目覚まし時計の見る夢
例えば、今目の前にあるその景色。胸を突き刺すような、激しい優しさ。
「例えばだ」
彼はモスコミュールの入ったグラスを、たんっ、とカウンターテーブルに叩き付けた。
目の前にいた店員が迷惑そうな顔でこちらを見ていたが、彼は全く気にする事なく、というよりは本当に気付いていなかったのだろうが、ともかく話を続けた。
「俺達の体は六十兆からなる細胞で出来ている。そしてその細胞一つ一つはもっと細かい要素、つまり原子で出来ているわけだ」
僕の右隣の席に座っている彼は、グラスを両手でしっかりと包み込んでじっとそれを見つめている。
もしかしたら僕にではなく、そのモスコミュールの入ったグラスに話しかけているのかもしれないな、なんて事を思った。
「で、その原子はさらにいくつかの中性子や陽子、電子の集まりに過ぎない。俺の言いたい事、わかるか?」
彼がモスコミュールに尋ねる。だけどモスコミュールがそんな問いに答えられようはずもないので、代わりに僕が答えた。
「僕達の体は、つまりそういったモノの集まりに過ぎないって事か?」
わりと的を射た解答だなと自分では思ったのだが、彼は漫画の主人公みたいに大げさなため息を一つ漏らしただけだった。
「俺達の体だけじゃない。この世に存在するもの全てが、そういった物質や電荷の集まりだって事だ。別に俺は、ここでお前に唯物論を説いて聞かせているわけじゃないからな」
それはそれで唯物論とはちょっと違うような気もしたが、話の続きが気になったので僕は黙っている事にした。彼の話は、特に酔っている時のそれは、馬鹿げているがそれなりに面白いのだ。
「でも、それが全てじゃない。物質が全てじゃないんだ。もう一つの大事な要素、現象が絡んでくる。うん。お前、量子力学の有名なエピソードを知っているか?」
理系専門の彼が好きそうな話だな、なんて事は思ったものの、僕自身そんな難しい話はこれっぽっちも知らなかったので黙っていた。
彼はそれをその通りに解釈してくれたらしい。
「簡単に言うと、運動している素粒子を観測する場合、その位置と運動量を同時に知ることは原理的に不可能である、とまぁこんなもんだな。つまり、そういう事だ」
さっぱりわからなかった。
まず量子力学の有名なエピソードというやつの中身が全く見えなかったし、それ以前に、そもそもそいつが今までの話とどう結びついているのかさえ皆目見当も付かない。
だけど彼は自分の説明に満足したようで、モスコミュールを一口飲んだ後、うんうん、と小さくうなずいた。
僕もとりあえず、そうだな、なんて呟いたりしてみる。
「全ては物質であり、現象なんだよ。いや、そこに物質が存在しているという現象なんだ。この世界のどこにも確かなものなんてありはしない。そこにそれがある、という確率的な一つの現象の連続に過ぎないんだよ」
今まで誰にも言った事のない秘密を打ち明けるように、彼は一気に吐き出した。誰にも明かした事のない世界の真理。そんなものを彼は一息に語ってみせたのだ。
「だけど、その現象を捕らえる受信機だけは、確かにここに存在する」
ここに、という部分で彼は自らのこめかみを人差し指で二回つついた。
世界の真理を捉える受信機の存在。そんな演題の書かれた紙が、僕の頭の片隅でひらひらと舞っていた。
「人体の機能なんてものは、結局のところ全てが脳に収束する。ほら、五感ってのがあるだろ。目で見て、耳で聞いて、鼻で臭いをかぎ、舌で味わい、触れて感じる。…そんなもの全て嘘っぱちだ!」
相当酔いが回ってきたのか、彼は急に語調を荒げた。
そのままの勢いで持っているグラスをまたテーブルに叩き付けるかと思ったら、彼は逆にそのグラスを一気に空にした。そして、それをそっとコースターの上に置いた。
店員の言葉に、彼が首を横に振る。
「脳が見ているんだよ。脳が聞いて、脳が臭いを区別し、脳が味わい、脳が感じているんだ。脳が感知している電気的な刺激のパターン。目や耳なんてものは、ただのアンテナだ。アンテナが情報を処理しているわけじゃない。アンテナにつながれた脳が、情報を処理しているんだ」
ま、そうだな。確かにその表現が正しいだろうな。そう言いながら僕もグラスを空にした。そしてもう一杯同じものを注文する。
僕の酒が来るのを待ってから、彼は話を続けた。
「こんな話がある。ある精神カウンセラーが実際にやったものだ」
ひと呼吸おいた後、本当の話だからな、と彼は付け加えた。
「まず、被験者に熱湯の入ったポットを見せる。まあ、ただ見せるだけだと本当に熱湯が入っているかどうかわからないから、それでホットのコーヒーなんかを入れて見せるんだ。次にその被験者の手をテーブルの上に置かせ、さらに目を閉じさせる。そしてその手にポットから熱湯を注ぐ…」
カウンターの上に無造作に乗せてあった右手を彼に見られているような気がしたので、僕はそっとそれを引っ込めた。
「被験者はその熱さでとっさに手を引く。見ると熱湯をかけられた部分は真っ赤になり、水ぶくれまでできている」
酷いカウンセラーもいたものだ。そういう意味の事を彼に言ったが、彼はゆっくりと首を左右に振った。
「そうじゃないんだ。実はポットから熱湯を注がれたというのは、その被験者の思い込みだったんだよ。カウンセラーが手にかけたのは、そばに置いてあった花瓶の水なんだ。ただの水をかけられただけなのに、水ぶくれができてしまったわけだ」
水だけにな、と彼は小さな声で呟いた。
自信がないのなら初めから言わなければ良いのに、と思ったのだがそれはあえて言わなかった。
「つまり、脳が火傷をしたんだよ。熱湯をかけられたと判断した脳が火傷を負ったんだ」
モスコミュール、と彼は付け加えた。
「極端な話、全ては脳が受信している現象のつなぎ合わせに過ぎない。お前の今知覚しているものの全ては、もしかしたら脳が誤って受信しているものかも知れないってわけだ。脳が火傷しているみたいにな」
彼の前にグラスが一つ置かれた。しかし彼は口を付けようともせずに、ただ両手でそれを包み込むだけだった。
モスコミュールを温めているのか、自分の両手を冷やしているのか、もしくはその両方か。僕にはわからなかった。もしかしたら、そのどちらでもないのかもしれない。
「例えば培養液で満たされた大きなビーカーの中に、脳が一つ浮かんでいるとしよう。眼球も、脊髄も何もついていない。丸裸の脳だけがそこにある。それには無数の電極が埋め込まれていて、そこから直接、色々なパターンの電気的刺激が送られている。目の前にあるカウンターの質感。座っている椅子の感触。飲んでいる酒の味。俺の話。そういった事を表す電気的刺激が、その脳に直接送られているんだ。そうすればその脳は、まさか自分がビーカーの中に浮かんでいるなんて事に気付きもしないで、友の話に耳を傾けながらバーで酒を飲んでいる自分というものをその内面に構築し、それに従って他の電気的刺激を処理していく」
なるほどねぇ、と僕は間の抜けた感想を述べた。
