3-1
王宮で暮らす日々も早三ヶ月を迎えた。
広大な王宮の一角、主に研究棟と呼ばれる建物へ向かう途中、リナは一陣の風の冷たさにふと立ち止まった。
直に木々が枯れ、眠りにつく白の季節がやってくるのだと聞いた。肌寒いと感じる瞬間も増えている。
日本を離れた時も冬だったのに、こんなにも早く二度目の冬が来るなんて。
―――まだ、帰ってこない。
最近、一日に何度も思ってしまうのは、夢見が悪い所為だろうか。
起きた瞬間に何の夢だったか忘れてしまうのに、暗い過去の残滓であろうと感じている、それ。
気を取り直して足を動かす。目的地まではもうすぐそこだ。
王宮は広い。似たような回廊が続く故、慣れない内は迷子になる事も多く、その日の内に辿り着けない事もあったくらいだ。
見覚えのある門構えが目に入り、リナはふっと吐息をついた。その時。
「りーなっ!」
「!」
何度目だろう、不意を突く登場の仕方に心臓がぎゅっと縮む思いをするのは。
胸を押さえて振り向けば、案の定、先ほどまで誰もいなかった筈の通路に忽然と一人の少女の姿があった。
「ミヤ」
しかめ面で名を呼べば、くすりと笑って近寄ってきた。
「相変わらず、不思議な色の目をしてるわね」
「…ただの、黒色だと思うけど」
「全然違うわよ、あたしが言うんだからそうなの」
美少女と呼ばれるに相応しい彼女には高飛車な物言いがこの上なく似合った。
服装も貴族の令嬢が着るような光沢のあるドレスを纏っているが、その色は例外なく黒だ。
波打つ銀の髪に真紅の瞳。年齢はリナと同じ年くらいにみえるが、微笑めば花が咲き零れそうに愛らしいだろうに、いつも唇の片端だけを持ち上げるような、皮肉げなものしかみせない。
「今日もアイツのとこに行くわけ?」
否定する必要もないので頷くと、ミヤはつまらなさそうな顔になる。
「あんなむさ苦しいオヤジと一緒にいて何が楽しいのかわかんないわ。
いい加減、あたしと一緒に来たらいいのに。まだここにいたいの?」
王宮に移り住んですぐくらいだったろうか、彼女がミヤの前に現れ始めたのは。
―――あたしミヤっていうの。この世界では魔物と呼ばれている存在よ。
そう楽しげに笑って、自己紹介された。
元々この世界で生を受けた訳ではなく、異なる世界から渡ってきた存在を『魔物』と呼ぶのだと、付け加えてミヤは説明した。
王宮にいれば魔物について噂を聞く機会はあったが、リナはまだ他の『魔物』に会った事は無かった。
仮にも一国の王が座す宮だ。巡回中の警備兵も少なくないというのに、誰にも気付かれず易々と出入りしているくらいだから、ミヤが魔物であるのは本当の事なんだろうと思う。
彼女はちょくちょくリナの前に姿を見せて、友達になろう、一緒に遊ぼうと無邪気に誘ってきた。
だって、リナの事、気に入ったんだもの。
そう言って。
「あの魔術使いと騎士がどうしてるか気になるんでしょ? あたしが連れて行ってあげるって言ってるのに」
「それは…駄目。お仕事の邪魔になる、から」
「ふうん、リナってバカみたいに従順ね」
リナの事が好きよ、そう告げる同じ口で、ミヤは毒を含んだ言葉を吐いた。
「その内、会えないまま死んじゃうかもよ? 危険な事ばっかやってるし」
「…言わないで、冗談でもそういう事」
「あら、嘘は言ってないわよ。殺したり、殺されたり。そういう状況を危険じゃないって言える?」
タズークの屋敷で世話になったシュナと共に王宮に移った後すぐ、ソウキとタズークは王から下された命により出立した。
あれから時々、顔を合わせる王のぞんざいな言葉で言えば、「ちょっとした野暮用」の為に。
詳細は未だに知らない。
