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とうとうこの日が来た。
最初は視線だった。
ふと気が付くと、自分を見ている、どこか粘着質な、それ。
居心地悪く感じたそれに慣れる事はなく、年を重ねる毎に違和感が酷くなった。
普段、素っ気無いくらいの態度であるのに、視線だけが絡みつくようで。
生まれてすぐに父親を、そして、四歳の時に母親を不慮の交通事故で亡くした彼女は最初、引き取り手が見つからず、養護施設に身を寄せていた。
それが一転したのが、小学校に入学しようという年だった。
母の兄だと言う血縁が名乗り出てき、彼女は子供のいない伯父夫婦に引き取られる事になった。
探し出して引き取った割に、当初、彼らは自分の存在に無関心だったように思う。
仮にも血の繋がった伯父だ。
成長するにつれ、薄々その視線の意味に気付きかけてもいたが、目の前にある答えを敢えて見ないようにした。
知ってしまえば、ここにいられなくなる。
例え歓迎されていなくても、他に居場所はないのだから。
そう思っていたのに。
抱えた膝ごと身体が震えて止まらない。
張り飛ばされた頬が熱を持って、ずきずきと痛む。
与えられた白のワンピースは、胸元のボタンが取れて悲惨な状態になっている。
無理やり奪われた唇が気持ち悪くて何度もこすっていると、涙がぽろぽろと零れ落ちた。
十二歳の誕生日、それは冬の出来事だった。
*****
寒い。
真冬の夜に着の身着のままで寒くない筈が無い。
見つからないようにとしばらく公園の土管の中に隠れていたが、吹き込んでくる木枯らしはとても防げるものではなく。
梨奈は熱が逃げないようになるべく小さくなり、闇の中に沈んだ公園をぼうっと見つめた。
一時間以上はここに隠れている。
もう探す事を諦めただろうか。探されているかどうかもわからないけれど。
これからどうしよう。
途方に暮れてしまう。
まだ小学校も卒業していない、十二歳になったばかりの子供が一人で世の中を渡って行けると思える程、梨奈は世間知らずではなかった。
引っ込み思案で大人しい性格のせいか、梨奈は人付き合いが得意ではなく、いつの間にか知られていた自らの境遇も手伝って、学校に頼れるような友達はいない。
かといって、こんな目に遭った以上、伯父夫婦の家に戻るのはどうしても抵抗があった。
伯父は元より、血の繋がらない伯母には疎まれており、家族というより彼女は使用人扱いされていた。理由なく怒られ、酷く叩かれる事もしばしばだった。
だから、このまま、ここで消えてしまっても。
―――両親の元に行けたらな、なんて。
生きたい理由が見つからないのだから仕方が無いと思った。
「…さん」
…?
誰かの、声?
続いて、揺らされている身体。何もかもがぼんやりとしていて夢の中にいるのかと思った。
「お嬢さん、こんな所で寝たら風邪を引きますよ」
言葉だけ聞けば親切そうだが、声は何処までも面倒くさそうで語尾に溜息さえついていた。
「今、何時だと思っているんです? 寝るなら自分の家の布団で寝なさい」
…何だ、まだ、生きてるんだ。
半分寝ている頭でそんな事を考えた。まさか、それが呟きとなって外に洩れていたとは思いもせず。
「こんな所で自殺志願者ですか」
心底疎ましそうな声に身が竦むよりも、思わず笑ってしまったのはどうしてだろう。
面白くもないのに。声もなく笑って。
もう自分は壊れかけているのかもしれないと思った。
土管の入口に顔を向ければ、暗闇に慣れた瞳に浮かび上がったのはスーツ姿の男だった。
男と気付いた瞬間、笑いが凍りついた。
忌まわしい記憶が蘇り、全身ががくがくと震え出す。
慌てて凍りついた身体を無理やり反転し、反対側の出口から這い出ようとするも、あっさり先回りされて腕の中に閉じ込められた。
「ぃやぁぁぁっ!」
全力で逃げ出そうとしても、大人と子供の体格差に加えて、相手は男。逃げ出せる筈が無かった。
「ちょ! 落ち着いて、何もしないから!」
噛み付こうとした際に一瞬解放されたけれど、すぐに背後から押さえ込まれる。
しかも大声を出さないように、口を手で塞がれた。
もがいても振り解けない事に絶望すると、梨奈はもう泣き出すしかなかった。
「ソウ! 何とかしてくれよ…! 交渉や説得はお前の得意分野だろ!?」
「子供相手に何を言っているんですか。とにかく」
目の前に片膝をついて、目線を合わせた男がさっきの土管で見た相手だと気付く。
という事は相手は二人いたのだ。
細い銀のフレームの眼鏡をかけた、綺麗と言っても良い顔立ちの、大人の男の人だった。
さっきまでの迷惑そうな態度は形を潜めて、一転、真面目な表情が取って代わっている。
「僕たちは子供にどうこうするような趣味など持ち合わせていません。
見当違いの妄想を止めて、その目を開いてちゃんと見なさい」
極当たり前の事を当たり前のように言っている、叱るような口調だったからか、その言葉は自然と頭の中に入ってきた。
やっと気持ちが落ち着いてきて、辺りを見回す余裕が出た後に、改めて眼鏡の男の人の目の奥を覗き込んだ。
多分、それは無関心と言い換えても良い程の冷たさをたたえていたけれど、あのどろどろとした熱情に比べれば、余程、心地が良く思える。
梨奈の様子を見て取って、後ろの男の人もそろそろと口から手を外し、前に移動してきた。
冬にあるまじきTシャツとジーンズ姿の彼は、柔らかそうな短い髪に手を差し込んでくしゃりとし、「もう大丈夫か?」と晴れやかに笑った。
お日様みたいな人だった。
誤解して暴れた事を申し訳ないような気持ちになる。
「着なさい」
立ち上がると、眼鏡の男の人はそう言って背広を脱いで差し出してきた。
戸惑って見返せば、しびれを切らして強引に着せかけられる。思ったより短気な人かもしれない。
それでも腕を通せば、冷え切った身体に灯がともるような心地がした。
「で、どうするよ? 明らかにこれ、お家には帰れません、ってヤツじゃん」
「保護するしかないでしょう。仕方ないですね」
名前は?と聞かれて、リナ、とだけ答えた。
「…ぁの、私、家に帰ります、から」
二人が困っているのが見て取れて、思わず口にしていた。
「本当に?」
逡巡した後、頷く。迷惑をかけたくなくてそうした。
「嘘ですね。帰れるならとっくに帰っているでしょう、こんな場所で眠っていずに」
それはその通りだが、肯定する訳にもいかず、声にならないまま、首を横に振る。
何度も横に振った。
その時、すっと頬に手が伸びてきて、驚いて固まると、打たれた方の頬を指先で撫でられた。
「腫れていますね」
「うわ…こんなちっちゃい女の子に、マジかよ…!」
くだけた雰囲気の男の人は痛ましそうな顔をした。
梨奈はもうどうしていいかわからなかった。
「とりあえずさ、後の事は後で考えるとして、今日、一晩だけでもソウの家に泊めてもらいなよ。
今夜は寒いよ。外にずっといたら風邪を引いちゃうよ~」
「何故、僕の家なんですか」
「だって、俺ン家、足の踏み場もないよ? 冬場だから虫は出ないと思うけど、空いた部屋は埃がたまりにたまってるだろうし~」
「…わかりました」
そんなやり取りの後、流されるまま、梨奈はソウと呼ばれた人のマンションに行く事になった。