3-2
研究棟に着くと、いつもと変わらない様子でその部屋の主が出迎えた。
「おお、リナか。いつも早いなぁ」
のんびりと声を紡ぐ、その人物は四方八方に飛び跳ねたダークブラウンの髪を撫で付けながら、にっこり笑う。
ひょろりと細長い印象を受ける壮年に差し掛かった男は、また徹夜だったのだろう、例の如く、膝丈の長い上着も下もしわくちゃにして現れた。
朝一番に新しい衣を準備するのがリナの日課の一つにもなっている。
無精髭が伸びたむさ苦しい身なりをしているが、目尻の下がった茶色の目はいつも全てを受け入れるような柔らかさをたたえている。
「オーバ様、おはようございます」
「おはよう、リナ」
彼の名前は、イェロン・オーバ。王宮筆頭魔術士として知られる人物である。
ソウキの魔術士としての師でもあるその人は、快くリナの保護を承知してくれ、王宮で暮らし始めてからリナは定期的に彼の元へ通っている。
この世界の事情も彼を通じて色々教えてもらった。
「また、このような有様になってしまったよ。毎度、リナに片付けてもらっているのにほんとに申し訳ない」
リナは無言で部屋の惨状を確認する。
床に散乱した書類、棚に戻される気配の無い崩れた本の山、あちこちに貼られた紙片をはみ出して壁にまで描かれた様々な図式。
目も当てられない散らかしっぷりとはこの事だ。
*****
「君がソウキが連れてきたという異界の子供かな」
最初に引き合わされた時、身体が言う事を拒んで硬直した。
何に引っ掛かったのかは早まった鼓動が教えてくれる。
伯父と同じ年の頃にみえる、男。
街中を通り抜けた時もタズークの屋敷に滞在している間も、誰と出会っても平気だったのに、相対したオーバを前に何故か逃げ出したくなった。
―――それはきっと、あの二人が側にいない所為。
二人はもう出立してしまい、リナの側についていてくれるのは、タズークの屋敷から付き添ってくれたシュナだけだった。
目に見えて、彼女が異様に緊張している事がわかったのだろう。
オーバは少し首を傾げてみせたが特に何を追及する訳でもなく、「ついておいで」と言って背を向けて歩き出した。
辿り着いたのは今、リナが通っている例の執務室と銘打たれたオーバの研究室兼仮宿となっている部屋で、そして、例の如く、足の踏み場もないほど散らかっていた。
唖然とするリナに、オーバは発掘作業と呼び換えてもいいほど、物が押し込められた棚から物を避けてカップを取り出し、魔術で甘みのある飲み物を作ってくれたのだが。
―――こんな部屋ではお茶を出されても寛げない。
「…あのっ」
「ん?」
「掃除してもいいですか・・・!?」
初対面の挨拶とか警戒心も突き抜けて、リナは耐え切れずに掃除を始めたのだった。
*****
いつの間にか、リナはすっかりオーバ専用の小間使いと化していた。
人心地がつくまで部屋の掃除を済ませてしまうと、リナは二つカップを持って、オーバの執務机に持っていく。
「おや、もう終わったのかい」
オーバは書類から目を上げて、こきこきと肩を鳴らす。
リナの持ってきたカップの上で、踊るように指先を動かすと、たちまちカップに金色のお茶が満たされた。
これも魔術の一つらしいのだが、シュナに言わせれば、このような些事に難解な魔術を使うのはオーバくらいのものだと呆れていた。
執務机の隣に置かれたリナ専用の椅子に座って、二人は穏やかな時間をしばらく楽しんだ。
「さて、今日はどこから話そうか」
三月の間、この世界の常識から読み書きに至るまで、生活に困らないだけの知識を教えてもらった。
眠り獅子の通称で知られるこの国、サンフォルド王国の事。
大陸の中でも大国に数えられるサンフォルドは、肥沃な領土に支えられる緑豊かな国だ。
眠り獅子と呼ばれる所以は、現王から数えて二代前の王にある。
その領土を狙われ、野心溢れる諸国との間に戦端が開かれた時があった。
