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事情を話せる?と輔に聞かれて、梨奈は迷った。
伯父にされた事は思い出したくもないし、できれば二度と顔を合わせたくもないけれど、養ってもらった恩がある。
ここで事情を打ち明ければどうなるか、想像できないでもなかった。
だけど。
「あのさ、俺たちも何処まで出来るかわかんないけど、こうやって知った以上、できる限りの事はするよ?
一食の恩もあるしね」
輔が負担にならないようにと、敢えて軽い口調で言ってくれているのがわかる。
「事情が話せないのなら、これからどうするか、言ってみなさい」
これから。
考えないようにしていた現実を突きつけられて、梨奈は途方に暮れた。
自分一人消えれば全て丸く収まると思っていた。
他の考えなど何も考えていなくて。
だが、それをそのまま口に出すのがまずい事くらいさすがに理解している。
頭が真っ白なまま、長い沈黙が続いた。
「…」
逃げたい。
けど、服を借りたままじゃ逃げ出せない。
何処までも後向きにうろたえていると、いつの間にか、目の前に総規が立っていた。
こんなに間近に立たれては、見上げなければ顔が見えない。
「答えが、それですか」
ぽんと頭に手を乗せられて、驚いて、涙が。
泣いても何も変わらないのに。余計に叩かれてお終いなのに。
目をぎゅっと閉じて、さらに手で押さえた。それでも手のひらは濡れていく。
「どうして、こんなに我慢を」
困らせている。
それがわかっても泣き止めない。自分でも泣いている理由を見つけられずにいる。
「ごめんなさ…ぃ」
謝る事しかできない。
「泣きたいだけ泣けばいい。謝る必要はありません」
そっと抱き締められた。
頭を撫でられる。温かくて、これこそ自分がほしかったものだと何となく気付いて、梨奈は今度こそ声を出して泣き出した。
*****
泣き疲れて眠ってしまった梨奈をベッドに寝かせた後、総規と輔はお互い顔を見合わせて、苦笑いに近い表情を浮かべた。
「どうするよ? あの場合、仕方が無いとも言えるけどさ。きっと、お前の『耳』が無ければあの子、あのまま凍死してただろうし」
頭の後で腕を組んで、ソファにもたれかかる。能天気な彼にしては珍しい憂いを帯びた表情に、今日、拾った子供の事を考えているのだとわかる。
「全てが整ったこの時期に面倒は背負いたくないんですけれどね」
一見、素っ気無くみえるこの青年が、実は、不器用なまでに表に出ないだけで、酷く優しい事を輔は長年の付き合いからよく知っていた。
「いっそ、一緒に連れてくか? この世界に居場所が無いみたいだし」
「簡単に言ってくれますね」
二人は元々この世界の住人ではなかった。
生まれも育ちも全く異なる『異世界』のものだ。
不測の事態にこちらに『跳ばされる』事になってしまったが、元の世界に戻る準備は着々と進んでいた。
それは、もう、あと最後の一歩を踏み出すだけの段階にきている。
「基本的に体は同じ構造を持っているようですが、こちらの世界の人間が界を渡る事の影響は予測できませんよ?
梨奈が死ぬ事になっても構わないんですか」
「…嫌な事を言うね、お前」
憮然とした幼馴染は、でも、と続ける。
「それは俺たちにも言える事だろ? 何が起きるかなんて、実際、やってみなきゃわからない訳だし」
梨奈を見捨てたくない、と、輔は言った。
「俺たちの世界ならともかく、この世界の日本という国でだ。あんなに気を遣って、敬語しか使わない子供なんて初めて見た」
誰が見ても痛ましい、そんな子供だった。
破れたワンピースに腫れた頬、痣でまだらになった腕、最初に会った時の激しい拒絶、何が起こったかなんて一目瞭然で。
あんな公園の片隅で、助けすら呼べずに一人で死んでいく所だったなんて。泣く事すら許しを求めて。
あまりにも、悲しすぎる。
「この国の施設に預ければいいでしょう。児童虐待は犯罪です。このまま放置される事はないと思います」
「…そ、だよな。そうするしか、ないよな」
「何故、貴方がそんなに落ち込んでいるんです。同情も程々にしなさいといつも言っているでしょう」
「無理だって…! お前だって、抱き締めて慰めるなんて、普段なら考えられないくらい破格の扱いしてた癖に!」
こちらの世界で過ごした数年、短いようでどれだけ長かった事か。還る日を待ちわびたか。
所詮、仮初めの世界。還ってしまえば、二度と来る事もないだろうと、誰とも深くは関わらず、思いを残さない事に成功していたのに。
最後の最後で未練と呼べるものが出来てしまった。
「あと、三日だろ。それくらいの時間、一緒にいてもいいよな」
「…タズ」
「わかってるって! でも、できる限りの事をしてやりたい」
総規はそれ以上何も言わない。
輔に押し切られているようにみえてそうではない。
きっと表に見せない場所で同じ事を考えているに違いないと輔は確信していた。