覆水盆に帰らず
覆水シリーズ(?)の四作目です。
※1~3作目の読後推奨です。
一作目「名探偵はお嫌いですか?」→http://ncode.syosetu.com/n3552o/
二作目「名探偵VS事件代行人」→http://ncode.syosetu.com/n4077o/
三作目「怪盗・仮初非力の結婚」→http://ncode.syosetu.com/n4995o/
『覆水探偵事務所』、と小さな看板が掲げられた事務所。その室内には、三人の人物が思い思いの格好で存在していた。目の痛くなるような真っ青のスーツ、その下には真っ白なシャツ、極めつけには胸ポケットに赤い薔薇を一輪挿した奇抜な服装の若い男は、部屋の隅に置かれたポットから、マグカップにお湯を注いでいる。お湯の色から見て、恐らくインスタントコーヒーを飲もうというのだろう。その男の背後には、今にも彼に蹴りを入れようとする体勢をとった、男よりも更に若い、小柄で細身の女性が立っている。彼女の表情は冷徹で、今まさに獲物を捕らえんとする気迫に満ちていた。室内にはもう一人女性が立っていたが、前述の二人とは離れて事務机に向かい、今しがた階下のポストから取り出してきた手紙類に目を走らせていた。彼女はきちんとしたスーツを着ており、長い髪は少女のように二つに結んでいる。が、どう見ても男に蹴りを入れようとしている女性よりも年上であろう。
その光景の一瞬後、夏の陽光の下に、鈍い打撃音と悲痛な叫び声がこだました。言うまでも無く、声の主は男、その原因は小柄な女性だった。男は端正な顔を苦痛に歪め、蹴られた腰を押さえつつ振り返った。
「美寿寿さん……。痛いのですが……」
美寿寿と呼ばれた女性は足を下ろし、つまらなそうに口を尖らせた。
「当たり前だ。痛いように蹴ったのだからな」
「どうしてそんなひどいことを毎日毎日なさるんです? 私が何かしましたか」
涙目になりながら、男は問う。美寿寿は腕を組んで男を見上げながら、眉をしかめて答えた。
「何度言えば分かるんだ。私は覆水再起を一生憎むと決めたのだ。他ならぬ、お前をな」
「あの……前は『憎む』ではなく、『恨む』だったように思いますが」
「そうだったか? まあ、どちらでも変わりあるまい。ぐだぐだとうるさいのだ、お前は」
尊大な口調で剣呑に言いながら、美寿寿は再起の腹にパンチを食らわせる。流れるような自然な動作だったために受け損なった再起は、大げさに叫び声を上げながら腹を押さえた。
「まあ、私を憎むなら憎むで全然構いませんけれど……。痛いのは勘弁していただけませんか。仕事に支障が出たら困りますし、そうなれば貴女だって困るはずですよ」
「知ったことか」
美寿寿は、ふんと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「大体、お前のところにくる依頼なんて、体を張る必要のないものばかりではないか。私が来てからというもの、精精が猫の捜索だったり浮気現場の撮影だったりだろう。それに、考えてみれば、あれらの依頼はほとんど私一人でこなしたようなものだ」
「ああ、それはですね、」
再起が言い掛けた時、事務机に向かっていた女性が、それを遮って声を上げた。
「先生、先生のご実家から、お手紙が届いております」
「うええぇえっ?」
世にも奇妙なおたけびを上げつつ、覆水再起は壁にびたっと背中を貼り付けた。
「何だ、どうした覆水再起? 背中でも痒いのか」
「先生……」
美寿寿は面白いものを見るような表情で、手紙を手に持った女性は困ったような表情で、それぞれに雇い主を見つめていた。再起は五分ほどそうして一歩も動かなかったが、やがて氷が溶けるようにゆっくりと瞬きをし、非常口のマークのように上げていた両手を下げた。
「実家から手紙、って言ったね?」
「はい。いつものように、今年はお盆のいつ頃帰って来れそうか、とのお手紙です」
「…………」
再起はまたもや口をつぐみ、更には硬くまぶたを閉じた。現実と言う現実の一切を、自分の中から閉め出そうとしているかのようだ。助手の女性はため息をつき、手紙を机に置く。
「先生、毎年のことではありますが、今回も何か理由をつけて断ろうとお考えですか」
「なに。覆水再起よ、お前は実家に帰らないのか?」
「…………」
「先生、先生はもう何年もご実家にお帰りになっておられません。もうそろそろ覚悟をお決めになってはいかがでしょうか」
「…………」
何年も帰っていない、というフレーズに反応した美寿寿は、半月型に細めた猫のような目で、動かない再起を見つめた。
「覆水再起、お前はどうして実家に帰りたくないのだ。そこまでかたくなに拒むということは、何らかの理由があるのだろう」
「ありますよ。でも、それを貴女にお教えしてさしあげる義務はありません」
「…………」
「…………」
