僕の宿願の戦いが。
何も覚えていない。どれだけ戦いが続いたのかも。どれだけの魔法が飛び交い、どれだけ剣戟を交わし、死とすれ違ったのかも。
ただ、死んだ順番だけは覚えている。
最初に、ダクトルが死んだ。
次に、クラウゼヴァルト。そしてタウブリスとロア。
僕とセレンだけが残された。最後の戦い。最後の仲間。
そのセレンも、僕を庇って殺された。
仲間はいない。あとは僕だけ。
それでも悲しくはなかった。涙も出なかった。仲間達の最後の言葉通り、僕は魔王を見据え続けた。
耐えたのではない。本当に僕は、魔王を殺すことしか考えられなかったのだ。
魔王の息は絶えかけていた。その身体は崩れ、腐り始めていた。
僕にも最後の一撃分の力だけが残っていた。何一つ小細工はできない。二の太刀を繋ぐことすらできない。正真正銘、最後の一撃。
僕は走る。魔王が迎え撃つ。最後の一撃。宿願の一撃。
世界も仲間も希望もどうでもよかった。全てを賭けて、捧げて、ようやく届く、ただ恨みを込めた絶望の一太刀。
それが、魔王を殺した。
そしてきっと、僕をも貫いたのだろう。
魔王の剣が僕を貫いた。腹を、痛みが引き裂いていく。力と命が流れ出して、僕の身体は冷たい床に転がった。
その一撃と、魔王の死にゆく姿。
それが、僕を走らせ続けた憎悪も、悪夢も、命すらも。全てを壊して、葬り去ってくれるのだと思った。
全部、終わらせてくれるのだと思っていた。
でも……そうはならなかった。
◇
全て消えた。痛みも消えた。暗く静かな止まった世界。
そこに走った、鮮烈な痛みと光、そして命。
僕を壊して、切り裂いて、紡ぎ直す、おぞましいほどに力強い力の奔流……
それが過ぎ去り、何もなくなった時……僕は、生きていた。
痛みと疲れの只中に、心身を転がしつつも……僕の目はこの世を映していた。
「な……にが……」
生まれ直したかのように、僕の目には世界が眩しく映る。
像を上手く結べない。それでもようやく見えた世界は、死ぬ前に見たのと同じ風景、魔城の玉座の間だった。
しかし、違うものが一つあった。
そこには、いるはずのない誰かの影が立っていた。
「だれ、だ……?」
魔王かと思った。でも違う。その影の姿は人の形をしていた。僕と大して変わらない背丈の、恐らく……男。
鎧も着ない、剣も佩かない、この戦乱の只中にある魔城にはとても似つかわしくない、ただの人……
「だ……れ……きみ、は……」
何者なのかと、彼に尋ねようとした。しかし声が出ない。届かない。
彼は背を向けたまま、明後日の方向を向き、どこか困ったような仕草を見せる。
魔のものではない。確信があった。しかしならば、何者なのか?
何者なのだ。君は何者なのだ。何故ここにいる。どこから来た。どうやって来た。
君が……僕を生き返らせたのか?
彼は答えない。僕は尋ねられない。
ゆっくりと時間が流れていく。再び意識が薄れていく。蘇ったらしい僕の身体は、しかし痛みと疲労に苛まれていた。もう起きていられなかった。
彼の姿が光に包まれる。僕の目の前で消えていく。
どこへ行くのだろう?どこから来たのだろう? 君は一体何者なんだ?