その僕の反応が気に入らなかったのか、それとも単にしゃべり疲れただけなのか、とにかく彼は大きなため息を漏らした。そしてグラスに口を付けた後、「相変わらず酷い味をしているな、ここの酒は」と呟いた。
カクテルなんてこんなものだろ。そう言おうとしたのだが、店員の目が気になったのでやめておいた。
「もしかしたらこの世界に生きている人間全てが、ビーカーの中に浮かんでいる脳だけの存在なのかもしれないな」
その言葉で彼は、世界の真理を捉える受信機の存在という自らの仮説を締めくくる。御静聴ありがとうございました、というわけだ。
となると次に当然、質疑応答の時間が取られるはずだ。
僕はぐいっと酒を流し込み、のどのすべりを滑らかにしてそれに備えた。
「じゃあ、いったい誰がそれを管理しているんだい。誰が僕達にそんな、夢を見せているんだ。誰がこの世界に住む六十億もの人間の夢を紡いでいるんだ?」
少々酔いが回ってきたのか、僕は自分でも何を言っているのかわからないくらいにまくし立てる。しかし、彼は僕の問いを正確に聞き取っているようだったので、さらに続ける事にした。
「人間の思考や行動なんて、そんなに単純なものじゃない。さらにそれらが複雑なネットワークを構築しているんだ。家族、友人、会社の同僚や上司、すれ違うだけの人々。そういった人と、多かれ少なかれ影響し合って暮らしているだろ」
彼は、時折うんうんとうなずく以外、微動だにしなかった。
「それだけじゃない。例えば僕が今、こうして何気なく取った行動が地球の裏側に住む人に影響を与える事になるかもしれない。別にそんなに遠い所じゃなくたって構わないさ。僕の行動は、僕が見た事も会った事もない人にまで影響を与えている。時間や距離なんてものには関係なくだ。具体的な例を挙げればキリがないけど、そういう事ってあり得るわけだよな?」
よくもこんなにすらすらと言葉が出てくるものだな。他人事のようにそう思った。どうやら予想以上に酒の回りが早いらしい。
だが、僕の口は動き続けた。
「じゃあ、いったい誰がそんな複雑な物語を僕達に与えているんだ。誰が六十億の脳が入ったビーカーに囲まれて、その一つ一つに物語の描かれた電気的刺激を送っているんだ?」
別に彼の話に異を唱えているわけじゃない。僕はただ、思った事を率直に言ってみただけなのだ。
彼はゆっくりと目を閉じ、しばらくの間そうしていたが、やがてそのままこう答えた。
「神様、かな」
自嘲的な笑みを浮かべて、彼はモスコミュールを飲み干した。
かたかたかたとキーボードを叩く音だけが、部屋の中に響いていた。
もうとっくに正午は過ぎたはずだけど、まだ何も口にしていない。そういえば、昼だけじゃなくて朝もまともに食べていないなぁ。そんな事が頭の隅をかすめたが、僕は相変わらず忙しなく指を動かし続けている。それと同じくらいの速度で表示される英数字の羅列を瞳に映しながら。
かたかたかたかた。そんなふうにして僕は今日も、この試作型人工知能用アセンブラプログラムを立ち上げているのだった。
人工知能の開発に拍車がかかったのは、そんなに昔の事ではなかったはずだ。確か僕がこの大学に入ったばかりの頃は国からの開発援助金なんてものはなかったから、ここ二、三年の事だろう。
なんでも現在世界を管理しているシステムの運営が、人間の持つ知能だけではどうも上手くいかなくなってきたらしい。
まあ、無理もないだろう。どんなに優れた人であっても間違いは犯す。それは防ぎようのない事だ。しかし彼らの扱っているそのシステムは、どんなに小さなミスであろうとも致命傷になり得るような、精密かつ脆弱なものなのだ。
そんなシステムだからこそ、この世界は完璧な秩序で包まれている。そしてその中で僕達は、いつ崩れてもおかしくないような揺りかごに揺られているのだ。
その事を解決するために国は、というより世界は、より完璧で絶対的な管理機構を欲している。その管理機構の中枢に人間の代わりに置かれる予定となっているのが、人工知能というわけ。そして莫大な国家予算が、それに注ぎ込まれている。
まあ、そのおかげでこうして高価な機材を好きなだけ使う事ができるのだけどね。
僕が今開発しているのは本物の人工知能ではない。というより、そもそも完全な人工知能などまだ誰も完成させてはいないのだ。世界中の科学者や技術者達が「まあ、とりあえずはこのぐらいかな」的なものを作っているのが現状だから。
それでもやはり少しずつではあるが、漫画に出てくるようないわゆる人工知能というやつには近付きつつある。そして、僕も微力ながらその一端を担っているというわけだ。
ふう、と僕が一息つくとそれに反応するようにして、ディスプレイにプログラムが正常に起動した事を示す文字列がせり上がってきた。それを確認して、僕は三時間半ぶりに立ち上がったのだった。
このプログラムさえ起動してくれれば、あとは機械が全てやってくれる。僕はただ適当な時間を見計らって、電子書籍をとっかえひっかえドライブに差し込めば良いだけだ。
まさか、最初の準備にここまで時間のかかるものだとは思わなかったな。まあ、今ではずいぶんと慣れてきたけどね。そんな事をぼやきながら、僕はコーヒーメーカーのスイッチを入れた。いつの豆かも確認せずに。
そもそも、人工知能とはいったい何なのか。世界中の科学者達は、まずそこから研究を始めた。
なぜそんな事を研究しているのか、僕にはさっぱりわからない。人間の代わりになるコンピュータ。それが人工知能だ。そんな簡単な答えがすでに存在するにもかかわらず、しかし世界中のシンクタンクでは未だにその事を討論し続けているらしい。ずいぶんと暇な科学者達もいたものだ。
僕が現在開発している人工知能は、人間の知能が有する重要な働きの一つ『経験に基づく判断』の代わりとなるものだ。人間の持つ機能の、ほんの一部分。
そのシステムはいたって単純なものとなっている。何しろ僕の作っているものだからね。
質問を一つ入力する。するとあらかじめ覚えさせておいたデータの中から、質問に関連したものだけが抜粋される。それらのデータを質問と照らし合わせ、その結果により答えを返す。
たったそれだけだ。たったそれだけのシンプルなものなので、当然、いくつかの制約がかかってしまう。
その最たるものが、イエス・ノーでしか答えを返せない、という事だろう。
例えば、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』という質問を入力したとする。それに反応して、そいつは自分の中に蓄積されている膨大な数のデータから『アンドロイド』『電気羊』『夢』といった項目を全てピックアップしてくる。そして入力された質問と自分が拾ってきた項目とを照合して、その確率が五十パーセント以上ならイエス、以下ならノーと書かれたランプを点灯させるのだ。
ちなみに、実際にこの質問を入力したところ、イエスのランプが点灯した。中のプログラムを調べてみたら、その確率は五四・三パーセントとなっていたが。
このプログラム自体に、もうバグはないだろう。完成した、と言っても良いぐらいだ。だから、あとはこいつに様々な事を覚えさせていくだけ。現に今もこうして電子書籍を読ませている最中なわけだ。