自分が知ってはいけない事なのだろうとは理解している。
ただ、ソウキとタズークがどのような立場であるのか、シュナが説明してくれた。
ソウキが自分たちの事情を明かすように告げたらしい。
二人は国直属の騎士団に籍を置く身で、普段は王宮警護の任に着いている。
ただ、国内外を問わず厄介な案件の始末を任される事も多く、月の半分は王都の外へ出ている事も珍しくないという。
シュナは話の間中、国王の信任厚き有能な騎士様だと、ソウキとタズークを褒め称える事しきりだった。
そんな二人に王が名指しで命じた任務だ。十中八九、危険を伴う任務である事も想像がつく。
「お土産買ってくるからいい子にしてるんだよ」と笑顔で約束したタズークが気楽な旅行に出掛けるようにしかみえなくとも。
会いたくない筈がない。
この世界へ伴ってくれた、リナの身を案じてくれた彼らを。
二人に会えない日々が過ぎれば過ぎるほど、彼らを心配する気持ちが深まるほど、ミヤの誘いに抗いにくくなる。
いつもミヤはリナの心変わりを待つ前に興味を無くしたようにあっさり姿を消してしまう。
今日も同じだった。
こちらを動揺させるだけさせておいて、後は知らないとばかりに。
神出鬼没とはこの事だ。
何を考えているかよくわからない所もあるけれど、リナははっきり物を言う彼女を嫌いになれない。
割と酷い言葉も言われるが、ミヤには何処か突き放せない脆さがあるような気がするのだ。
―――ソウキさん、タズークさん。
心は正直に揺らめいて、我儘な欲を押さえつける事が苦しくなってきている。
今まで願いが叶う事など稀で、最初から期待する事さえしなかったのに、いつの間に諦める事がこんなに難しくなったのだろう。
*****
あの、王とのいささか心臓に悪い謁見が終わった後、帰り道の馬車の中でソウキとタズークにはしっかり怒られた。
「陛下も陛下だけど、リナもなんて事言うんだよ! 俺心臓痛くなった…!」
馬車が動き出したとたん、タズークに「頼むよ、ほんと」と半分泣きそうな顔で懇願された。
「ちゃんと自分を大事にしてくれよ。命って一つしかないんだからな! リナも一人しかいないんだからな!」
ごめんなさいと小さな声で口にした。
タズークはいつも真直ぐな態度でリナを大切に扱ってくれる。
隣に座ったソウキをそっと窺えば、王に向けていた絶対零度に劣らずの冷え冷えとした横顔が目に入った。
「…」
無言が重い。
やり方を間違えたのだと今更ながらに気付いて、リナは落ち込んだ。
自分を大事にしろと言われて、頷いてみせた。
それでも。
ふと、自分の声が聞こえるのだ。
…何故、と。
伯父夫婦との寒々とした生活が全てだったリナは、自分自身が存在する意味を見失って久しい。
死にたいとは思っていない。
ただ、優先すべき順位があるだけなのだ。二人の為ならば特に惜しむべきとは思えずにいて。
「死なせる為にこの国に連れてきたんじゃありません」
ソウキがこちらに視線を寄越さずに言った。
二人のかたちは違えども優しさに触れる度、どうすれば良いのかわからなくなる。
何が正しいのか、どうすれば最良なのか、みえなくなる。
今の自分を根底で支えているのは、二人の役に立ちたいという願いだと思う。
この国にもようやく慣れてきたばかり。力も足りない子供の自分に出来る事は少ないけれど。
役に立つ存在であれば、きっと、彼らの側にいる許しが得られるのじゃないかと思うから。
どうすれば彼らの側に留まれるのか、方法がそれしか思いつかない。
早く無事に帰ってきてほしい。
…会いたい。
リナは何処かで繋がっているだろう空を見上げ、声もなく祈りを呟いた。