彼が消える。伸ばした手が床に落ちる。瞼が閉じる。
僕の全てが闇に包まれる。涼しく、冷たく、しかし死のものではない闇の中に……
──次に目を覚ました時、僕は、仲間達と生きて同盟軍のテントの中にいた。
その時には、全てが終わっていた。
◇
あれよあれよという間に、僕は兵士や将軍に歓声で迎えられた。
だが、困惑する僕をさらに困惑させたのは、仲間達との再会だった。
信じ難いことに、僕の目の前で死んでいったはずの仲間達は、その負傷も綺麗さっぱりに僕の目の前にいて、僕と同じように同盟軍の喜びの声を受けていた。
そんな中で、僕達はふと疑問に思う。
「本当に魔王は死んだのか?」
仲間達にその実感がないのは当然だった。魔王が倒れるのを見届けずに死んだ……はずなのだから。
かくいう僕も、あまり実感がなかった。思い出せば、そうだ、魔王の深くにまで刃を通した記憶はある。
だが、仲間達が生きているということが、その事実が、全てをぼんやりさせているような気がした。
もしかしたら、全てが幻覚だったのでは、記憶を弄る魔法でも使われたのでは……と。
「魔王は確実に果てました。纏っていた鎧も、死骸も確認済みです」
兵士達のその報告に、僕はほっと胸を撫で下ろす。
だが、それはそれで疑問が残るのだ。
全てが現実だったとするならば、では、僕達はどうして生きているのか?
仮に助かっていたとしても、少なくとも無傷でいることなどあり得ない話だった。それだけの戦いだったのだ。
仲間達はみな、記憶がおぼろげだった。しかしそれでも、苛烈な戦いであったことは記憶にある。
全ての鍵は、最後まで魔王と向き合っていた僕にあるとみなが思っていた。
しかし……
僕達が傷病テントから出て、総軍に顔を見せた時に湧き上がった怒涛の歓声が、全てを曖昧にしたまま洗い流してしまった。
僕達でさえ、僕さえもが、その波に巻き込まれ、そして思うのだった。
ああ、戦いは終わったんだ、と──
◇
重傷者、軽傷者が大勢いた。
それに負けないくらいの死者も出た。
そんな彼らを弔い、労うように、宴が開かれた。
武骨で、何の飾り気もない宴だった。しかし、規模が桁外れだった。
魔城を臨むことができるほどにしか離れていない陣で、万からなる軍勢は、沸きに沸いた。
恐らく、ここだけではないのだろう。魔城の南側に展開した同盟軍数十万の軍は、魔族への警戒を続けつつも、浴びるように酒を飲んでいるはずだ。
笑って、泣いて、叫んで、吠えて、喚いて。
そうして、この名状し難い、この五百年間誰もが味わったことのない感情を発散させているのだろう。
つまりは、自由──解放への喜びに。
「変な気分。魔王と戦った私達が一番その実感がないなんて」
セレンはそう言い、苦笑して盃を揺らした。僕も全く同意見だった。ダクトルなんかは、まるで気にせず酒を煽って鎧も上半分も脱ぎ捨てて騒いでいたが。あの胆力が羨ましい。
「ロアとタウブリス、それからクラウゼは?」
「クラウゼは落ち着かないって空を飛んで、魔軍を探っているわ。後の二人は、見ないわね。どこに行ったのかしら」
「はは……唯我独尊だな」
いつものことだ。今さら何ということでもない。
タウブリス……魔人である彼とは、魔王領で戦うようになってから仲間になった。魔王に迫害される一族の先頭に立って、魔王への復讐のために僕達に合流したのだ。
もう一年以上もの付き合いで、僕達は慣れたものだが、同盟軍の中には彼を危険視する者も少なくはなかった。タウブリス自身の抜き身で武骨な性格も、それを助長させていたのかもしれない。
だが、そんな彼らの視線を軟化させたのが、ロアだった。
大魔導師としての評価を確固たるものとしていたロアだが、その見た目は実年齢以上に幼い少女そのもの。
そんな彼女が妙に懐いているとあれば、人々のタウブリスへ向ける視線も必然、柔らかくならざるを得ない。
「まるで親子みたいね」
いつかセレンはそう言った。僕もそう思った。
親子ほど年が離れているということもあったし、二人とも基本的には寡黙で、無表情という点が共通していた。
外見はまるで似ていなかったが、それを加味した上でもなお、二人は並ぶと親子みたいだった。
そして……魔王との戦いで、僕達は見た。
致命傷を負ったロアを……タウブリスが魔王の攻撃から庇い、二人一緒に……死んだ姿を。
「……親子以上だよ」
僕がそう言うと、セレンは「そうね」と小さく返した。
喧騒の中で、消え入りそうな声だったが、僕にははっきりと聞こえていた。
そうだ。ロアとタウブリスに限らない。僕達は今や、運命共同体だった。
生きるも死ぬも一緒だった。だから、みんなで生きて帰った。
それでいいと思った。思い込もうとした。生きていることに疑問を持ってはいけないと。
……それでも、僕の頭の片隅には、微かにあの光景が残り続けていた。
僕達に背を向ける、謎の存在──
彼が、僕達を救ったのだろうか? 仮にそうだとして、どんな理由で?