それまで情け深く、穏健派で知られていた国王がまるで別人になったかのようだった。
まるで獅子が目覚めて咆哮するかの如く、軍略を以て、相手国の兵を完膚なきまでに叩きのめしたのだ。
それ以来、眠り獅子を起こすなと、サンフォルドは恐れられるようになった。
現在は小競り合いはあるものの、基本的にサンフォルドは武力に頼らぬ和平外交を続けている。
無闇な戦乱は国を疲弊させる。それを現国王は理解しているのだとオーバは言った。
その国に仕えている、ソウキとタズーク。
貴族と呼ばれる階級を組み込んだ社会制度を知り、改めて彼らの立場も知った。
薄々気付いてはいたが、二人はこの国の中でも別格扱いされる人物であったらしい。
タズークの生家であるコーマ家は王家の血を引く侯爵家で、ソウキは代々王家を守護する宮廷魔術士を輩出する家系の出身であるという。
「ま、貴族の中では変わり者で知られる二人だけどね」と、オーバは笑って締め括ったが、リナは同じように笑いを返せなかった。
「そういえば、前回、君は自分にも魔術が使えるのかと聞いたね。
結論から先に言おうか。貴石に気に入られれば、リナも魔術を使えるよ」
「貴石…」
「そう、前に説明したと思うけど、簡単におさらいしておこうか」
魔術は貴石との契約により発動する。
最初に教えられたこの世界の常識はリナにとっては想像もつかない世界の話だった。
オーバは透明な四角の箱を取り出し、いっぱいに水を溜めた。まさしく水槽だ。
次に様々な色合いの丸い球を何処からともなくたくさん取り出すと、その中に沈め、水中をゆらゆらと漂う球を指差し、これが世界のかたちだと示した。
「僕たちが住むこの界の他にも、リナが住んでいた界を含め、たくさんの世界がある。
それらの界は時にはその距離を縮め、交わったり、離れたりを繰り返しているんだ。一定の周期でね。
その中でも、ずっと僕たちのこの世界と交わり続ける界がある。すなわち魔術は、貴石を通じてその隣接した異界の力を引き出す術なんだよ」
オーバは服の下に仕舞ってあった首飾りを取り出した。
それは歪な四角に切り取られた銀の塊で、ソウキが正装した時につけていた耳飾によく似ていた。
「これが貴石。僕は一応、他にも貴石を持ってる」
複数の貴石と契約する魔術師は稀らしい。
じっと銀に輝く貴石を見つめれば、鏡の表面のようにリナの顔が映る。
と、その中に小さな星のような瞬きを見つけた気がして、目を大きく見開いた。
「おや、気付いたかい? リナは素質があるかもしれないなぁ。
それが異界への道だよ。僕たちが『女王』と呼んでいる界に繋がっている。ほんの時たま鮮明に映る事があるんだ」
石が生きている。
そんな風に思えて、目の前で起こったのに信じきれない、何とも言えない不可思議な心地だった。
「貴石の起源は明らかになっていないんだ。ただ、昔から貴石は魔術士から魔術士へと継承されていてね。貴石に気に入られ、その石と契約を結べば魔術士となれる。
反対に貴石に気に入られなければ、どんなに優秀な人材であっても魔術士にはなれないというわけだ。
石が人を選ぶとはなかなか面白い話だろう?」
手のひらの中で転がして石を見せてくれたオーバは、元通り服の下に仕舞うと、カップから一口お茶を啜った。
「リナにその気があるのなら僕の貴石を継承してみるかい? 無論、石を継承しただけで魔術士になれる訳じゃない。
『女王』はなかなか気難しいから魔術を使いこなせるようになるには苦労するよ」
まるで異界を意志のある生き物のように語るオーバは穏やかながらも何処か底が見えない部分がある。
けれど、リナは彼の側で過ごす時間が心地良くなっていた。ソウキたちと一緒にいる時のような、受け入れられて、護られている安心感がある。
たった三月、されど三月。
故郷から遠く離れたこの地で、少しずつリナは解放されていく。
ただそれは、嵐の来る前の静けさにも似ていたかもしれない。