百十八話 その男
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数人の護衛に囲まれながら、その貴族は学術院の廊下を歩いていた。
背丈は高く、太っているわけではないが体格もいい。栗色の髪に強面で、見るからに武官といった面持ちである──実際の立場がどうであれ。
男は護衛とはまた違う、隣に歩く、黒いケープ姿の男と話していた。学術院に属する魔導師で、こちらは貴族より十歳ほど若い三十路頃と見えたが、隣の貴族と比べあまりにも威厳がない。比較してしまうと余計に実年齢よりも若く見えてしまっていた。
「……いかがでしょう。お眼鏡に適う者はいましたか?」
魔導師が問うと、貴族は顎を撫でて答えた。
「どうであろうな。私は魔術に関してはとんと理解がない……が、あのケイレルなる娘は弁が立つな。魔導師よりもそちらの方面の方が向いているように見えた」
「カレン・ケイレルですか? 彼女は元々商家の出ですから、確かにそういうところはありましょうか。間違いなく優秀です」
「ふむ。覚えておこう」
貴族の悪くない反応に、魔導師は頭を下げて我が事のように喜ぶ──わずかな下心も抱いて。
魔法学術院は魔導師を養成し、輩出する。そのまま国立研究所に入る者もいれば、貴族や王族の目に入り仕える者もいる。そういう者が増えれば、自然と輩出元の学術院の評価も上がる。評価が上がれば、また才ある者が集まってくる。
そのようにして学術院と研究所は回っている。常に新しい才能と血を取り込み、野に送り出す。そのようにして王国の知識層は形成されている。
学術院と研究所はそれを統括するためにある。方々へと放った魔導師を伝手に独自の権力構造を形成し、王国内での高い立場を保っている。
中には野に下り、あまつさえ犯罪に手を染める魔導師もいるが、総合的に見れば「許容範囲内」だ。優秀な魔導師は有用な人材にも、そして武力にも変換が可能な、貴重な国の財産なのだから。
魔法学術院は、王国にとってなくてはならない宝物庫のようなものだった。
「……では、私はここで。まだご覧になられますか?」
「そうさせてもらうか。孫の未来の家庭教師は一人では足らないからな」
貴族がそう言うと、魔導師は笑って一歩下がり、頭を下げた。
「では。失礼いたします、ベルプール伯爵」
魔導師が一団から離れ、角を曲がって姿を消すと、貴族──アルブレヒト・ハインツ・フォン・ベルプール……伯爵は、軽く息を吐いて護衛に話しかけた。
「……何か報告は?」
護衛の一人がそれを受け、半歩進み顔をわずかに伏せて答える。
「は、動きはありません……というより、まるで掴めません。ただ少なくともこの一週間、他の地域に顔を見せたという報告も……」
「どれだけ信用できる? こちらとて王都にくまなく手を伸ばせているわけではない。窮鼠ならどれほど危険な虎の穴でも潜ろうというものだ」
ベルプールが叱責すると、護衛は見て取れるほどに委縮した。小声で、特別荒げていたわけでもないが、その言葉には確かに力があった。
「……既に相当な損失が出ている。窮鼠相手にこれだ。一刻の猶予もないというのに。包み込んで押し潰せんのか」
「は。あの地区はドゥナス卿の隷下と言ってよく、無法地帯でありながら噂の伝播は怖ろしい早さです。下手に動けば、たとえば火を放ったとして、あることないことを流布された上で騒ぎに紛れ身を眩まされるかと……」
「ドゥナス、ドゥナス……何を考えているのだ、あの狂人は」
忌々しげにベルプールはその名を吐き捨て、数度しか見たことがないにも関わらず鮮明に思い出せる青白い顔を想起した。
ドゥナス伯爵。没落貴族の家柄でありながら驚くべき──むしろ恐るべき経緯で身を持ち直し、かと思えばその乱行によって以前以上の悪名を轟かせる怪人、変人、奇人、狂人、王国の癌、歴史の汚点、暗闇の住人。
いかなる状況においても自分の好き勝手を優先し、中立もとい無関心を気取るかの人物だが、今この時に限ってはベルプールと敵対している。精確には、ベルプールの怨敵たるラングハルトの小娘の肩を持っている。その事実は彼にとっても既に周知だ。
しかし理由がわからない。ドゥナス伯爵は損得で動くような人間でもなければ、義侠心など欠片もない人格破綻者である。一体どういう経緯でラングハルトと手を組むことになったのか、そしてそれをよしとしたのか。
まるで理解できず、それ故に攻めあぐねている。ドゥナス伯爵という存在に対する警戒心もあるかもしれない。これまでに彼に敵対した人間が辿った末路を知らないベルプールでもなかった。
「しかし、いつまでも好き勝手にはさせん」
それでも、地力は勝っている。
諜報力、私兵の数と質、宮廷での立場。総合的に見れば、このまま押し潰せないことはないとも言えた。今問題なのは、緊急性を帯びた事態そのものだ。
全てを早急に片付けなければならない。かといって焦ってぼろを見せれば陰謀好きのドゥナス伯爵の思う壷だ。焦らず速やかに、手数を少なく目立たないように手駒を動かし、何もかも闇に葬り去る。後は討伐軍の派兵でも何でもいい、大きな動きに乗じて有耶無耶に押し流すのみだ。
今の王室には勢いも力もない。勇者を掲げて同盟三国の勝利に導いた現主戦派が流れを掴んでいる。後はこれに乗り切って突き進むしかない。
「……下らん茶番に陛下の御心を煩わせることはない。命令は同じだ。囲み、見張れ。何も見逃すな。主戦派には、もう下手に動くなと回せ。後は私だけで片付ける、とな」
「かしこまりました。すぐに通達いたします」
「よし、行け」
護衛の一人が礼をして去る。石造りの静かな廊下に、足音だけが響いていく。
命じたベルプールは冷めた目でそれを見送っていた。冷めるほかなかった。焦ってはいるが、それを暴露すべき相手もいない。
最早何も頼るものはない。駒として利用するか、あるいは放置するだけだ。それは国王でさえも例外ではなかった。
しかし、だからといってベルプールは王室の転覆を目論んでいるわけでもない。討伐軍の指揮権を得ること、そしてその先の魔王領の切り取り、そこから得られる利益にも興味はあるが、その先に見据えているものはない。
ベルプールには依然として王室への忠誠心がある。それに従い、王国の利益のために動いているという自負がある。
ベルプールにとって、全ての行動はそのためのものなのだ──ラングハルトの血を絶やすことでさえも。
全ての目的が、流れが、今はたった一つの結果に集約している。そこを目指さなければならない。そのために、抹殺しなければならない。
エーリス──忌々しきラングハルトの血族、その末子を。
「……行くぞ。ここにもう用はな……」
「お館様!」
言おうとしたその時だった。護衛の一人が、無礼にも遮るようにそう声を張った。
何事か問い質そうとし、その護衛を見、そして彼が浮かべる戦慄の表情を見て、その視線の先に首を回す──
と、そこに、彼がいた。
ゆったりとした足取り、着崩した服装。後ろに流したくすんだ銀髪に、歳のほどを容易く判別させない不気味で青白い顔立ち。
そして見る者の不安を煽って仕方ない、怪しげな微笑。
「やあ、奇遇だねぇ、ベルプール卿?」
王国で最も関わるべきではない貴族──ドゥナス伯爵が、そこにいた。