そして……彼は一体何者なのか?
あるいは、彼こそが教会の言う神だったのだろうか。僕達に慈悲をくれて、蘇らせてくれたのだろうか。
現実感のない話だ。しかし、実際に起きたのだから何とも言えない。
それはそれで、感謝すべきことなのだろう。それはわかっている。
でも、この戦場で死んだのは僕達だけではない。数え切れない人間が、ここで骸を晒していっているのだ。
そんな彼らを差し置いて、僕達だけが──いや、僕が生きているというのは、何とも複雑で、気まずいものを感じた。
そうだ。仲間達はとにかく、僕なんて。
僕なんて、妹の仇を討つためだけにここまで来た僕なんて、もう──生きている必要などないのに。
「アレス? どうしたの?」
「え?」
セレンに声をかけられ、ばっと顔を上げた。
覗き込むような姿勢で、僕の目の前に彼女の美しい顔が、碧い瞳があった。
「いや……何でも、ないよ」
「本当に?」
「ああ……いや、ちょっと疲れてるのかな。さすがに、あんなことがあったから……」
一口も口を付けないまま、葡萄酒の入った盃を置いた。そのまま、天幕の中の喧騒をちらりと見やる。
僕達は主賓のような扱いであったが、宴に早々に酔いが回ったせいか、それを気にかける人間はもういない。元々僕は影の薄い勇者と言われることがままあったが、今は変に気を回されないのが楽だった。
「少し、外の空気を吸ってくるよ」
「私も行く」
セレンは僕についてきた。同盟軍陣地の裏には森が広がっていて、いくらか喧騒も遮られ、涼しく静かな空気が流れている。
「大丈夫?」
上を見ていると声をかけられたので、「ああ」と気のない返しをした。
何を見ているでもなかった。考えているわけでも。
もう、何もなかった。全て終わってしまったのだという実感だけがあった。
これを望んでいた。そのはずだった。
だが……その望みの中で、僕は生きていなかった。
だからだろう。こんなに空虚な気持ちなのは。
僕は……全てをやり終えた後を、何も目的のない中を今、生きているのだ。
「まだ少し信じられない」
セレンに言うでもなく、僕は呟いた。隣を歩くセレンの足音だけが妙に耳に響く。
「本当に終わったのかな」
「終わったのよ」
「そうかな……」
厳密には、まだ終わってはいない。
魔王は死んだ。けど、魔軍も、魔王領の都市も砦もまだ大量に残っている。
人類が平和を勝ち取るのはまだ先だ。それまで、戦いはまだ終わらない。
しかし、魔王の死が区切りになるのは確かだ。
頭を失った魔軍は、統率を失うだろう。逆に、同盟軍の勢いは増す。
言い方は悪いが、勝ち馬に乗るということで大陸諸国の同盟軍への注力も増すはずだ。そうすれば、魔王領の解体はほど遠くないだろう。
そこに、僕達の役割はない。
助力はできるだろうが、不可欠ではない。僕達がこの戦いでなすべきとされていた役割は、魔王の撃破だったのだから。
死を賭して、そうすることだけを望まれた。そして、果たした。
後は、自分達の仕事──エーレンブラント軍の将軍は、そう言っていた。
「これから、僕達はどうなるのかな」
半ば、死を覚悟していたセレン達。そして死んでもいいと思っていた僕だ。生きて帰ってしまって、どうすればいいのかわからない。
セレンは言った。
「一度、帰還して国王に謁見してほしいって。三国ともそう言っているみたい」
「もしかして、三国とも回らないといけないのかな?」
「そうね。どこにも凄くお世話になったし」
「参ったな」
そういうのには、いつも慣れない。元々大した出自でもないのに、いつの間にかやんごとない人達とよく関わるようになってしまったものだ。