それにしても、と僕はまずいコーヒーをすすりながら思った。
彼の言うとおり、この世界には確かな事なんてないのかもしれないな。全ては現象の連続、それもひどく曖昧なものばかりだ。
この人工知能を作っていくにつれ、その思いは強まっていく。
初めてその事に気が付いたのは、本当に偶然だった。僕はただ、それで遊んでいただけなのだ。
いい加減、プログラムのバグ取りなんて作業に飽きてきた僕は、とにかくくだらない質問を入力しては、その回答と確率を見て楽しんでいた。そしてそのうち、いかに百パーセントに近い確率で回答を出せるか、という事に没頭していったのだ。
今日の天気は良いか。イエス。五八・四パーセント。
空は雲一つない青空。しかし、天気なんて不確かなものでは数字は上がらないようだ。ではこれならばどうか。
僕は男か。イエス。五三・一パーセント。
はて、と思った。こいつには僕の経歴や身体的特徴は全て入力してあるし、男というものが何であるかという生物学と心理学の面から見た学術論文も読ませたはずだ。にも関わらず、その確率は半分ちょっとなのである。逆を言えば、僕が実は女だったという不確定の要素は、無視できない確率でそこに存在しているという事になる。
不確かな現象の連続。僕が男であるという不確かな現象の連続というわけだ。
うん。彼の話はやっぱり面白いよ。
そんな事を考えていたら、電子書籍のデータを全て読み込んだという事を表すブザーがブービーブービー鳴り始めた。続いて、データを項目ごとに整理するかどうかという選択肢が、ディスプレイに表示される。
僕はコーヒーカップを持っている右手の小指をうんと伸ばして、Yのキーを押した。
順調、順調。
そんな事を一人で呟きながら、僕はまずいコーヒーを一気に流し込んだ。
「まったく、休みだってのに、お前は相変わらずこんな陰気な所に籠もりっぱなしか。精が出るねぇ……」
左手にコンビニの買い物袋をぶら下げながら、そいつはノックもせずに僕の研究室に入って来た。
「自由研究みたいなものだからね。ほら、夏休みとかによくやっただろ」
僕が振り向きもせずに言うと、「夏休みの自由研究には国からの予算なんて降りねぇよ」と彼は少し鼻で笑い、それから買い物袋の中身を一つ取り出して、僕の両手が忙しなく動いている横にそれを置いた。
「お前の所のは、飲めたものじゃないからな」
汗をかいた缶コーヒーが一つ。後では、おそらく彼も同じものを飲んでいるのだろう。液体が勢い良く喉を駆け下りていく音が聞こえてくる。
「それにしても、何とかならないのかよ、この蒸し暑さは」
外ではセミが何匹か鳴いているようだが、彼はその事を言っているのではない。この僕の研究室の温度について文句を言っているのだ。
何しろ、部屋をぐるりと取り囲むコンピュータやら何やら全てに電源が入っているのだ。冷房を付けているとはいえ、確かにここの気温は、外のそれとは比較にならない程高かった。
「で、悪の手先様は、今日はどんな悪巧みをしてるんだ?」
僕の肩越しにディスプレイを覗き込みながら、彼は言った。
「相変わらずだよ。プログラムを立ち上げて、人工知能にいろんな事を覚えさせてるんだ。それより、何だよ悪の手先って」
キーボードの実行キーを弾いてから、僕は缶コーヒーに手を伸ばした。
「世界を支配するための人工知能を開発してるんだろ? 世界を支配するのはな、神様か悪の組織って決まってんだよ。お前は、神の御使いなんて柄じゃないから、悪の手先だな。うん」
そういう事になるのかなぁ、と僕は苦笑いを浮かべた。
「呑気な奴だな、お前も。……今じゃ、世界は完全な秩序の中にある。雑草すらも、その生える場所を定められているくらいだ。ぞっとするね」
雑草は、管理できていないから雑草って言うんじゃないのかな。そう言おうとしたけど、今の彼には何を言っても無駄だろう。それに返ってくる言葉もわかりきっている。
それなら、この世界にはもう雑草なんて存在しない、だ。
「僕は、良い事だと思うんだけどな。ほら、犯罪だって激減したし、貧困に苦しむ人もいなくなっただろ。みんな、幸せに暮らしてるじゃないか」
「それを望まない連中もいる」
確かに、最近では自由革命なんて大仰なものを掲げて、各地で運動をしている団体もあるようだけど、そんなのはほんの一部だ。それに、そういう人達だってこの秩序の恩恵を受けて暮らしている。それはわかっていると思うんだけどな……。
彼は大きなため息を吐きながら、窓の外を見つめた。
「猫が良い例じゃないか」
「猫? 今のは人間の話じゃなかったのかい? 猫がいったいどうしたのさ」
驚いたというか、呆れたというか、とにかくそんなような表情を露骨に浮かべて、彼は僕の方に向き直った。
「まさか、お前、知らないのか? これだから、ニュースも見ない研究馬鹿は――」
「そんな大事件なのか。何があったんだよ」
ここ一ヶ月程、僕は研究に没頭していて、まともにテレビも見ていない。そうしている間に、猫達にいったい何があったというのか。
しかし、彼はすぐには話さず、もったい振るようにして部屋の中をゆっくりと巡る。そして、また窓の近くまでやって来た後、「絶滅寸前だ」と一言だけ呟いた。
「絶滅!? なんでまたそんな事に。猫達の生態だってきちんと管理されているはずだろ」
「あいつら自身がそれを望まなかったんだよ。……外にいた猫達は揃って海や川に飛び込んだ。保護された猫達も、互いの喉元に喰らい付いて仲良くね。そういう相手がいなくなったら、最後は餌を食べずに餓死するのさ」
彼は台本の台詞を棒読みするように、淡々と事実を述べた。
わかっている。こういう時の彼は、抜群に機嫌が悪いから、僕は言葉を選ばなくてはならない。
「……支配されたり管理されたりする事を拒んだって事なのかい? 自由を奪われるくらいなら、自ら死を選ぶ。そして猫達は実際に行動を起こした、とそういう事なのかい?」
僕に背中を向けたまま、彼は小さく「そうだ」と呟いた。
どうやら、これ以上彼の機嫌を損ねずに済んだらしい。僕はほっと一息ついて、次にかけるべき言葉を探していた。しかし彼はそれを待たずに、何かに弾かれたように振り返った。
「それだけじゃなかったのかもしれない……」
彼の目は、僕の方を見てはいるけれど、僕を見てはいない。
そんな驚愕と困惑の表情で、何事かをぶつぶつと呟きながら考え込んでいる彼は、まるで何かに取り憑かれたみたいだ。
「それだけって、猫達が自殺した原因はそれだけじゃないっていうのか」
僕の発した言葉も無視して、そうなのか、とか、あり得るな、とか意味のわからない事を口から漏らし続けている。
駄目だな、こりゃ。しばらく、このまま放っておいた方が良さそうだ。
「逃げ出したんだよ」
それも、垂れ流しになっている独り言なのだろうと思ったが、彼はまっすぐに僕の方を見つめていた。
逃げ出したんだ。僕に向かって、そのままもう一度繰り返す。それでようやく、その言葉が僕に対して放たれたものだと気が付いた。
