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大きい。
目の前に見上げんばかりにそびえ立つ屋敷に、梨奈はただただ目をまるくする。
閑静な屋敷が立ち並ぶ区画に入ってしばらく。
目に付くのはどれも立派な庭付きの豪邸と呼べる屋敷だったが、その内の一つ、重厚な門のそばに立つ門番らしき騎士に輔が無造作に近寄った。
道でも尋ねるのかと思ったが、輔の姿を目にした途端、劇的に門番たちの顔色が変わった。
「わ、若様!?」
「よぉ、久しぶりー」
「生きてらしたんですね!」
「よくぞご無事で!」
死んだと思われているかもと予想していたが、実際、そうだったのだろう。
輔と顔見知りである門番たちは感無量の再会に目を潤ませていた。
さらにイーザ様もと驚愕し、同じく無事を喜ばれた総規。
二人の様子を見つめながら、ようやく、彼らの身に起こった事の重大さがわかったような気がした。
きっと雪山で遭難し、生死の境をさ迷うような事態だったのだ。
門番たちに見送られ、三人は屋敷までの道のりを歩き出した。
どうやら普段は門から屋敷まで馬車で移動するらしいが、歩いた方が早いと輔は迎えの馬車を断った。
歩幅の違う梨奈を気にして、疲れていないか、抱き上げて運んでやろうかと気遣われたが、梨奈は大丈夫だと首を振った。
ここが、輔ことタズークの家。
タズークさんってすごいお家の人だったんだ…。
普段のお日様みたいに笑う姿から想像できず、梨奈は校舎ほどの広さを持つ屋敷とタズークを交互に見つめてしまった。
数段の階段を上ると、こちらが手をかける前に中央の扉は大きく開かれた。
「若様!」
悲鳴のような声で名を呼んで、真っ先に駆け寄ってきたのは、若い金髪の男だった。
「よくぞ、よくぞご無事で!」
「よっ、カイサ、久しぶりー」
カイサと呼ばれた執事らしき男の人は、蒼い瞳に涙を浮かべ打ち震えているのに、迎えられたタズークは対照的だった。
まるで昨日も会ったと言いたげな軽い挨拶を返している。
「今までどちらにいらっしゃったんですか!
陛下も捜索隊を結成して国中を探してくださったのに何の手がかりもつかめず…てっきり、もう身罷られたものとばかり…!」
「遅くなって悪かったって。俺たちにも事情があってさ。すぐに戻ってくる事が出来なかったんだよ」
既に門番から屋敷に連絡が入っていたのか、吹き抜けとなっている玄関ホールには大勢の人間が集まっていた。
服装からして、女中や小間使い、従僕といった使用人たちだろう。皆、浮かべている笑顔にタズークの帰還を喜んでいるのが見て取れた。
早く旦那様にもお伝えしなければ!と、すっ飛んで行きそうなカイサを呼び止めたタズークは、扉の前で待機していたソウキたちを振り返った。
「これはイーザ様も! ご無事で何よりです!」
ソウキは軽く頷き返す。
二人とも様付けで呼ばれている状況に、リナは少し戸惑う。
後日、二人がこの国の特権階級である貴族の身分にあり、その中でも別格に数えられる立場である事を、驚愕と共にリナは教えられる事になる。
「俺たち、今この国に着いたばっかで疲れてるからさ、あの二人にも部屋を用意してくれる?
あ、それと、帰還を王に知らせるのはちょっと待ってくれ」
「? 何故です?」
「俺たちの事情を親父殿に説明してからでも遅くはないだろ? それにこの国の今の状況もある程度知っておきたいからさ」
カイサは従順に頷き、かしこまりましたと了承した。
「イーザ様の隣におられる方は…?」
「こいつはリナ」
タズークにちょっとおいでと手招きされ、リナは小走りに近寄った。
室内でフードをしているのもどうかと思い、手をかけて下ろす。
中から現れた幼い少女の顔に、カイサが酢でも飲んだような顔になった。
「ま、まさか…タズーク様の隠し子…!?」
「阿呆な事を言うな! ちょっと事情があって預かる事になったんだよ!」
俺を何だと思ってるんだ!と怒り心頭のタズークの横に、リナは緊張しながら進み出て、初めましてと丁寧に頭を下げた。
「これは失礼を。このコーマ家で家宰を務めております、カイサと申します。以後お見知りおきを」
物柔らかな雰囲気の青年は、リナのような小さな子供にも丁寧な挨拶を返してくれた。
それからタズークが屋敷の奥に消えた後、ソウキとリナはそれぞれの部屋に案内された。
途中、別棟に部屋を割り当てられようとした所を、ソウキが交渉し、リナはソウキの滞在する隣の部屋を宛がわれる事になった。
その時の、この部屋まで案内してくれた女性の驚いたような顔が思い出される。
何をあんなに驚いていたんだろう。
通された客室はびっくりするほど広かった。
あまりに広すぎて、何処にいれば良いのかわからなくなってくる程だ。
置かれた調度は、幼い子供が手を触れるのがためらわれる程、磨かれてつやを放ち、ちょっと気後れする雰囲気がある。
奥にもう一つ扉があり、恐る恐る覗いてみれば、初めて天蓋付きの寝台と御対面して、さらに言葉が出なくなった。
外套を脱いで、備え付けのソファに座ってぼうっとしている内に、疲れていたのか、リナはあっと言う間に眠りに引き込まれていた。
*****
着替えをして人心地がついた所で、少女の様子を見に行くと、ノックをしても返事が無かった。
「リナ?」
部屋の外には出ていないだろう。
静かに扉を開けると、ソファの上でに身体を丸めて、すっかり眠り込んだ無防備な彼女の姿があった。
界を渡った影響もあるのだろう。思ったより、心身に負担をかけていたに違いない。
靴を脱がして奥の寝台まで運んだ。何度、抱き上げてもその軽さには驚かせられる。
確かにリナは小さいが、それでも軽すぎるのではないか。
栄養価の高い食事を用意させなければと思い、自然と彼女の身を気遣う自分にふと苦笑が洩れる。
たった数日前に出会ったばかりだというのに。
しかも、子供とはいえ、女嫌いで知られる自分が少女の相手をしているなんて。
世の中何が起きるかわからないものだ。
眠るその横顔は安らかで、見ていると穏やかな気分になる。
今まで子供など、うるさくて煩わしい生き物だとしか認識していなかったが、こういうのも悪くは無いと思える。
タズークはしばらく戻ってこないだろう。
事情説明と今後の相談。
リナの身の振り方も考えねばならない。
多少強引な真似が出来る貴族の身分がこの時程有難いと思った事は無い。
リナなら自分の養女に迎えてもいいとまで思っている。但し、身分に伴うしがらみも重々承知しているので上手い手とは言えないだろうが。
あの瞬間、『耳』が働いたのも運命か。
向こうの世界では魔術は使えず、能力は封じられたも同然だったのに、彼女の悲痛な叫びは確かに届いた。
泣き顔ばかり知っている少女に、もうこれ以上、悲しい事が起きなければいいと願う。
自分がどんな顔をしているか知らず、リナの黒髪を指で梳いたソウキは、音を立てずにそっと部屋を後にした。