しかし、それも義務というものだろう。恩もあるし、引け目もある。そうしろと言われたら、従うだけだ。
今、同盟軍は魔軍の残党を狩りつつも追撃を中止し、体勢を整えているとのことだ。
死者は三国合わせておよそ十万。それだけの被害を受けて、すぐに動けるはずもない。あちこちのテントに負傷者、死者が並んでいるらしい。
一方で、魔軍の被害も甚大だ。
数の上では四十万とこちらと互角以上に見えた魔軍だったが、同盟軍の魔導兵の連携が上手くいったらしく、実に半数近くをこの戦いで討ち取った。
もしかすると捨て身でなおも攻めてくる、という可能性もなくはなかったが、撤退というある種理性的な選択をしたことから、その線は薄いと思われた。
「魔族どもも命が惜しいということでしょうな」
将軍は笑ってそう言っていた。それでこちらも助かっているのだから、願ったり叶ったりだ。
とにもかくにも……ここで一区切りだ。
僕達は前線には必要ない。少なくとも今は。だからこその帰還要請。
……不思議だな。やり遂げたはずなのに。本当にこれが最後だと思っていたからなのだろうか。
この先のことを、何一つ考えられない。何もわからない。
魔王を殺すためだけに、僕はここまで来た。僕の全部がそのためだけにあった。
その先も、それ以外も、僕にはなかった。
僕は、魔王を殺すためだけの兵器だった。
そんな僕が、今さら、この期に及んで、何を……
……あるいは、残るべきなのかもしれない。
ここで、魔軍と戦って、殺して……それが一番相応しいのかもしれない。
もしかして、それを望んでいるのかもしれない。他ならない僕自身が。この虚ろな気分は、そのせいなのか。
僕は……死にたかったのか?
全部終わらせて、妹の場所に行きたかったのだろうか?
……そうだったのかもしれない。
なのに生き残ってしまって……この気持ちは、そのせいなのだろうか。
「アレス……」
気付けば、セレンが僕の目の前に立っていた。
不安げな目を、僕に向けている。その瞳が揺れている気がした。
「何でもないよ」
「そうは見えない」
「まだ少し、疲れてるんだ。多分、それだけ」
そう、それだけ。
それだけで済んでいる、というのが、そもそもおかしいのだが。
気怠さはある。疲労感も、わずかな筋肉痛も。
でも、それで済んでいるわけない。僕達は、死んだんだ。そのはずだった。
何で生きているんだ? 生きていてはいけないような気さえする。
「……セレンは、おかしいと思わないか?」
「……何が?」
「僕達のことだよ」
手首を掴み、拳を作ってみせる。セレンの目がわずかに細くなった。
「僕達は、死んだんじゃなかったのか? 僕は見たよ。みんなが死んでいくのも、セレンが……死んだのも」
「それは……」
「僕だって死んだんだ。魔王と一緒に。この腹が、ほとんど真っ二つに千切れるのを見た」
セレンがぎょっとした目で唾を飲んだ。構わず続ける。
「もしかしてこれは夢なんじゃないかって、まだどこかで思ってる。怖いんだ。全部、何もかも嘘で、本当は今も僕は死にかけていて、魔王も死んでいなくて……」
「アレス」
「だって、全部おかしいんだ。今になって、全部おかしい気がしてきた。そもそも僕なんかが勇者だなんて、あんな魔王と戦える力を持っているなんて、そんなこと、本当に、僕は……」
「アレス!」
セレスに怒鳴られ、我に返った。両手が震えていた。舌も、喉も、肩も。
それは……セレンも同様だった。
「ご、ごめん……つい、僕、その……」