「いったい、何から逃げる必要があったんだい。この世界の管理体制から? それだと、最初の理由と同じじゃないか」
「違う。……危機回避本能ってやつさ。地震なんかの天災の時に、動物が異常な行動を取ったりするだろう? あれだ」
あれだ、と言われてもなぁ。
確かに、動物達にはそういう危険予知能力のようなものがあると本で読んだ事があるけれど、今回の猫達の集団自殺もその一種なのだろうか。しかし、そうだとしたら彼らはなぜ死ななくてはならなかったのだろう。
「あいつらは気付いてたんだ。だから、この世界から逃げ出した。この世界そのものからだ。……まったくたいした奴らじゃないか。人間様より先に、その事に気が付くなんてな」
何を言いたいのか、さっぱりわからなかった。
それなのに、彼はいつものように一人で納得して、僕の研究室を出て行こうとしているのだ。
「ちょっと待てよ」
全然納得のいかない僕は、ギリギリのところで彼を呼び止める。
「僕にもわかるように説明してくれないか」
彼はほんの少しだけ考えた後、微かな苦笑いを浮かべた。
「今、それを説明する事は何の意味も成さない。だけど、いずれお前にもわかる時が来る。何が正しくて、何が間違っていたのか。そして何が起こったのかもな。その時には全てがわかる」
まるで謎かけだ。僕の頭の中は、ますます混乱していくばかり。彼は、そんな間の抜けた顔をした僕から視線を外して、静かに部屋を出て行った。
「どんなにあがいても、人間は神にはなれないよ」
彼が最後に残していった言葉は、この謎かけのヒントだったのか。それとも、彼が彼自身に宛てた言葉だったのか。
僕はまだ、何一つ理解できないでいた。
僕の目の前に置かれている装置。昔のSF映画に出てくるような、配線がごちゃごちゃと付いているヘッドギアと、それにつながれた一台のコンピュータ。
これが人工知能を開発するための最新設備だそうだ。小さな家が一軒建つほどの代物だが、国からの予算があるので、あっけなく購入できた。まったくお金っていうのは、あるところにはあるらしい。
『バーチャル・ブレイン』というのだそうだよ、これ。
開発のきっかけとなったのは、人工知能に関する会議での事だった。
何もないところから知能と呼べるものを構築するのではなく、最初から人間の脳みそを使えば良いじゃないか、という事を科学者の誰かが提言したらしい。そうしたら、基本的な知能はすでに出来上がっているわけだし、空き容量だって腐るほどあるのだから、そこにデータを詰め込めば簡単じゃないか、というわけ。
だけど、この提言は当然のように他の科学者達の反感を買った。非人道的だ、というのがその主な理由。
死んだ人間の脳みそは鮮度が悪くて使えないから、生きている人間の脳を摘出しなければならないだろ。当然これは却下だな。だからと言って、最初から人工知能に使うために子供を産むというのもいかがなものかねぇ。そういうわけにもいかないだろ、君ぃ。人権擁護団体から圧力がかかるよ。そうなったら、この研究もお終いだと思うのだがねぇ。
そういう科学者が、会議の出席者の大半を占めていたのだった。
そんな話を何日も何日も繰り返していたらしい。そして出た結論が、人工知能用の人間の脳みそを作ってしまう、というものだった。
そして開発されたのが、この『バーチャル・ブレイン』だ。
脳みそとは言っても、突き詰めていけばそれは結局、原子や分子、電荷の塊に過ぎない。だからその原子や分子、電荷の状態をコンピュータの中に完全にコピーしてしまえば、そこに一つの脳みそが存在する事になるだろう、と。
脳が司っている感情や思考、記憶といったものも、全ては微弱な電気信号なのだ。だから、それらの基本的な流れのパターンさえ完全に再現できれば、それは知能と呼ばれるに相応しいものになるだろう、というわけだ。
なるほどねぇ、と彼はさして興味もなさそうに相槌を打った。
面白そうなものを入手したらしいな、と言って訪ねて来たから、人が懇切丁寧に説明してやったのに、なんともつまらない反応じゃないか。
「……ま、こんなとこかな」
仕方がないので、僕もつまらなそうに締め括ってやった。すると彼は少し不思議そうな顔をして僕に尋ねた。
「研究の方向を変えたのか?」
「え? いや、見ての通り、相変わらず人工知能の研究をしているけど……」
彼の不思議そうな表情が、くるりと呆れ顔に変わる。
「そうじゃない。お前が研究していたのは人工知能全般の事じゃなくて、経験に基づく判断ってやつだろ? それはどうなったんだ? この装置が何かの役に立つのか?」
「当然」
僕は胸を張ってそう答えた。
「この装置の良い所はね、コンピュータの中に再現した脳みそを自由に動かせるって事なんだ。だから、その脳みそから全ての情報を引き出せば、本を何冊も読ませるよりも沢山の情報を得られる。生まれてから現在に至るまでの、全ての経験がそこに蓄積されているわけだからね。それにその情報ってやつは、本や新聞に書かれている表面的な情報じゃなくて、人間が自分の内面で処理するような、もっとリアルな情報なんだよ」
どうだ、と得意満面の顔で彼を直視してやったが、彼は少し考える様な素振りを見せた後、ふうん、と一言呟いただけだった。本当に説明しがいのない奴だよ、まったく。
「それより、どうだい? 君もこの装置を体験してみないか?」
彼に体験させる、というよりは一人でも多くの人から情報を集めたい、というのが本音だったのだが、そんな事を言ったら彼は実験台扱いされた事に腹を立てかねない。
「俺の脳みそのコピーを、コンピュータの中に作るのか? そんな事をして何になる。そんな得体の知れないものに協力するつもりはないね。俺は、今ここに存在する俺だけだ。それ以上でも、以下でもない」
言い方以前の問題だったようだ。
「それに、それじゃまるで、ビーカーに浮かべられた脳みそじゃないか」
それは以前、彼が酔った時に口にしたものだった。相変わらず、どんなに酔っていても記憶だけははっきりしているらしい。
「ビーカーの脳みそ……か」
かなりお気に入りのその話題については、その後も僕なりに色々と考えてはいた。良い機会だと思ったので、僕は自分のまとめた考えを彼に述べてみた。
「それってさ、人間の脳みそじゃなきゃ駄目なのかな? 僕達の脳みそがビーカーの中に浮かんでいて、そこに入ってくる情報、例えば僕の見ている全ては電気信号って事でしょ?」
「そういう事になるな」
「じゃあ、ビーカーに浮かんでいるのは人間の脳みそじゃなくて――仮に猫としようか。で、僕達はその猫に与えられている電気信号の一つに過ぎないっていうのはどうだろう。それでもこの世界は成り立つと思うのだけど」
彼はそこで急に重いため息を吐き出して、僕を見据えた。
「ずいぶんと寂しい事を言うんだな。確かにその可能性も無いわけではない。それに、その方が俺達のような複雑なネットワークを管理するよりも余程楽な作業だ。神様だって手抜きぐらいしたいだろうからな。だけど……」
「だけど?」
