1-4
目が覚めても真っ暗で、まだ夜と朝の狭間にある時間帯なのだと知った。
見覚えのない部屋のベッドに寝ていた事に気付いて、ハッとする。
黒のTシャツを着ている自分の姿を見下ろして、そこから全て昨夜の事を思い出した。
たくさん迷惑をかけてしまった。
とても、優しい、人たち。
もう充分だと思った。
これからの事を考えると身が竦むけれど、いつまでもここにいられる筈がない。
結局、自分の居場所は恐ろしく冷たいあの家にしかないのだ。
枕元に畳まれていたワンピースを見つけて、気持ちに抵抗を覚えつつもそれしかないので着替える。
気が咎めたけれども、きっと厚意から引き止めてくれるだろう彼らに甘えてしまうのが恐くて、今の内に黙って出て行く事にした。
起こさないように音を立てずに動く。
一度、最初に通されたリビングを振り返った。
一緒に夕飯を食べた事、抱き締めてくれた事、頭を撫でてくれた事、どれもが忘れ難い思い出だ。
寒々とした玄関の扉に手を伸ばした、その時。
「つーかまーえたっ」
「!」
不意に身体が浮いて、後ろに引き寄せられる。
驚きすぎて咄嗟に声すら出てこない。
のけぞるように見上げると、やはりそこには輔がいた。
「全く、賢すぎるってのも考えものだよねー。余計な事ばっかり考えちゃうんだから」
朗らかな物言いの中にひそめられた怒りを感じる。
やはり挨拶もなく出て行くなんて礼儀知らずだったと反省して項垂れる。
「こら、見当違いの後悔してるんじゃない」
え?と見上げると、輔は眉を下げて苦笑いしていた。
「なんだかなぁ。出会って間もないけど、梨奈ちゃんの考える事ってわかっちゃうんだよなぁ。根っこの所が誰かさんに似てるからかな?」
「いつまでそこにいるんです」
当然のように、別の一声がかかって、輔がのんびりと応じる。
梨奈は抱き上げられたまま、放してもらえなかった。
リビングに戻ればしかも温かい紅茶まで用意されていて、その前に座らされると、総規がブランケットを肩に巻いてくれた。
突き放した物言いとは裏腹、彼は細かい所まで気遣いの出来る人だった。
「総規の予想ばっちり、ってね」
向かい合ったソファに輔、隣には総規。
悪い事はしていない筈なのに、なんだか居た堪れない気分が込み上げてきて、梨奈は俯いて紅茶が満たされたマグを見つめた。
「彼女の性格なら留まるよりも黙っていなくなる事を選ぶでしょう、って。本当にそうなんだもん。
なんかもう、俺、泣きそうかも」
ふっと笑いを消して、真摯な目で向かい合った輔は別人のようにみえる。
やっぱり怒らせてしまったと梨奈は蒼褪めた。
「飲みなさい」
総規がマグを差し出してくる。
おずおずと受け取って、一口、飲んだ。じんわりと広がるその温かさに、どれだけ凍えていたか気付く。
「もう少し」
言われた通りに紅茶を飲むと、やがて、寒さを感じなくなってきた。
それに気持ちもほぐれて、肩に入っていた力をようやく緩める事ができた。
「梨奈が何を考えて出て行こうとしていたかはわかるつもりです。
言葉にしないとわからないようですが、面倒だと思うなら、最初からここに連れて来ていません。
それに、こんな形で別れたらさすがに寝覚めが悪い。また、何も考えずに出て行こうとしましたね?」
疑問形といえども、それは断定で。
「…家に帰ろうと、思ったんです。きっと…」
心配なんてされてないだろうけど。
せっかく温度を取り戻した端から虚ろになっていくような心地がする。
「家に帰って問題が解決するとでも? はっきり言って、貴方一人の力では無理でしょう」
「でも…っ」
冷静な指摘が痛かった。心のどこかで気付いていた傷を抉られ、無力感がどっと襲ってきた。
「あそこしか、ない…私には」
それだけしかもうわからない。
全て自分が我慢をすれば、丸く収まるんじゃないかと思ってしまった。
「…ぁあ、もう! 何だ、ソレ! 腹が立つー!」
頭を抱えて唸ったのは、輔だった。
「そりゃ出会ったばっかりの赤の他人で、信用できないってのもわかるけど、梨奈の場合、それ以前の問題じゃん!
なんで誰も子供は甘えていいんだって、教えてないの!」
「タズ、梨奈が驚いているでしょう」
「だってさ…! きっとこの子は俺が怒っている理由さえわかってないんだよ…!? 俺、無理。絶対、放っておけない!」
「肝心なのは、梨奈がどうしたいかです」
また頭に手を置かれた。それが安心しなさいって言ってくれているみたいに感じる。
「梨奈の本当の望みは何ですか」
「本当の…望み…?」
「今、貴方に何ができるかではなくて、どうしたいかです。家に帰るのが貴方の望みではないでしょう?」
本当の望み。
そう促されて、確かにそれが自分の中に生まれていた事に驚く。
けれど、望んではいけないと、望んでも叶わないと戒めてきた。
それをここで口にしてもいいのだろうか。
そうっと総規を見上げると、無表情を微かに緩めて、微笑んでくれた気がした。
「私…」
厳重に鍵をかけて封じ込めていた願い。
「一人はもう、嫌…」
消えてしまいたかった。
両親の元へ行けるならそれが一番だと思った。それが自分の望みだと思っていた。
なのに、どうして。
零れ落ちた言葉を戻せる訳がないのに、思わず、口に手を当てた。
今、自分は何を言った?
「それが梨奈の本当の望みですよ」
違うと言えなかった。
自分でも気づけない深い深い心の底に沈んでいた願い。
それがある事を総規は知っていたんだろうか。
そうして、総規は彼女に問い掛けた。
「僕たちと一緒に来ますか?」
これが、新たな始まりだった。