「……不思議なのはわかるわ。不安なのも。みんなそうよ。何があったのかわからないまま、気が付いたらテントにいたんだもの。私も同じだった……でも」
一歩、セレンが僕に歩み寄る。そして、その手を僕の胸に置いた。
鎧も胸当てもない。ただの擦り切れた服越しに、セレンの手の温度が染み込んでいく。
「アレスは……勝ったのよ。私もここにいる。私達は本当に、生きているの」
「生きている……」
「そうよ」
そう言って、さらに一歩。
セレンが僕の胸に飛び込み、口付けてくる。
突然のことに言葉を失い──そもそも口が塞がっている──固まる僕の背に、セレンの手が回される。
身体全部で、彼女の引き締まりつつも柔らかい身体の暖かさを感じる……
「……んはっ」
唇を離され、しかしそれでも腕は僕の背に回ったまま。顔も鼻と鼻がくっつきそうな距離だ。
「……こうするのも、久し振りね」
「うん……久し振り過ぎて、驚いた」
そもそも、これは何度目のキスだっただろうか。
仲間の中でも、セレンとは一番長い付き合いだ。
でも、五年も一緒にいて、僕達はそういう関係になってはいなかった。唇を重ねたことはあっても、数えるほどしかない。まして、身体なんて。
それは、僕が拒んだからだ。
いや、受け入れなかったと言うべきか。
セレンのことは、嫌いではない。騎士として信頼が置けて、背中を預けられる数少ない人間の一人。最も頼れる仲間で、友人で、女性としても人間としても素晴らしいものに満ち満ちていると思っている。僕が最も尊敬する人間の一人だ。
そして当然……魅力的だとも思っている。そういう感情、劣情を抱いたことがないと言えば、嘘になる。
でも、駄目なのだ。
どれだけ彼女を信頼しても、好きになっても、僕は彼女を欲せなかった。
何故なら、僕は自分のことを、いずれ下らない死に方をする人間だと思っていたからだ。
旅の途中で、戦いの中で、運も力も尽きて倒れる。無数の死体の一つになる。そう思いながら、それでも魔王への憎しみを捨て切れず、ここまで来た。ここまで来れた。
でも、僕は結局それだけの人間だ。
殺すことと壊すことしかできない僕が、誰かを欲して、愛して、何かを作れるとは思わなかった。そんな風に考えると、セレンに伸びかけた手が自然と引っ込むのだ。
ろくな出逢い方ではなかった記憶があるけど、それを帳消しにするくらいの信頼関係がこの五年でできたという自覚は、自意識過剰ではなくある。そんな中で、セレンに求められているというのもわかっていた。
それでも、駄目だった。
セレンは勘当されたとはいえ、貴族の出身だ。僕のような素性も知れない人間が、おいそれと触れていい女性ではない。
僕のような勇者とは名ばかりの、どこかでのたれ死ぬだけの男が、愛していい女性ではないのだ。
僕には唇を許す価値もない。それをセレンがわかってくれなかったのが、この旅で最も悔いるべきことだったのかもしれない。
自分の復讐のために、自分も仲間も人類も注ぎ込んだ。そうやって魔王への道を作った。
そんな僕の本心も、本当は言うべきだったんだろうか……結局、怖くて何も言えず、受け入れずとも拒絶もしない曖昧な関係になってしまったのだが。
「……背中」
「え?」
「やっぱり、アレスからは抱いてくれないのね」
セレンが寂しそうに言う。僕の垂れ下がっただけの頼りない両腕に向けた言葉だったのだろう。
「その……やっぱり僕は」
「誰か心に決めた人がいるの?」
「そうじゃない。そんな人はいないし、これからも作らない」
これから、か。
こんな言葉を、まさか僕が使う時が来るなんて。
「僕は、元からこういう奴だよ。誰も好きになれないし、なりたいとも思わない」