一瞬、話し続ける事を躊躇したようにも見えたが、僕があまりにも興味深そうに聞いたもんだから、彼は今にもかすれて消えてしまいそうな小さな声で続けた。
「俺は、今ここに俺が存在していると信じている。周りにある脳みそが全て猫のものだったとしても、俺だけは間違いなくそこにいる。例え俺が何の成果も挙げられずに、今ここで、死を目前にしていようともだ」
彼は窓の枠に両手を置き、その外にあるものの、さらに遠くを見つめた。
「……やっぱり、駄目なのかい?」
そのままの姿勢で、小さく「ああ」とだけ呟いた彼の背中は、微かに震えているようにも見えた。
「原因も不明。治療法ももちろん皆無。まあ、生まれた時からわかっていた事だからな。よく、ここまで来られたと思うよ」
科学も医学も薬学も、常に進歩を続けてきた。数十年前までは死を待つより他なかった病でさえ、今では薬一つで治せる。しかし病魔って奴は、手を変え品を変え、未だに人間を苦しめ続けている。
そして彼もまた、その苦しみを受けている一人なのだ。
「まあ、いいさ。俺の事は良いんだ。研究の邪魔をして悪かったな」
彼は部屋を出て行こうとして振り向いた。
いや、僕はその時確かに彼の背中がドアの向こうに消えるのを見たような気がしたのだか、一瞬のノイズの後、既に行ってしまったはずの彼が僕の目の前でくるりときびすを返したのだ。
不思議そうに見つめる僕に向かって、さっきと同じ人物とは思えない程の力のある声で彼は言った。
「信じ続けろよ。お前が、今そこにいるという真実を。その事だけは、決してあきらめるな」
僕はしっかりと頷いて、とても小さく見える彼の背中を見送った。
そこは、真っ白な部屋だった。
カーテンも壁もベッドも、その横に置いてある小さな棚も、何もかもが白で統一されている部屋だ。そう、彼の着ている服でさえ――。
「やあ」
僕がその部屋に入った時、彼はテレビを見ていた。この部屋で唯一、色のある物だ。
画面から溢れるそれは勿論の事、それ自体が薄いグレーをしている。ただ、テレビの台は他のものと同じく白なので、それだけがぽかんとそこに浮かんでいるみたいだった。真っ白な世界に浮かぶ、色とりどりの小さな箱。
彼は僕の声に反応してブラウン管から眼を離すと、僕の方を見て、そのやつれた顔の口元をほころばせる。
「ずいぶん元気そうじゃないか。……安心したよ」
僕はそう言いながら、ベッドの横にある棚の上に、お見舞い用にと持ってきたフルーツの籠を置いた。
「今、ニュースを見ていたんだ。俺はお前と違って、世の中の趨勢をしっかりと見つめる事にしているからな」
ブラウン管に眼を向けると、女性アナウンサーが何かの記事を淡々と読み上げている最中だった。ボリュームがかなり絞られているので少々聞き取りづらかったが、時折、人工知能とか開発予算とかシンクタンクとか、聞き慣れた言葉が耳に入ってくる。どうやら、僕が研究している事に関連した記事らしい。
「やばい事になってきたな……」
彼は僕と同じようにブラウン管を見つめながら、それに向かって呟いた。そして、その後に大きなため息を一つこぼす。
「どうかしたのかい? 人工知能の開発で、何か良くない事でも?」
彼が枕元に置いてあったテレビのリモコンを手に取り、その大きな赤いボタンを押すと、ブラウン管は一瞬で暗闇に転じる。色彩も音も、電子の彼方に消えてしまった。
「お前、どうして人工知能の開発が必要か知っているか?」
リモコンを元の場所に戻しながら彼が尋ねる。
「世界を絶対的に管理するためだろう? それぐらいは知っているさ」
僕が不機嫌そうに答えると、彼は「その回答じゃ、満点はもらえないな」と少し笑った。
「世界を絶対的に管理すると簡単に言うが、実際に何をどう管理するのかわかっているのか?」
彼が続けざまにそう尋ねてきたので、僕は口を濁してしまった。僕の知識は、思っていた以上に適当なものだったらしい。
しばらく考え込んでいると、彼は、仕方がないと言わんばかりの顔で説明を始めた。
「――時間を管理するのさ。タイムスケジュール、という意味じゃないぞ、この場合の時間というのは。俺達や俺達の周りにあるものを動かしている、時間という概念そのものをコントロールしようとしてるんだ」
「そんな事が……」
「まあ、技術そのものはまだ完成していないがな。理論的には可能だそうだ」
僕は、そうなのかぁ、とか、なるほどねぇ、とかそういう意味の言葉を呟いた。しかし、そこでふと思い付く。いったい、それで何がやばい事になってきたのか。
「それで、何か困った事でも?」
彼は一瞬、ひどく辛そうな表情を見せたが、それでもその口は動き始めた。
「お前、時間を長く感じたり、短く感じたりする事があるだろ? ――お前だけじゃない。俺だってそう感じる時はあるし、誰もがそうだろう。そんな、人間の持つ相対的な時間感覚で、 この世界に流れる時間そのものを完全に管理できると思うか?」
首を横に振る僕を見届けてから、彼は続きを話し始める。
「そのための人工知能なんだよ。ありとあらゆる知識を保有し、なおかつ相対的な感覚で物事を判断したりしない。その絶対的な感覚をもって、時間を管理する役割を与えようとしているんだ」
時間を管理する脳みそ、か。確かに人間にはできない仕事だ。
「しかしな、少々その開発に時間がかかり過ぎたんだ。……コストも。だから世界の管理人達は、人工知能の完成を待たずに、人間そのものを使ってそのシステムを起動し始めようと……」
そこまで言ったあと、彼は大きく咳き込んだ。僕は慌てて背中をさすったが、彼の顔はみるみるうちに青くなっていく。
「どうやら、長居し過ぎたみたいだね。もう帰るから、ゆっくり休んで」
発作が収まってきたので、彼をベッドに寝かせ、僕はその場を立ち去ろうとした。
また、来るから。そう言ってドアノブに手をかける。
「……頼みがあるんだ」
かすれて、今にも消えてしまいそうな声が背中に届いた。僕はドアノブに手をかけたまま振り返る。
「俺の――俺の脳みそのコピーを取ってくれないか?」
はじめ、何の事を言っているのかわからなかったが、しばらく考えた後、以前彼が酷評したあの装置の事を言っているのだと気付いた。
「バーチャル・ブレインで、君の脳をコピーするって事? どうして。前に説明した時には、あんなに嫌がっていたじゃないか」
思わず言い方がきつくなってしまったが、彼は少し恥ずかしそうにうつむいた後、ぽつりぽつりと話し始めた。
「……怖いんだ。この世界から、俺という存在が消えてなくなってしまう事が。だから俺は、どんな形でも、どんな破片でもいいから、残しておきたいんだ。俺という存在そのものを――」
どんどん小さくなっていく彼の声。まるで、母親に咎められた子供みたいだった。このまま放っておけば、彼自身も小さく小さく消えてしまうかもしれない。そうなってしまう前に、僕は「わかった」とだけ答えた。
「すまない。外出許可が取れたら連絡するよ」
準備しておく。そう言って再び彼に背を向け、そのドアを閉めた。
「……そういう事か」
僕のすぐ後ろでたたずむ真っ白なドアに体を預け、そう小さくもらした。
