百十二話 朝が来て
夢を見た。
見知らぬ土地、見知らぬ人々、見知らぬ服に、見知らぬ建物。
大勢の人々に押され、流れに飲まれるように歩いていく。どこへ行くのかなどと、そんな質問もできないまま。
やがて整然とした通路を抜け、光の下に出て──そこでまた絶句する。
建ち並ぶ白い巨塔。黒く硬い何かで塗り固められた地面。金属と石と硝子で作られた幾何学の街並み。
見知らぬ町。見知らぬ世界。ここはどこで、私は誰か。
知っているはずがない。けれども何故か知っている。元々知っていたように、意識の底からその名前がポロリと零れ落ちる。
──東京。
けれどもそこで全てが途切れる。暗くなり、何も見えなくなる。
夢は終わる。像がほつれて、概念も何も引き伸ばされて千切れていく。
知らないことを知っている恐怖が、何もわからないという暗闇の安心に押し流されていく。
──そこで、右腕の温かさに目が覚めた。
◇
「……いえ、知りません。ただの夢だと思いますよ」
俺がそう言うと、ユリアさんは「そうですね」と力なく答えた。
「きっと熱に浮かされて、混乱して……変な夢を見ただけですね」
「そう、ですよ。でも、面白い夢ですね。元気になったら、改めてお聞きしてもいいですか?」
「はい、お望みとあらば……それまで覚えてられたら、ですけど……」
ユリアさんはそう言って、これまで見せたことのないような、砕けた微笑みを俺に向けた。元が美人であるために、そんな顔されると俺はヤバい。
……と思ったが、好色な俺でもその時はそんなことを考える余裕はなかった。軽く相槌を打って、顔を伏せながら、また『解毒』と『活性』に意識を集中させた。
そうして一時間ほど経ち、大分容態が安定したと見て取ると、俺は一度部屋を出て、そのまま娼館の外まで歩いていった。
途中では誰とも会わなかった。好都合だった。この変な顔色を見られたくはなかったから。
空は白み始めていた。元の世界的に言えば午前四時くらいだろうか。いや、まだ冬で陽が昇るのが遅いと考えると、もう五時くらいにはなっているのかもしれない。すっかり早朝だ。かといってこの辺りの色街は全体的に夜型の住民だらけで、人っ子一人出歩いてはいなかったが。
……さて。マズいことになった。
いや、マズいのか? ユリアさんは変な夢だと思ってるし、別に大したことはないのでは……よくわからん。
ただはっきりしているのは、記憶の流入がユリアさんから俺にだけではなく、その逆でも起こったということだ。
思えば俺も集中し過ぎて『解毒』使いながら寝落ちしてた。寝てると精神が緩む。何かの弾みで混線してもおかしくない。確かにあり得る。
いやでも、それだったら今まで俺とシオンの間でも……そういうことが起こっててもおかしくはないだろうし……やっぱりよくわからん。
とにかく、ユリアさんはハッキリ「東京」と言った。まさかこの世界でその名前を聞くことになるとはな。
けど、そうか。前も思ってたことだが、俺は覚えてはないけど、完全に記憶がないってことでもないんだな。少なくとも東京駅に行ったことはあるわけで、その記憶があるわけだ。なるほど。
ユリアさんの夢は説明からすると比較的鮮明だったらしく、完全な妄想だとは言い難い。そんなものを創り上げてしまったのだったら、それこそユリアさんの妄想力がヤバいってことになる。そこまでは考え辛い。
何より、俺が夢に見たユリアさんの記憶が証拠だ。詳細は覚えてないが、概観はハッキリしていた。俺にはユリアさんとエーリスの関係をそこまで妄想できる想像力はない。というか勝手にそんな不敬なことはできない。
さて、では、これを如何とするか。
……どうにもできないだろ。実際。
異世界の知識っつっても、ソースは夢だ。本人も妄想だと思ってる。大体何か重要な夢ってわけでもないし。東京見たからってそれでどうなる。
無視でいいだろうか。いずれユリアさんも忘れるだろうし。掘り下げたところでどうにもならないし。うん。
しかし、東京か……俺の記憶を取り戻す鍵になるだろうか?