「どうして?」
「必要なかったから」
自分の全てを魔王を憎むことに使った。強くなることに使った。生き残ることに使った。魔王に辿り着き、殺すことに使った。
他には何もない。片手間に誰かを好きになるなんて考えもしなかった。
全て、不純物で、不要だと思っていた。笑っていても、話していても、今までの僕のそれは多分、全部が見かけだけのものだったのだろう。
「魔王を倒すまで、そういうのは何も考えられなかった。余所見したら、全部駄目になる気がして……」
「……」
「そういう気持ちで、セレンに触ったり、そういうことしたり、できないよ。できなかったんだ。何も……応えられないのに」
「……私は、それでも構わなかった」
セレンはぽつりと言うと、右手を僕の頬に添えた。
自分の思考とは裏腹に、僕の中の男が、勝手に心臓を高鳴らせる。
「私は……何でもよかったの。あなたの慰み者や、捌け口にしかなれなくても……それで楽になってくれるならって、ずっと思ってた」
「そんなこと、言わないでよ」
「本当のことだもの」
セレンは言いながら、僕に豊かな胸を押し付けてくる。やはり心は抗おうとするが、身体は素直にその感触に反応してしまっていた。
それを見られ、恥じて俯く僕に、セレンは小さく告げる。
「……いいのよ。本当に、私は」
「だ、駄目だ。駄目だよ、こんなの。だって、僕は……」
「何も、駄目になんかならないわ。だって──」
もう、魔王は死んだんでしょう? だったら──セレンはそう言って、僕にぐっと体重をかけてきた。
地面に倒れ込む僕。その僕の胸に横たわってくるセレン。
視線の交錯も一瞬。セレンは目を閉じ、再び僕に口付けてきた。
そのキスの甘さに蕩けながら、僕は思った。
セレンは何を言ったのか。言おうとしたのか。言いたかったのか。
魔王が死んだ。だったら、いいじゃないか──何が?
当然、こういうことだ。
セレンは、僕の役割は終わったと言いたいのだろう。魔王のために全てを費やす日々は、もうお終いだと。
だから、これからは何かを望んでもいいんだ。どちらを向いても、立ち止まっても、何を見ても、思っても。
セレンはそう言って、そして、それを感じさせてくれている。
何一つ自分では進められず、終わらせられない僕の手を引いて。
……本当に、いいんだろうか?
そんな疑問は、確かにあった。僕はまだ全てを、完全な現実のものとして受け止められてはいない。まだ一歩踏み出せないでいる。
ただ、それでも、今目の前にいるセレンの心と身体の温かさを、はっきりと感じることはできた。
求められるということへの喜びを、嬉しさを、感じることができた。
初めてのことだった。こんなに尊い感情がこの世界にあったなんて。それを僕が抱いていいなんて。
信じられなくて、怖くて、嬉しくて、涙が出そうだった。
そして同時に、セレンに対しても、一緒にやってきたこの五年で初めて抱く感情を覚えつつあった。
頼もしいとか、信じているとか、感謝しているとか、そういうのだけじゃない。僕は、今無性にセレンが欲しかった。
思わず、セレンを抱き返していた。
「んっ……!」
少し驚いたような声が、セレンから上がる。こんな風に僕からいったのは初めてだったからだろう。
自分でも、どう表現してもいいのかわからない。ただそうしたかった。欲しかった。それで思わず、腕を回してしまった。
セレンが向けてくれた全てを、僕もセレンに向けたかった。
そうして僕は──セレンを、抱いた。
◇
宴の翌日、僕達は陣の外に集まっていた。