やっと口を開いたと思えばそんなくだらないことを口にしたために、助手の女性と美寿寿は急に黙ってしまった。再起はそういう場の空気を察知したように眼を開き、ぎこちなく笑った。と思ったら、美寿寿の掌底が彼の顔面にめり込み、その笑顔は掻き消えてしまった。
鼻にティッシュを詰め、額に氷を入れた袋を乗せた再起は、ソファに横たわっていた。彼は目を閉じていて、すやすやと眠っているようだ。そのソファと向かい合う形で置いてあるいまひとつのソファに並んで腰掛けているのは、美寿寿と、助手の女性だった。
「まったく。どうしてこの名探偵は、何でもかんでも『教えてさしあげる義務はありません』なんだろうな。私は一応、ここの助手として働いている身分だと言うのに」
「先生は優しいお方ですから。先永さんが余計なことを知って、何か事件に巻き込まれるのを恐れてらっしゃるんですよ」
「そんなに大きい事件を扱ったことなんてあったか? ……まあそれは良い。私も少しやりすぎた」
そう言う美寿寿は確かに少しは反省したらしく、肩を落として、眠る再起を見つめていた。
「確かに、こいつは優しいのかもしれないけどな……。私が何をしようとも、一度だって反撃してきたことはない」
「そうでしょう。先生は、私の見込んだお方ですから」
「…………」
助手の言葉を聞いて、美寿寿は何かを考え込むような素振りを見せた。そして、不意に口を開いた。
「それなんだが」
「はい?」
「いや、あなたのような優秀な人間が、どうしてこんな探偵の下で働いているのか、ずっと気になっていたんだ」
「ああ、それですか。……話すと長くなりますが、よろしいですか?」
助手の女性は、眼鏡の位置を、片手で直しながら言う。美寿寿はただ一言、「それは面白いか?」とだけ口にした。
覆水再起が目を覚ました時、先永美寿寿の姿は見当たらなかった。ただ助手の女性だけが、いつものように真面目に事務仕事をこなしている。再起は鼻の詰め物を取り出しゴミ箱に捨て、暗くなった窓の外を見てから感嘆の声を漏らした。
「ああ、よく寝たと思ったら、もうこんな時間だったのか。美寿寿さんはとっくに帰られてしまっただろうね」
「はい。ああそうそう、先永さんは先生に伝言を残しておいでです」
「伝言?」
「はい。『本当に悪いことをした。謝る』と」
「悪いこと?」
名探偵は首を捻る。
「美寿寿さん、何かしたんだったっけ」
その言葉に、助手の女性はくすっと笑みをこぼした。
「うん、なんだい? 何を笑ってるんだい?」
「いえ……、何でもありません」
女性はすぐに笑いを引っ込め、生真面目な表情に戻った。
「ところで先生、この依頼の件ですが、どうします?」
そう言って彼女が差し出したのは、一枚の薄いファイルだった。再起はそれを受取り、珍しく真剣な顔を作った。しかし、目の周りや口の端に出来た真っ赤な掌の跡が、その表情を間抜けなものにしている。
「そうだねえ。ちょっくら出向いて来ようかな」
「お一人では危険です。不起様も、この事件に関わっていると聞いています」
「不起が? ふうん、それは確かに危険だ」
言って、再起は顎に手を当て、一つ肯いた。
「それじゃあ、君にもついてきてもらおうかな。今回の依頼が上手くいったら、残業手当も出せるだろう」
「残業手当は別に期待していませんよ」
「そうかい」
再起は楽しそうに笑い、事務所のドアに手を掛けた。そして、振り向かずに出て行った。助手はそれを見届けてからドアに鍵を掛け、電気を消し、窓の外を見下ろした。程なくして、再起の姿がビルから出てくる。助手は窓を開け、細い外枠に、細いハイヒールのつま先を載せた。後ろ手に勢い良く窓を閉め、そのまま彼女は四階分の高さから下へと『落ちた』。すた、という軽い音を立てて、着地する。そしてさっさと立ち上がり、再起の隣を歩き始めた。
「先生、いい加減事務所のドアに錠を取り付けてはいただけませんか? 毎回毎回内側から鍵を掛けて窓から出入りするのは、どうかと思います」
「まあ良いじゃない。今までそれで支障が出たことはないし。窓だって、さっきみたいに勢いをつけて閉めれば、内側から鍵がかかるようになってるし」
「あれはただ単に、鍵が劣化してぐらついているだけです。それに、あれを外から開けるのは大変なんですよ……」
助手はため息混じりにそう訴えるが、再起は毛ほども気にした様子なく、すたすたと歩き続けた。助手も仕方なくその後に続く。街灯の少ない、暗い夜道を、二人は並んで歩き続けている。やがて二人は、交差点で立ち止まった。光源の乏しい夜道に、赤い信号のランプだけが煌々と輝いている。
「しかし、君とこうやって並んで歩くのも、もう五年になるんだね」
再起は、信号が変わるのを待ちながら、しみじみと言った。助手はちらりと再起を見上げ、無言で肯く。信号が青に変わり、二人はまた歩き出す。
「その間に、不起も一人前に仕事をするようになり、始起兄さんは結婚した。私もこの仕事を、六年間も続けてきた……。月日の経つのは早いものだね」