つまり、それが死ぬっていう事……。自分のプライドや信条なんか捨ててでも、何かを、たった一つでもいいから、何か自分の生きた証を残したいと思う――。
それが死ぬっていう事か。
どうしようもない悲しみと、どうしようもない怒りが同時にこみ上げてきて、震えが止まらなかった。
その日の午前中に、彼から連絡があった。外出許可が取れたので今から行く、準備を頼む、と。それだけ言うと、受話器はぶつりと音を立て、続けてツーツー喚きだした。
だから僕は、部屋にあるコンピュータの電源を全て入れ、バーチャル・ブレインの配線を確認した後、まずいコーヒーをすすりながら彼を待ったのだ。
「遅くなってすまない。何度か休憩しながら来たものでね」
研究室に入って来た彼の顔を見て、唖然としてしまった。こけた頬に土気色で乾ききった肌。その中で両の目だけがやけにぎょろぎょろと輝いているのだ。
色々と話したい事もあるのだけれど――急がなくては時間がない。そう思った。
部屋の真ん中に置いてある椅子に、彼が崩れ落ちるようにして腰掛ける。そのままさらに崩れてしまわないのを確認してから、ヘッドギアを彼の頭に被せた。口から下しか見えないその顔は、苦しそうに不規則な呼吸を繰り返している。
「重たいだろうけど、そんなに時間はかからないから、我慢して欲しい」
そう言うと、がちゃり、と音を立ててヘッドギアが小さく頷いた。
配線のつながったディスプレイに、実行とかキャンセルなどといった無機質な表示が明滅している。僕は実行にカーソルを合わせて、キーボードのエンターキーを弾く。それから数秒遅れて、ヘッドギアがぶんぶんと蠅の飛び回るような音を発し始めた。
「これ、会話はできるのか?」
本当はなるべく何も考えないようにするのが一番良いのだけれど、それだと、そのまま彼が逝ってしまいそうな気がしたので、大丈夫だよ、と一言だけ答えた。まあ、いつもより多少時間がかかるぐらいで、精度その他に影響はないだろう。
それに、こうしている間くらいしか、彼と話ができる時間もないはずだから。
「もう、時間がないんだ……」
彼は小さく呟いた。おそらく、それは彼自身の事を言っているのだろう。自分の体は、自分が一番よく知っている。つまり、自分にあとどのくらい時間が残されているのかを――知っている。
しかし、僕はそんなものを認めたくはなかった。そんな弱気な彼を、認めるわけにはいかなかった。
「そんな事言うなよ。あきらめるなよ。まだ、やりたい事だって、やらなきゃならない事だって、たくさん残ってるだろう? それも全部手放してしまうつもりかい」
ヘッドギアは驚いたようにこちらを向くと、その内側から、小さな笑い声を漏らした。
「違うよ。今言ったのは俺の事じゃない。……まあ確かに、俺にももう時間はないけどな。だけど、俺がお前に伝えなきゃいけないのは、その事じゃないんだ」
彼は少し苦しそうな呼吸を整えてから、ぽつりぽつりと話し始めた。
「一週間後だ。今からちょうど一週間後に、人の脳を使った、大々的な時間管理システムの実験が開始される」
「前に病院で言っていた、人工知能が間に合わないからっていうやつの事かい?」
がちゃり。
「上手くいくと思うか? 俺はそうは思わないね。人間の相対的時間感覚じゃ、到底無理な仕事さ。実験は失敗に終わる……。その瞬間、何もかもが終わりだ」
「どうなるんだい?」
「バラバラだ。時間や空間といった概念そのものが崩壊し、この宇宙は再構築不可能なまでに破壊される。この世に存在する全てのものは、その物理的なエネルギーを失い、最も小さな粒子、つまり量子状態にまで分解してしまう。――混沌の海、かな」
「そんな……」
「信じられないか? だが、これは紛れもない現実だ。無数にある可能性の中から、その最悪の結末を選んだんだよ。人類自身がな」
僕は言葉を失ってしまった。彼は、いつも小難しい科学的理論を交えた冗談を言ったりするが、自分に残された時間が少ない事を知っている。決して不必要な事を言ったりはしないし、他を道連れにしたいと願う呪詛の言葉を吐いたりはしない。長い付き合いだ。それぐらいはわかる。
彼は、自分の持つ知識から想定する未来を、あくまでも現実的に述べたのだ。
「一週間後、世界は終わりを迎える……?」
僕の問いに答えたのは、彼ではなく、脳のコピーの終了を告げるブザーだった。
彼は自らの手でヘッドギアを外すと、ふらふらと立ち上がった。
「ま、そういう事だ。俺の予想が外れる事を、心から願ってるよ」
そう言って、部屋のドアに手をかけた彼は、その場で一度うずくまった。
「心配だから、病院まで送っていくよ」
彼はそのままの姿勢で首を横に振った。大丈夫だから、と。
「大丈夫なわけないじゃないか。椅子からドアまで行くのにもやっとなくせして」
彼を立たせ、肩を抱えるようにして、もう一度「送っていくよ」と言った。
「いい。来なくて、いい……」
彼の真っ青な額に脂汗が浮いている。
「何言ってるんだよ、そんなつらそうな顔して!」
「いいって! ……見せられるわけないだろう。お前に、あの時の、その瞬間なんか」
まっすぐで真剣な眼差しに打たれた僕は、そのまま何も言い返す事ができず、ただ去って行く彼の背中を黙って見送るだけだった。
どうしたら良いのかもわからず、バーチャル・ブレインもほったらかしで、僕は机に突っ伏して頭を抱えていた。
世界の崩壊。死を目前にした彼。どちらも僕には重過ぎる……。
どうしたら……。
そんな、答えの見つからない問題に埋まってしまった僕を引きずり出したのは、それから二十分程経った頃の、一本の電話だった。
ビョウインノマエデ、タオレテイルカレヲミツケタ。モウ、シンゾウハトマッテイタ。
意味のわからない事を喚いている受話器をその場に放り出し、僕は部屋を飛び出した。
「見せられるわけないだろう。お前に、あの時の、その瞬間なんか――」
その連絡が来たのは、彼の葬儀が終わった翌日の事だった。
なんでも、国は人工知能開発に関する一切のプロジェクトから手を引くというのだ。何の成果も上げず、巨額の損失だけを残して。で、その損失を少しでも減らすために、国からの出資を利用して買った研究設備やその他の備品などはすべて売却し、そのお金を国に払え、というのだった。
ずいぶんと勝手な話だな。そうは思ったのだが、僕自身、何の成果も上げられなかった研究者の一人なのだ。あまり大きな事を言えるような立場ではないだろう。そう思い、買取業者に連絡を取り、僕は研究所にあるコンピュータをつないでいるケーブルを一つずつ外していくのだった。
ふと気が付くと、バーチャル・ブレインにつながれているディスプレイが何事かをちかちかと点滅させている。
『作成したバーチャル・ブレインから情報を引き出し、データを項目ごとに並べ替えますか?』
ああ、そうか。三日間、このままほったらかしだったんだな。彼の脳のコピーを取ったあの時から――。
僕はそのすぐ下にあるキーボードに歩み寄り、Nのキーを押した。すると、すぐさまディスプレイには、『では、作成したバーチャル・ブレインをこのままの状態で保存し、終了します』との文字がせり上がってきて、しばらくぶんぶんわめいたあと、しゅうんと電源が自動的に落ちた。