エーレンブラント兵が何人か、テントからこちらの様子を窺っている。けど、誰も声を上げたりはしないから、気になることもない。
僕達はただ、仲間六人で集まり、静かに言葉を交わしていた。
「頭が痛ぇ……飲み過ぎたか……」
ダクトルが大剣に寄りかかりつつ頭を抱えていた。何というか、こんな所まで来ても変わらないんだなと笑いが出た。
「酔っ払ったらますます変な顔……」
ロアがそんなダクトルを指差して呟いた。「うるせえ」と返すダクトルの背はぐんにゃり曲がっていたが、それでも彼我の身長差が頭一つ分あるのはロアの背が低いからか、ダクトルが巨漢だからか。いや両方か。
「ヒトの戦士は酔っても務まるものかと、ずっと疑問だったのだがな」
『我にはよくわからぬ。酒など、火が点くだけの水ではないのか』
タウブリスとクラウゼが辛辣に言う。
タウブリスはいつも通り憮然とした表情で。クラウゼは黄金の鱗を朝陽に輝かせながら、大きな口をわずかに開閉して、感情の読ませない顔で。
それなりに一緒にいるはずだけど、やっぱり竜の表情はよくわからないな。これからわかるようになるのだろうか。
……いや、これからはないのか。
「タウブリスとクラウゼは……本当にここに残るのか?」
僕が問うと、タウブリスは頷き、クラウゼは首を傾げた。
『異な事を。元々我が棲むはこの地のカディルギ。どこにも行きはしない』
カディルギとは、魔王領に聳える高山の一つ。竜の暮らす霊峰だ。
元々クラウゼはそこに住んでいた。魔軍との戦いの中、故あって僕達に同行して一緒に戦ってくれることになったが、あくまでそれだけだった。
「俺もそうだ。魔王への復讐は済んだ。今も逃げ続けている一族の元に戻り、復興を手伝わねばならん」
タウブリスも魔王領出身の魔人だ。彼の一族は魔王の迫害に遭い、居場所をなくし放浪を余儀なくされていた。彼と出逢ったのも、偶然彼の一族が他の魔族に襲われているのを助けた時だった。
「アレスよ、まさか俺が、貴様達の国にまでついていくと思っていたか?」
「いや……でも、一度はみんなに顔を見せてもらった方が、後々のことを考えるといいと思って」
魔王領も、魔族も、一枚岩ではない。
中には人類と共存可能な一族や種族もいる。それを、僕達はこの戦いの中で見て、知った。
まさか同盟軍も、魔王領全てを滅ぼすまで戦う気はないだろう。いくら魔王がいないとはいえ、そんなことをしようとしても共倒れになるだけだ。
好戦的ではない一派を探さなくてはならない。どこかで向き合って、言葉を交わして、手を繋ぐ必要がある。
それを考えた時に、一緒に魔王と立ち向かってくれたタウブリスと彼の一族は、和平の先駆けになってくれると思っていた。
彼は希望なのだ。きっとこの魔王領にも数多くいる、平和を欲する魔族達の。
僕がそう言うと、タウブリスはふん、と鼻を鳴らした。
「生憎だがな。俺はまだヒトを信用してはいない。貴様は信じてもいいが、貴様達の国は俺にとっては虎口だ。何より先にすべきことがある」
「そうか……」
ダクトルほどではないが大柄で筋肉質、加えて浅黒い肌で赤みがかった髪。
そんなタウブリスが憮然として放つ言葉には、知らぬ者を圧倒する威圧感が多分に含まれていたが、僕はもう慣れたものだ。
そして、そんな彼に僕以上に慣れ、親しんでいたのが、ロアだった。
「……私も、本当はタウについていきたい」
そう言って、タウブリスの傍らに寄るロア。
そんな彼女を見下ろし、タウブリスは表情を努めて変えず、しかしわずかに眉を顰めつつ言った。
「お前は帰れ。ここは魔族の土地、本来はヒトがいるべき場所ではない」
「……」
