百二十二話 弛緩
「よくもこのような……穢れた血の、小賢しい売女めが……!!」
口汚く罵るベルプールが、ハウゼンさんに引き立たされる。どこからか現われたハウゼンさんの部下と思しき近衛騎士がその口を塞いでいた。
悪言を飛ばされ、顔を伏せるエーリスの傍に立つ。本当はあの男の舌を引き千切っておきたいところだが、今さらそれをしても意味がない。無駄にエーリスの立場が悪くなるだけだ。
「気にしないでください。負け犬の遠吠えです」
そう言ってお茶を濁す。それで割り切れるわけでもないが、エーリスは頷いて弱々しい、無理した笑みを俺に向けてくる。それを見て、馴れ馴れしいとは思ったものの、つい彼女の肩を軽く叩いてしまう。ユリアさんには特に何も言われなかった。
「頑張りましたね」
「いえ、私は特に、何も……」
「お嬢さんの演技があったから、あいつが口を滑らせたんですよ。それがなければ俺もハウゼンさんも動けなかった」
事実である。姿を晒し、こちらが追い詰めているように見せかけ、駄目押しに挑発して作らせた隙を突く、そんないささか拙速な策だった。上手くいったのは紛れもなくエーリスのお陰だ。あと伯爵の。拙速だが。
上手く煽れなければ、あるいは警戒させては、「殺せ」という命令は引き出せなかった。それでは動けなかった。それはそれで時間を稼げ、伯爵がまた別の策を練ったかもしれないが、安全を考えればここで片付けるに越したことはなかったろう。
そもそも、こうしてエーリスが出向いていること自体危険だったのだ。上手いこと索敵網を誤魔化して飛び込めたが、二回目が許されたとは思えない。
『魔法学術院への視察……貴族の予定なんて、普通は何ヶ月前から分刻み単位で決まっているものだからね。狙い撃ちすること自体は大して難しくない。問題はその予定を掴めるかどうか、状況を思い通りに作れるかどうかだ』
伯爵はそう言っていた。一番状況を整えられるのがこの時だったわけで、今後これと以上の好条件を揃えられるかは怪しかったというわけだ。
言うなら一発勝負。分はあったが、向こうの不利と不意につけ込んでの優位だった。後がないという意味では、危険な綱渡りだったことに違いない。
エーリスはそれに勝った。怨敵を前にして、よく堪えた。
素直に褒めていいと思った。上から目線でいいのかわからないが。
「まあ、何とか……終わりましたね」
「……そう、ですね」
エーリスは勝った。喜んでいい。これで当面の危機は去った。
ただ、声を上げて喜べるかというとそれも違う。彼女が今回これで何かを得たわけではない。これ以上何かを失うのを止めただけなのだから。
どうしたって、エーリスの父は帰っては来ない。そんなことは彼女もわかっていて、承知でここまで来たのだろうが、その覚悟があったからといって心が晴れるわけでもない。ベルプールの凋落を見届けて、全部笑い飛ばせて済ませられる子でもない。
それでも、エーリスの戦いは無意味じゃなかった。彼女にもそう思っていてほしい。
だから、俺が渋い顔してても仕方ない。
「……主戦派はこれで、大分落ち目になりますね。穏健派もいくらか状況はマシになるでしょう。お嬢さんが戦ったお陰ですよ」
「本当に、そうなればいいのですが……」
「大丈夫ですよ。後は伯爵が何とかするって言ってましたし」
実際、これで討伐軍が解体ということにはならないだろう。既に状況は大きな流れになっていて、止めようがない。できて流れを多少変えるくらいだ。
ただそれがこの国にとっては重要なのだ。討伐軍の手綱を握っていたタカ派は伯爵に洗いざらい汚点をブチ撒けられ、失脚、あるいは最悪家を潰され、主導権を失う。そうすれば王室の立場も向上して、討伐軍の制御が容易になる。ある程度の自浄にもなる。
故ラングハルト公爵の遺志は、完全ではないが果たされたことになる。他の誰でもない、娘のエーリスの手によって。
……まあ、実働してるのは大体ドゥナス伯爵だけど、それはいいのだ。あの親父は頼まれなければ動かなかった、自分はあくまで裏方だと公言してるし。
ついでに言えば伯爵の目的は結果ではなく、過程だ。如何にしてエーリスがこの勝負に勝つか、そして失脚した貴族達がどんな顔をするのかを見ることが主目的で、結果的に簒奪するに近い形で得られるであろう利権には大した興味もなさそうだった。
『昔からの夢でねぇ、一度は王国を引っ掻き回してみたかったんだよ。新しい小説の題材にもなりそうだったし。こういうのを渡りに船というのかな?』
本当にいい趣味である。趣味で人や国を弄るのだからもうどうしようもない病気だ。その病気で助かった身からすれば何も言えないのだが。