これで良かったのだと思う。
彼の残したかったものは、決して頭の中に詰まっている情報などではなかったはずだ。彼は、より完全な形で『自己』というものを保存しておきたかったからこそ、この僕に脳のコピーを頼んだのだ。
僕は、そう思う事にした。
やがて、僕の周りを様々な色、様々な長さのコードを触手のように生やした機械達が埋め尽くした。明日になれば、これらの全てを買取業者が持って行ってくれるはずだ。
残るのは、飾り気のない事務机と、その上に置かれている僕のノートパソコン。そして、僕の手の上にある小さなメモリーチップだけ。
これを買った時にもその小ささに驚いたが、今こうして見ても、こいつは本当にすごいものだと思う。
何しろ、この僕の手に四つは収まるであろうその小さな黒い箱の中には、僕の研究データ全てと世界中の電子書籍、そして何人かの脳みそが詰まっているのだ。
本当は、このメモリーチップも買取業者に渡さなければならないのだが、そこまで最新型というわけでもない。おそらくは二、三千円で買い取られてしまうだろう。
彼は、そんなに安い男じゃないさ。
そう独り言を漏らして、僕は研究所を後にした。
行く場所は決まっている――時計屋で、目覚まし時計を買うんだ。
昔はよく、こうやって科学雑誌の付録で付いてきたラジオを作ったりしたっけな。
そんな事を思いながら僕は、先日までとは比べものにならないほど殺風景な研究室の片隅で、目覚まし時計を分解していた。
電池カバーから歯車へと伸びている導線を真ん中で切断し、そこにメモリーチップをつなぐ。
こうすれば、電池から与えられた電気は、メモリーチップ――つまり彼の脳みそを経由して歯車へと伝えられる。いや、彼の脳みそだけじゃない。メモリーチップ内にある全ての情報を経由するのだ。これだけの情報量なら、世界そのものを経由すると言っても良いだろう。
そして、それらの情報が、この目覚まし時計の歯車を回すのだ。
なぜ、自分がこんな事をしようと思い付いたのかはわからなかった。単なる気まぐれのような気もするし、何か明確な意図があるのかもしれない。ただ、自分の事だというのに、そうして客観的に感じている僕が、少しおかしかった。
だけど、そうだな……。
こいつなら――彼が入っているこの目覚まし時計なら、きっと絶対的な時間を刻んでくれるに違いない。
そう思ったのだった。
もしかすると、彼の存在を残しておきたかったのは彼ではなく、他でもない僕自身だったのかもしれない。
そういえば、あのラジオも彼と一緒に作ったんだよな。いらない、というのに無理矢理同じ雑誌を買わせて。面倒くさそうに作業している割には、僕の作ったそれよりも遥かに精度の良いものができたんだっけ。
彼は何でもできたし、何でも知っていた。それが鼻につく時もあったが、それでも僕は彼に憧れていたんだ。
そうだな。彼を一番残しておきたかったのは、僕自身だ。だから、今もこうして意味の無い作業をしているのだろう。
メモリーチップが入った分、少し窮屈になった目覚まし時計は、しかし、無理な力を加える事なく、かちりと裏蓋が閉じた。
まるで、それが本来の姿であるかのように、何の違和感もない。
かちっ、かちっ、と迷いなく時を刻み続けるそれは、紛れもなく、世界で一番頭の良い目覚まし時計だ。
僕はそれを両手で握り締めると、少しだけ、泣いた。
どれぐらいの間、そうしていただろう。
手の中にあるそれが、不意におかしなリズムを刻み始めたのだ。驚いて文字盤をのぞき込むが、針の動きにはなんの変化も見られない。
しかし、何かがおかしい。
どんなにのぞき込んでも、壁にかけられた時計と比べてみても、そいつは単調に一秒ずつに針を動かしている。
だが、その間隔が長いような短いような、とにかく僕の知っている『一秒間』とは微妙にずれているような気がするのだ。
「始まったようだな」
いきなり、後から男の声がした。
「そんな……」
驚いてそう言うのがやっとだった僕を鼻で笑うと、その男は部屋をぐるりと見回し、「ずいぶんと殺風景になったもんだな、ここも」などとそっけなく言い放つのだった。
「おいおい、どうしたんだよ。まるで幽霊にでも出くわしたみたいな顔して」
椅子から半分だけ立ち上がった姿勢で口を開けている僕を嘲笑うのは、間違いなく――彼だった。
「だって、君は一週間前に――」
「死んだよ。確かに俺は死んだ。この世界では一週間前にな」
「この世界では?」
彼は、まるで僕との会話そのものを楽しんでいるかのように、穏やかな笑みを浮かべながら話を続けた。
「そう、この世界では俺は一週間前に死んだ事になっている。だけど、正確に言うならば、俺が死んだのは五十二年と四十八日前だ」
事務机の上で天井を仰いでいる目覚まし時計をひょいと手に取り、彼はその文字盤を僕に向けた。
「まあ、もっともそれは俺の中にある時計が刻んだ時間だけどな。現実世界では、あれからどれぐらいの時間が流れたのかは見当も付かない。なにしろ、時間という概念そのものが吹き飛んでしまったんだから」
何を言っているのか、さっぱりわからなかった。
それに、僕の目の前にいるこの男は、本当に彼なのだろうか。僕が最後に見た彼は、ぎりぎりのところで命にしがみ付いているような、目も当てられない姿だったではないか。
しかし、今僕の目に映っているのは、そんな事は微塵も感じさせないほどの凛とした姿だ。苦笑いを浮かべるのが精一杯だったはずなのに、こんなにも穏やかな表情をしている。
「何だか、不満そうな顔をしてるな。せっかく一週間振りに会えたってのに。……まあ、言いたい事は大体わかるけどな」
「幽霊……なのか?」
僕が恐る恐る尋ねると、彼は一瞬困ったような表情を浮かべた。
「科学者らしくない発言だな。まあ、違う、とも言い切れないけどな。確かに幽霊みたいなもんさ。俺も――そしてお前も。この世界そのものが」
「わかるように説明し――」
苛立ちからあげられた僕の声を止めたのは、突然の鳴動だった。地面が揺れているのではない。空間そのものが大きく揺さぶられているような、奇妙な鳴動。
それはすぐに治まったが、僕は事務机の足下に倒れ込んでいた。だが、彼は何事もなかったかのように、平然とそこに立っている。つかまる物も、そしてそんな時間的余裕もなかったはずなのに。
「最初に言っただろう。もう、始まってしまったんだよ。俺はその事を、そして全てをお前に説明するために来たんだ」
目の前にいるはずの彼が、ひどく遠くに見えた。しかし、それは目の錯覚とか、感覚的なものではない。何もかもが曖昧で、不安定になっている。そんな気がした。
「俺は、『固定空間内における時間軸の暴走』と呼んでいる。詳しい事はわからないが、とにかく、この宇宙そのものが崩壊してしまったんだよ」
「君が前に言っていた、時間を管理する実験の失敗ってやつか?」
「そうだ。そしてそれは、これから起こる未来でもあるし、五十年以上も前に起こった過去でもある」
