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時間はあっと言う間に過ぎていくもので、何時の間にか僕は、自宅の前に立っていた。
今朝の夢の通り、今この家で生活しているのは、僕一人である。
「ただいま」
しかし、ガチャリと鳴る玄関の戸を開けつつ、ついただいまと呟いてしまう。
「あら、お帰りなさいな」
返事なんて返って来やしない。
ただ、淋しさを助長するだけの虚しい行為であるが、
「お帰りなさいってば」
長年体に染み付いてしまった習慣は、
「ええと、……こほん…私はいつだって、あなたの側に…。
うわ、今やると小っ恥ずかしっ」
そう簡単に治ってはくれなかった。
「これでも反応無しって、どういうこと?」
玄関に脱いだ靴を並べ、家にあがる。
昔、アメリカに住んでいた時は、土足で家の中を歩き回っていたようだが、こちらに来てからは日本の風習に習うようにしている。
「お帰りなさいあ、な、た。
お風呂にする?ご飯にする?
それとも…しぬ?」
「さて、汗かいちゃったから、お風呂にでも入ってこようかな」
「…微妙に噛み合ってないわね。
明確な悪意を感じるわ」
あまり長く一人で暮らしていると、独り言が多くなってくる。
悪い癖だ。
「はぁ。今日も疲れた」
「おお、意外と良い体つきじゃない。
…え?私?無いわよそんなサービスシーン」
適当に衣服を洗濯機に投げ入れ、タオルを持ってシャワールームに入る。
「今日の入浴剤わっと」
そうだな、夏だからこれにしよう。
僕はバフ・ブルースカイと書かれた小袋を備え付けのカゴから取り出し、中身を湯の中に入れた。
「うわ、体に悪そうな色。
大丈夫なのこれ?」
蛇口を捻り、シャワーから出る液体を浴び…
「あぶん!?あ、あづっ!!熱い、熱い、厚い!!?
な、なにするのよ!
そういうプレイはまだ早いわ」
ようとしたが、体に湯をかける前に設定温度が五十二度になっていることに気がついた。
危ない危ない。
「ねえ、好い加減返事してくれてもいいじゃない」
人の声が聞こえた気がするが、多分米を洗っているので、その音がそう、聞こえてしまっただけだろう。
そうに違いない。
一人暮らしも長くなったものだ。
「…ここまで来ると、先生褒めてあげたくなっちゃう」
先生、僕の家にいつの間にか殺人鬼が居座っていたのですけれど、どうすればいいのでしょうか?
「でも、そろそろ飽きてきちゃったなぁ。
だから………殺っちゃおうかなぁっ!」
ビュッと風を切る音が背後から聴こえた時には、スチール製のボウルに写った拳が、僕の後頭部に重なる位置にあった。
「やらせないよ」
「え?」
しかし、頭を横にずらし、拳を辛うじてかわす。
台詞は余裕ぶっているが、こんな突然の奇襲では、いくら相手が女の子でも、厳しいものがある。
空振った拳は、そのままボウルをベキリと潰し、その衝撃でまな板の上のトマトをぼとりと床に落とした。
どうやら幻覚の類では無い。
精々この程度の状況認識が精一杯である。
「うそ?なんで?本気で殺そうとしたのに」
だが、虚勢が与えた効果は絶大だったようで、その殺人鬼の表情は、まるでごく普通の女の子であるかのように怯えていた。
夢の中でも見たが、やはりこんな奴でも見た目だけは飛び切り可愛い。
一見するとファンタジー系統のラノベのヒロインのように見えなくもない。
流れるような銀髪のツインテール、少し狂気がかった吊り目。
なによりその全身にまとった、どこかで見たことのあるデザインの、銀の鎧がいっそうファンタジーさを強調していた。
その鎧の一部である銀のガントレットが視界に入ったことで、それどころでは無いことを思い出す。
あれで殴られたら、僕の頭もぺしゃんこに潰れてしまうだろう。
「なんで?なんでよ?」
台詞の合間に、二回拳が飛んできた。
しかし、今回は正面で向き合っていたことと、意外とスピードが遅かったこともあり、余裕を持ってかわす。
空振った勢いで少女がよろめく。
もう殆ど条件反射で僕の足が伸び、彼女の足首を刈って地面に伏せさせた。
すかさず馬乗りになって、彼女を地面に抑え込む。
「ひっ、うぐ」
彼女の少しこもった呻き声が耳に入った時には、もうなんか僕のテンションがおかしなことになってしまっていた。
「あっは……」
つい、笑い声が口からこぼれる。
これじゃあどっちが殺人鬼なんだか。
…そうだ、悪いこと思いついた。
後ろ手にシンクの上をまさぐる。
あった。
さっきまで料理に使っていた包丁を、相手に見せつけるかのように、ゆっくりと彼女の眼前まで持っていく。
「ひっ」
その間に相手に気づかれないように、先程彼女が落としたトマトをもう片方の手の近くまで手繰り寄せる。
床から離れようと彼女がもがいたが、彼女の耳から数ミリ離れたところに包丁を刺したら、ピタリと動きが止まった。
「ふ、ふふ。あっはっ!ツウィイスタァゲエェムッ!」
「えっ!?なに!!?」
カッ、と目を見開いて、狂気的な表情を作る。
よし、いい具合に怯えてる。
この感じなら騙せそうだ。
右手で包丁をしっかりと握り直し、それから彼女の目を突き刺すかのように包丁を振り抜く。
実際はちゃんと彼女が体をよじってスペースを開けるまでブレーキをかけているのだが。
「ひいぃっ!!ああっ!」
彼女が悲鳴をあげる。
つられて自然と僕の口角もあがる。
まずい、癖になりそうだ。
ざくり、ざくり、ざくり、ざくり。
何度も何度も、ギリギリのところで刺し損ねる。
「はあっ、はあっ!」
「ふふふふふ、あっはぁ!」
そこに変態が二人いた。
よし、これで最後だ。
左手でトマトを握り、それを覆い隠すように両手で包丁を握り直す。
今度は一切のブレーキをかけずに、思いっきり振り抜いた。
「きゃあぁああぁぁ…ぁ」
ように見せ掛け、相手の眼前で包丁をピタリと止め、同時にトマトを握りつぶした。
きっと彼女の視界は真っ赤に染まっている筈だ。
もちろん、血ではなくトマトの赤で。
「ははっ、ジョークだよ。君じゃないんだから、本気でほぼ初対面の人を殺そうとするわけがないだろう?」
言ってから、そういえば僕は殺されようとしていたことを思い出す。
…包丁をどけたが、表情が固まったままだ。
「もしもし?」
とんとん、と肩を叩いてみる。
肩というよりは、鎧の一部だが。
「あ、やり過ぎちゃった? ごめんごめん」
謝ってはみたが、聞こえているわけがないと、言ってから気がついた。
彼女は完全に白目を剥いて、口からよだれを垂らしている。
「いや、冗談のつもり、だったんだけどね」
つい、やりすぎてしまう。
悪い癖だ。