娘に言い諭すように、タウブリスの語調がほんの少し柔らかくなっているのは、僕の錯覚ではないだろう。
「帰っても……帰る場所がない。親もいない……」
「それでもだ。ここだってお前にとってのそれではない」
「タウと一緒がいい……」
「困らせるな、ロア」
互いに困ったように言い合う二人。
そうしていると、本当に親子みたいだった。親子でないのが惜しいと思えるくらいに、二人の絆はとても強く、そして貴いものに思えた。
ただ、ロアは子供っぽい見た目だけど、子供じゃない。
我儘を言い続ける聞き分けのなさは持ち合わせていない。自分が戻ることの意味を知っている。その効果も。
ロアは大陸でも随一の魔導師だ。世界の魔導師達にとって、魔導協会にとって、彼女は希望の星である。
そんな彼女が、魔王討伐の凱旋に現われず、しかも魔人についていくなんてことを知られたら……致命的ではないにせよ、混乱と同様は免れない。
だからこそ、一度は各国に顔を出して、その健在を知らしめる必要があるのだ。
そう──一度は。
「……また、来るから」
ぽつりと、ロアが小さく告げた。
だが、小さくても、それは確固たる決意の宣言。
ロアは、また魔王領に戻ってくるつもりなのだ。そして、タウブリスに会いに来るつもりなのだ。
この別れを、どうあっても今生の別れとしない──そういう想いが感じられた。
そのいじましさに、強さに、僕とセレン、ダクトルはつい笑ってしまう。
「何……?」
「いや、流石だなと思って」
「私はしたいようにするだけ……誰にも邪魔はさせない……」
「うん、わかってる」
邪魔なんて、できるはずもない。
静かなようで、僕達の中で一番突拍子のない行動力を持っているのがロアだ。極めて理知的な魔導師でありながら、彼女は自由と放埓の塊だった。
止められるはずもない。そして、止めたくもなかった。
僕は、ロアのそんなところが好きだった。
「……ではな。また会うこともあるかもしれんが」
『我はなかろうな。だが、お前達のことは覚えておこう。ヒトの友人達よ』
途中まで一緒に行くのだろうか、クラウゼの背にタウブリスが乗る。
荷物はほとんどない。腰と背の剣だけだ。けど、彼の実力を考えるとあまり心配にもならなかった。クラウゼは言わずもがなだ。
挨拶も少なく、クラウゼとタウブリスが空に舞い上がる。巻き起こった風が周囲を叩き、驚いた兵士達が転げ出て空の二人を見上げていた。
「行っちまったな」
「うん」
ダクトルの声に、僕は返す。
「じゃあ、次は僕達か」
言うと、三人は揃って頷いた。
もう、昨日のうちに将軍には話を通してある。むしろ早く帰還してほしいとの要請があったので、いつまでもまごついてはいられない。
同盟軍が通した補給線の中継点を通りつつ、南へ『転移』を繰り返して戻る。『転移』を使うロアの魔力と回復次第だが、エーレンブラントの王都まで半月はかかるだろう。
無論、それまでに魔王討伐の知らせだけなら届いているだろう。ただ、僕達が帰ることに意味があるのもわかっている。
急いで帰らなくてはならない。
ただ、焦る必要はない。
僕達は、もうやり遂げたのだから。
「行こう」
ロアが、魔王との戦いで失ったために新しくした杖で地面を叩く。『転移』の魔法式が地面に広がる。
その光の中に、僕達は足を踏み入れ──
──全身を包む浮遊感と光の中で、僕は不意に振り返った。
「何だ?」
何かが聞こえた気がした。
何も聞こえないはずだった。
でも、聞こえた。
「まだ終わっていない──」
不吉な響きを含んだその声に、僕の心臓が嫌な鼓動を立てる。
『転移』の光の中には、やっぱり何も見えなかった。