序章 空白
何か、轟々と唸るような音が聞こえて、俺は目を開けた。
「う、わ」
そこで俺が見たものは、何と形容したらいいか、とてもじゃないが言葉で言い表せるような光景じゃなかった。
言うなれば、『波』とか『うねり』だろうか。
俺の前方から後ろに向かって、無数の黒と赤の光の筋が絡み合い、弾け、渦巻きながら流れていく。周りが流れているのか、俺がこの光の渦の中を落ちていっているのか。どちらでもありそうだし、どちらとも確信が持てない。
俺は、その強烈かつ刺激的で不可思議な空間の中で、ただ浮いていたのだ。
「どうなってんだ、これ……」
『……ここは、【悠久の扉】の内……』
びくり、と思わず身体を震わせる。突然空間全体に人間のものとは思えない低い声が響いたのだから、仕方のないことだろう。
「だ、だ誰だ!?」
反射的に、やや間抜けに問い返す。そんなことに意味があるのかどうかすら判断できていなかった。が、その『声』は俺の問いに反応するように、空間を震わせる唸り声を上げながら、答えた。
『……我は魔を統べる者……オロスタルムに無二の魔王……』
「ま、魔王?」
『然り……名をヴォルゼアという……』
唐突な電波的自己紹介であった。何言ってんだ、こいつ。俺困っちゃう。
だが冷静に考えてみよう。今俺がふわふわ浮いてるこの禍々しい不思議空間。これはどう考えても異常な世界だ。ちょっと不気味だがファンタスティックと称してもいいかもしれない。
だというのなら、そこで聞こえてきた『魔王』とかいうトンデモワード。これにも一定の信憑性が得られるのではないか?
いや、そんなわけねーだろ!
こんなもん、全部夢だ! 夢夢夢! 色々あって疲れてたんだ! だから何かよくわかんない不気味な夢を見てるんだ!
そうさ、こんなのすぐに覚める夢だ。朝になって起きたら全部忘れてる。そんでもっていつも通り……
いつも通り……
あれ?
俺……何するんだっけ?
「え、あれ」
昨日はいつ寝たんだっけ。明日は何曜日だっけ。学校あるんだっけ。いや、そもそも俺が通っているのは高校? 大学? それとももう働いて……
いや、そもそも、俺って誰だっけ?
『……わかるぞ……自分が何者かわからず、困惑しているようだな……』
またどこからか『声』が聞こえる。笑ってるように聞こえるのは、俺の思い過ごしか。
『案ずるな……貴様の余計な記憶を全て取り去らせてもらった……それだけのことだ……』
「は、はあ!? 何でそん……いや、これも全部夢だろ!? わっけわかんねえこと言いやがって、俺の夢のくせに……!」
『夢ではない』
端的に言い放ったその言葉は、平坦で、飾り気がなく、何故だかどこまでも正しいように聞こえた。何も信じる気のない俺すら、即座に反論できないほどに。
魔王は続ける。
『……時間が、ない……短く済まそう……貴様は、死にゆく我の依り代として、元の世界よりこの世界へと引き込まれている……その最中だ』
「え? 何?」
『つまるところ……貴様は我の力、記憶、知識、精神、全てを受け継ぎ、オロスタルムの新たな魔王として君臨するために、世界を渡るのだ……』
いや、詳細を説明されてもさっぱりわからない。
要するに、何だ。この『声』の奴……魔王は、今死にかけてて、でもそれが嫌で、自分の全部を俺にそっくり移して、新しい魔王として生まれ変わりたがっていると。
うん。まとめてみてもよくわからない。つまり、そういう設定か?
まだどこかで、夢と思いたがっている俺がいた。
『余分なものは要らぬ……元いた世界との繋がりも邪魔だ……故に、貴様からはその人格を除いた記憶を抜き取らせてもらった……』
「な、何勝手なこと!」
『ク、クク……代わりに、オロスタルムの全てを支配する力をくれてやろう……遍く命を跪かせ、我が魂とともに永劫の権勢を振るうのだ……!』
「要らねえよそんなもん!」
『何!?』
俺が速攻拒否ると、魔王の奴もまた速攻で困惑を露わにする。
当然だろ。突然そんなこと言われて「はいそうですか了承しました」ってなるか。俺はどこにでもいる普通の人間──だと思う、何となくそんな感じなのは覚えている──なのだから。
「わけわかんねえこと言ってねえで、とっとと俺を帰せ! お前の言ってる通りならな!」
『ぬ、う……魔王に逆らうか、子童……!』
「その小童を魔王に仕立てようとしてんじゃねーよバーカ!」
我ながら非の打ちどころのない正論だと思う。だって俺は──多分──普通の人間なのだ。どこをどうして別世界の魔王になる素質があるってんだろうか。
が、そんな俺の考えも魔王にはお構いなしのようだ
『ふん……だが、どれだけ騒ごうが無駄だ……』
「あ?」
『貴様には拒否する権利も、抵抗する力もない……全ては決まったこと……』
「おい、待てぃおいちょっ」
『我を受け入れよ……!』
魔王がそう言うなり、俺を取り囲んでいた不思議空間が、さらに大きくうねった。
と同時に、周りを満たす黒と赤の光──むしろ闇と炎とでも称するべきか──が渦巻いて、何やら俺へ向かって雪崩れ込んでくる。
まずい、と直感的に思った。
魔王は話を聞かず、俺の道理と正論はまるで意味を持たない。このままでは俺は魔王に身体をすっかりすっぽり乗っ取られて、よくわからない世界で二代目魔王として君臨するハメになるだろう、ということを理解した。してしまった。
酷い。こんなの民主的じゃない。魔王にそんなこと訴えても無駄だろうが、叫ばずにはいられない。俺は理不尽が嫌いなのだ。
けどやっぱりそれは意味のないことで。
「あ、ぐ、あぁあぁぁぁぁあぁぁぁぁぁ!?」
空間そのものが捩じれ圧縮されたような赤と黒と紫の光。それが貫くように、俺の身体へと流れ込んでいく。
魔王の言う通り、抵抗することなんてできはしない。痛みと熱がぼっと俺の全てを飲み込んでいく。それに翻弄されて、意識はぐるぐると虚空を吹き流されていく。
その刹那、何か凄まじいものが俺の中で溢れるような気がしたが、全身が燃え盛るような感覚の中、気にする余裕なんてない。
そして……全てが、ぶつりと途切れた。
初投稿です。