僕は、彼の言葉どれ一つとして理解できずに、呆然と彼を見つめていた。
「……この世界は、俺が作り出したシミュレーションなんだよ。お前という存在は、有りもしない情報を与えられてそれを現実だと認識している、ビーカーの中の脳みそに過ぎないのさ」
「その話は、君が酔った時にした作り話じゃないか」
彼は、窓枠に手をかけると、その景色一つ一つを目に焼き付けるように、ゆっくりと眺めていた。やがて、自らの罪を告白するように、ぽつりぽつりと話し始める。
「宇宙が崩壊した時、そこに存在したものは全て量子化してしまった。物質として結び付くエネルギーを失ってしまったんだ。だけど、存在そのものが消えてしまったわけではない。認識できないほどにばらばらになってしまっただけだ。だから俺は――目覚まし時計としてばらばらになってしまった俺は、その電子の海の中で、なんとか宇宙を元通りに復元しようとしたんだ。それに必要な知識は、すでにお前によって与えられていたからな。――色々な事を試したよ。だけど、どうやっても足りないものが二つあった。それは真実と、それを復元するためのエネルギーだ」
再び、空間が揺れた。先程のそれよりも遥かに強く。
僕は事務机の脚にしがみ付いているのがやっとだというのに、彼は壁に垂直に走ったひびを目で追うと、何事もなかったかのように、口を開く。
「まったくもって時間がかかったよ。お前が読み込ませた歴史書や科学書なんかを元に、この宇宙を一から再現したんだ。ビッグバンから、最後の『固定空間内における時間軸の暴走』までを。今まで宇宙が歩んできた歴史を、そっくりそのまま俺の中で再現したのさ。まあ、完璧とは言えないけどな。それが、今お前のいるこの世界だ」
「いったい、何のためにそんな事を」
「さっきも言っただろ。必要なのは真実と、それを復元するためのエネルギーだ。宇宙を一から再現する事によって、そこにある真実の情報を取り出す。そして、最後の『固定空間内における時間軸の暴走』の際に生じる膨大なエネルギーを利用して、このバラバラになってしまった宇宙の隅々にまで、真実の情報をばらまくのさ。……夢を見させるんだよ、この宇宙に。本来の姿を夢として与える事によって、本来の姿で目を覚まさせるんだ」
揺れは収まらない。それどころか、震源がどんどん近付いてきている感じがする。
「じゃあ、僕が今まで自分として認識していたのは……。君と話をしたり、人工知能の研究をしたり、君が死んでしまったあと昔の事を思い出したりしたのも、全てただのデータの寄せ集めだって言うのか?」
叫んでいた。地鳴りや不可解なノイズのせいで、自分の声もよく聞こえなくなっている。彼を問い詰めるように、自分自身の存在をこの場に貼り付けておくように、僕は叫んでいた。
「お前、バーチャル・ブレインを買った時にまず自分で試しただろ?」
「そりゃあ、いきなり他人で試すわけにはいかないから、まずは自分が実験台になったさ」
「そして、そのデータを項目ごとに整理して保存した。……正直言うとな、それが一番大変な作業だったんだ。ありとあらゆるデータの中から、お前の欠片を拾い集めて再構築する事が。もしかすると余分なデータが入っていたり、足りないデータがあるかもしれないが、ほぼ百パーセントお前はお前だよ」
今ここにいる僕は、その昔存在した僕という人間の断片の寄せ集め。
出来損ないの悪い冗談みたいで、吐き気がした。
「……誰かに伝えたかったんだ。せっかく死ぬ直前に自分自身を残したってのに、何もかもが電子の海の中。おそらく、その中で自我のようなものを保てたのは俺だけだろう。俺はそれが起こる前から、電子の海の中――この目覚まし時計の中に浮かんでいたからな。だけど、それはあまりにも寂しすぎた。だから誰かに――お前に伝えたかったんだ。全てを」
「そんなの、勝手すぎるじゃないか。勝手に僕を再生して、勝手に宇宙を元通りにして。宇宙に夢を見させるだって? そんな、誰かの夢の中でしか生きられないなら、僕はこのままでいい」
彼は驚いたように両の目を大きく見開くと、悲しそうにそれをゆっくりと閉じ、僕に背を向けた。
「お前は忘れてしまったのか? どんな形でもいいから自分を残しておきたかった俺の事を。誰かに見られている夢にすらなれなかった俺の――」
ノイズと地鳴りが彼の声を掻き消した。同時に床と壁が波打ち、僕と僕のつかまっていた事務机が宙に放り投げられる。
床と壁には、波打ったところを追うようにして亀裂が走り、その亀裂も空間ごと瓦解していく。
「もう、時間がないんだ!」
上も下も、右も左もわからなくなった滅茶苦茶な部屋の中心で、彼だけがぼんやりと空間に浮かび、声を張り上げていた。
「誰かに見られている夢でも良いじゃないか! お前は、もう一度お前を生きてくれ!」
空間が、悲鳴を上げながら膨張と収縮を繰り返す。その動きに耐えられなくなった部分から順に、砕け散っていく。
もう、ここが僕の使っていた研究室である面影すらとどめてはいない。
「君はどうするんだ? 君も、もう一度やり直せるんじゃないのか?」
体が細かく溶けていきそうなのを必死でこらえながら、僕は叫んだ。
だけど彼は、少し嬉しそうに微笑んだだけで、そこから動こうとはしなかった。
「まだ、最後の仕上げが残っているからな。それに、俺はとっくに死んでるんだ。もう、そっちには行けないさ」
笑いながら、彼の瞳からは涙が溢れていた。
もう、辺りには何も見えない。何もない場所に彼だけが立っていて、そしてどんどん遠ざかって行く。
いや、僕の方がこの世界からはじき出されようとしているのだ。彼の作り上げた偽物の夢から、宇宙が見る本物の夢へと。
「忘れるんじゃないぞ! たとえそれが誰かに見られている夢だとしても、信じ続けるんだ! 今、お前がそこにいるという真実を!」
どこか遠くから、目覚まし時計のベルが聞こえてくる。
僕はしっかりとうなずいて、彼が見えなくなるまで、何もかもが消え去ってしまうまで、手を振り続けた。
彼に、そしてこの世界に――。
やかましい音がするなぁ、と思って目を覚ますと、なんて事はない、僕は目覚まし時計を抱えたまま事務机に突っ伏していたのだった。
ゆっくりと体を起こして周りを見渡すと、いつも通りの僕の研究室。つい先日から、ずいぶんと殺風景になってしまってはいるけれど。
「ずいぶんと、長い夢を見ていたんだなぁ」
誰にともなくそうつぶやくと、僕は、僕の両手に抱えられているそいつを見つめた。
いや、僕が夢を見ていたんじゃない。僕が彼の夢に見られていたんだ。
目覚まし時計の見る夢。
手のひらに、けたたましく鳴り響くベルの振動が伝わってくる。
それは、全ての始まりを告げる開幕のブザーのように。
危険を知らせる非常ベルのように。
そして、ひと夏しか生きられないと知りながらも、力の限り叫び続けるあの蝉のように――。
いつまでも、いつまでも鳴り響いていた。
夢に見られるというのも、これでなかなか楽な事ではないなぁ。
そんな事を考えながら、目覚まし時計を強く握り締める。
涙が、止まらなかった。