まあ、今さらそんなの戻ったところで、変なホームシック発症して鬱になるような未来しか待ってないだろうが。そうなるくらいなら思い出さなくていい。
考えを強引に纏めて、風の冷たさに気付いたので娼館に戻る。もう一頑張りだ。朝になったらユリアさんの看病を誰かに任せて、シオンの様子を見に行くか。多分入れ替わりで寝ることになるだろうけど。
眠気はある。無視できるが、できることなら抗いたくなかった。
◇
「悪いねぇ、わざわざ来てもらっちゃって」
「いえ、お気になさらず伯爵様。はは、は……」
昼過ぎ。娼館のホールで乾いた笑いを浮かべ、伯爵に愛想を振っているのは、どうやら昨日言っていた薬師らしい。
昨晩は王都中に主戦派の手の人間が広がっていた。結局危険度が高過ぎるということで、ペイトが彼をこちらに呼ぶのは無理だったということだ。
そういうわけで陽が昇ってからようやく来たもんで、俺がユリアさんの毒に対処したのは間違ってなかったということだ。もし何もしてなかったら本格的にヤバかった、というか助からなかったかもしれない。
「それで、その……私は何をすれば?」
「ああ、患者はこちらだ。頼むよ」
「と言っても私は医者ではないですけれど……」
どうにも腰の引けたおっさんである。身分の差以上に何かあるような気がしてならない。
と思ってたら、娼館で休憩していた親切なお姉さんが色々と教えてくれた。
「あそこの旦那さ、店を出す時に伯爵様に色々と面倒見てもらったのよ。お金とか物件とか。それでまあお得意様ってわけ」
「へえ……店って薬の?」
「薬もそうだけど、本業は魔導具らしいわよ」
魔導具屋! なるほどいいこと聞いた。後で行ってみてもいいかもしれない。
この一件が片付いた後、って意味だが。
「ねえそれよりぃ、あなた今暇? 遊んでくれない? 昨日はドタバタしちゃってたから退屈してるの……」
「あ、いいです。間に合ってます。あと暇ではないです」
慌てて逃げた。こんなとこシオン達に見られたら酷いことになる。そもそも娼館に総出で転がり込んでること自体異常なのに。
そのシオンだが、俺がユリアさんの治療を切り上げ寝てる時に起きた。
起きたけど、ろくに動けないような体調だったらしい。頭がガンガン痛いとか平衡感覚がないとか吐き気があるとか、まるで二日酔いみたくなってたと。
昼前に起きて様子を見に行って、色々話した。とりあえず怪我がなかったのは僥倖だ。俺がいないところで何かあったらまた心が荒むところだった。
「シオンは初めての実戦みたいなもんだからな。気を張り過ぎたってのもあるんだろ」
「そうかもしれません……」
「いや、でも何にせよよくやったし、よく無事だった。キリカもな」
「まあね。まあほとんどあのジュネアって人がやったんだけど」
戦闘の詳細は後で聞くとしよう。本当は避けたいが、次があった時のためだ。
でも今はとりあえず、シオンの世話だな。効果があるかわからないが『治癒』と『活性』を弱めにかけて、移動する時は抱っこだ。
無論、「お姫様」の冠が付く。付かないわけがない。問題はそうそうベッドからシオンを上げる機会がないということである。残念。
「しかし娼館を宿代わりとはね……」
「あのおっさんは本当にわけわからんな」
なおそのおっさんは薬師を案内した後、ペイトとジュネアを集めて何か話してる。と思ったらこっちに来た。
「いい知らせが二つあるのだが、どちらから聞きたい?」
「どっちって……」
「冗談だよ。とりあえず一つ目、ユリア嬢の受けた毒がわかった。解毒薬もすぐ調合できる。そもそも君が治療したお陰で今は大分よくなってるねぇ。このままなら特に後遺症もなく完治するだろうということだ……まあ、二日、三日というところかな」
それは実際いいニュースだ。この変態がちゃんと人を安心させられるとは思ってなかったので割と驚く。
「それでもう一つってのは、何ですのん?」
「ああ。昨晩はまあ、色々と……迷惑をかけたねぇ。騒ぎも広がって、王都は表はとにかく裏は蜂の巣を突いたような様子だよ」
「でしょうね。それで……」
「その甲斐あってあちらさんの動きを掴めた」
来たか。さすがに無能なただの変態ではない。転んでもただじゃ起きないってわけだ。
「それを俺に、ってことは、また何か仕事が?」
「そうなるねぇ。君は自由に動けるこちらの数少ない戦力だし」
「はぁ……で、何をすれば?」
今さら嫌がっても始まらない。こういうのはパッと聞いてサッと済ますべきだ。伯爵との関わりを最低限に済ますにはそれが一番。
と思ってたら、伯爵に首を振られた。
「今すぐというわけではない。こちらも予想外に対処しなくてはならなかったし、下手に動けない要素を色々と抱えてるからねぇ」
「……それは、ユリアさんのことを?」
「責める気ではないよ。そんなことできるわけがない。それとは別の理由があるんだよ」
「別?」
「ああ。こちらの都合というより、あちらの都合かな?」
つまり、主戦派のことか。何が言いたいんだ? 伯爵は。
「策を少し練り直す必要があるね。加えて機を見計らわなければ。ま、どちらにせよ時間がないのはこちらもあちらも同じことだし、君のことも長くは待たせないよ。楽しみに待っててくれたまえ?」
「いや楽しめませんがね……」
どこをどうしたら俺が面倒事や荒事が好きそうなプッツン野郎に見えるのだろうか。小一時間問い質してみたいものである。疲れるからやらないが。
まあ、早く終わるのならそれに越したことはない。そのことは事実だ。そのために必要なら動くよ。喜んでな。楽しくはないだろうけど。
それはそうと、腹が減った。