……多分、こういうところがあるから、危険人物と言えど国王もみだりに潰しにかかれないんだろうな。懐に置いておきたくはない懐刀というか、それもう懐刀じゃないけど、まあ使い方を間違えなければ頼りにはなるし。何だかんだ王室とも繋がりはあるらしいし。
「それで、その。お嬢さんは、これからどうします?」
「……故郷の、公爵領に帰りたいです。お父様の遺骨も、帰してあげなければなりませんし」
「ああ、そうですね……当然ですね」
故郷……故郷か。
ラングハルト公爵領はここから大分南に行った片田舎にある。ようやく一つ問題を片付けたが、エーリスは今度はまた長い時間をかけて、家に帰らなければいけない。
エーリスは薄く笑って、言う。
「お父様は、今まで私を色々な場所に連れて行ってくださいました。でもきっと、もう公爵領から出ることはないでしょう。ラングハルトは私一人になってしまいましたし、今度は私が公爵領を運営していかなければなりません。そもそも、王都にもいい思い出はありませんし……」
「そう……ですか」
「でも、あまり気にはなりません。確かに色々な町を見るのは楽しいのですが、私は故郷が……ハインウェールが一番好きですから」
エーリスの笑顔は悲しげだが、同時に嬉しそうでもあった。色々あったが故郷に帰れるというのは、間違いなく何ものにも代え難いことなのだろう。
……少し、羨ましく感じる。
俺の生まれ故郷はこの世界のどこにもない。そして俺の記憶の中にさえも。それを寂しいという風に感じたことはあまりないが、それでも、「故郷」という言葉には何となく憧れを感じる。羨ましく思う。
俺がいつか、この世界で長く暮らす場所ができたら、そこが故郷になるのだろうか?
「あの、それで、セイタ様」
「ん?」
「その、お礼のことなのですが、ご存知の通り私はこの有り様で……ですので、ラングハルトの屋敷、ハインウェールまでご足労願いたいのですが、その、道中の護衛の方も、できればお願いしたい……の、ですが……」
ああ。そういうことか。とても申し訳なさそうに言うから、何かと思ったら。
そんなの、答えは決まってる。
「当然。お供させていただきますよ。乗りかかった船ですし」
屈んで、見上げる形でそう言う。騎士の真似事みたいな格好だ。俺的にはエーリスの申し訳なさを軽減するために視線を落としたつもりなのだが。
「お嬢さんの故郷も見てみたいですしね。王都よりはのんびりできそうだし」
「そう……でしょうか? お気に召せばよろしいのですが……」
俺の軽口に困惑するエーリス。冗談を笑い飛ばせるほどではないか。でも一時期よりよっぽどマシだ。
こんな子を育てる土地なのだ。いい場所に決まってる。田舎だろうがどうだっていい。日本じゃないんだし、都会だからって特別楽しいわけじゃないし。実際今回は酷い目に遭った。
王都はよくない。馬鹿と悪魔と変態がのさばってる魔境だ。俺もさっさと離れるべきなのだ。そうに決まってる。シオンの教育にもよくない。
まあ、景観だけは楽しんだ。でも充分堪能したよ。絵葉書があればそれで充分だ。あればの話だけど。
ユリアさんの方を見る。無表情に、けど安心したように頷いていた。同行が許される程度には信用されているのだろうか。まあ、消去法という可能性もなくはないが。
「じゃあ、とりあえず宿に戻って……」
と、そう言った時だった。
視界の端で、わずかに衣擦れの音が聞こえた。ような気がした。
反射的にそちらを振り返ると──
「セイタッ!」
その方向からキリカの声。と同時に鋼の打ち合う音。
キリカが、どこからか現われた黒コートと鍔迫り合いしていた。
「キリカ!」
急ぎ駆け寄る。そのわずかな間に数合打ち合う。
一太刀、二太刀、三太刀……そこで押し負ける。キリカが。
驚くほど見事に戦ったものの、地力が違うか。小剣は弾かれてどこかに飛んでいく。
しかし、間に合った。
キリカを後ろに除けながら、身体を入れ替える。狙い澄ましたように突き込まれる剣。それを籠手の左手で掴む。
「ぐっ!?」
驚かれた。その顔に右の拳を叩き込む。
既に展開していた『氷矢』を撃ち放ちながら。
ドン、と『氷矢』が頭蓋を貫通し、勢いで下の身体がぐるんと宙で回転した。一回転して背中から床に叩き付けられ、血を流す死体。
「ひっ……」
エーリスの小さな悲鳴。R指定な光景は隠しつつ、そちらを振り返る。
──と、そちらからも黒コートが。
エーリスの背中目掛け、剣を腰に構えながら。
「後ろっ!!」
思わず叫んでいた。だが間に合わなかった。
鮮血が、散った。