「そうですね」
時刻は既に深夜と言ってもよい頃だが、空はうっすらと明るさを帯びている。どこからか、夏の声が聞こえてくる。再起は歩きながらそれに耳を傾けているようだった。
「私は、この仕事を始めてからというもの、ずっと実家には帰っていない。……理由は、君も知ってのとおりだ。こんなことではいけないってことは分かってるよ。でも、怖いんだ。あそこに帰るのは」
「…………」
助手は、何も言えない、と言うように再起を見つめた。再起は困ったように微笑んで、頭を掻く。
「父さん、怒っているだろうな。不起は相変わらずきちんと帰省しているようだし、始起兄さんは始起兄さんで、上手いこと折り合いをつけているらしいし。私だけだよ、こんな風に放蕩しているのは」
「先生は何も、遊んでいるわけではありません。ご自分の能力を最大限に活かすことの出来るご職業に就いたというだけのことです」
「まあ、そうだけどね」
言いながら、再起は足を止めた。
「……着いた」
彼らの目の前に建っているのは、大きな門だった。丁度再起の頭の高さに、『若草』と書いた表札が提げられている。
「ここが、依頼主のお宅だね」
「はい、そうです」
助手は肯き、チャイムを鳴らした。インターホン越しでの警備員との短い受け答えの後、門が重々しく開かれる。門を抜けると、そこからも小路が続いており、踏み石が間隔を開けて配置されていた。しかし、二人は踏み石を踏まず、大股で庭内を横切って行った。庭には大きな池があり、その池に枝を差しかけるようにして、今はもう葉しか残っていないが立派な、桜の木が植わっている。桜だけではない、庭全体の調和を壊さないような絶妙のバランスで、松や梅、その他の様々な草木が植えられているようだった。
「しかし、立派なお家だねえ。美寿寿さんが住んでいたお屋敷と言い、この世には結構なお金持ちがいらっしゃるものだ」
「…………」
再起は一人で感心したように喋り、助手は黙っている。再起がひとしきり月光に照らし出された庭を褒め尽くした頃、二人はようやく若草家の玄関までたどり着いた。若草邸は昔の武家屋敷を思わせるような質素な造りの日本家屋だった。ただ、その規模は並ではない。大手広告会社の総理事を務める若草家の本家らしい、立派に広い邸宅だった。
玄関前にたどり着いた二人を出迎えたのは、ビジネスライクなスーツを着用した、小柄な男だった。使用人の一人であろう。
「覆水再起殿、お待ち申し上げておりました。さあ、こちらへどうぞ」
「どうもお邪魔します」
再起が挨拶をし、二人は男に連れられて邸内へと足を踏み入れた。
「この部屋の中で、総理事がお待ちしております」
長い廊下を歩いて最終的に二人が通されたのは、洋間だった。ここまでの案内をしてくれた使用人は、静かにドアを閉めて出て行く。残された二人は、この邸宅の主と対面を果たした。
「覆水再起さん。どうも始めまして……、若草遊人と申します。今宵はお呼び立てしまして、申し訳ありません」
挨拶をしながら深々と頭を垂れたのは、まだ若そうな男性だった。きちんと仕立てた高級そうなスーツに身を包み、柔らかな物腰で再起に握手を求めた。再起もしっかりその手を握ってから、礼をした。
「こちらこそ、どうぞよろしくお願いします」
「…………」
助手は黙って頭を下げ、再起に続いて椅子に座った。若草遊人は目鼻立ちの整った、女性的なその顔立ちを歪め、話を切り出し始めた。
「早速ですが……私の依頼内容を、ご覧になってくださいましたか」
「ええ。それはもうすっかりと」
再起は堂々と肯いてみせる。若草遊人は尚も心配そうに眉をひそめながら、先を続けた。
「では、お願いして宜しいのですね」
「ええ。まあ、名探偵の私に、どんと任せておいてください。……それで、娘さんは?」
「遊乃は……娘は今、自室で眠っておりま」
す、と若草遊人が口にし終えるか終えない内に、屋敷中に、誰かの悲鳴が響き渡った。それは甲高く伸びたが、最後には戸の軋むような音を響かせて消えた。
「……今のは……?」
「娘です! 今日もまた……」
言いながら若草遊人は立ち上がり、急いで部屋を出て行った。再起と助手も、慌ててその後を追う。若草遊人と二人は、廊下の突き当たりの階段を駆け上がった。そして、一つの部屋で、その悲鳴を上げたという幼い少女――若草遊乃を見つけた。暗がりの中、三人は急いで部屋の中へ入っていく。
「遊乃、遊乃! しっかりしなさい」
若草遊人が、部屋の床に倒れていた少女を抱き起こし、揺さぶる。長い髪を乱したネグリジェ姿の少女は目を瞑っているようだったが、やがてそのまぶたを開けた。
「お父さん……?」
「遊乃、また怖い『夢』を見たんだね?」
「『夢』…………?」
少女は一瞬きょとんとしたが、次いで火のついたように泣き出した。
「幽霊が出たの。夢なんかじゃないの、幽霊が……」
「ほう、幽霊ですか。それは私も見て見たいですね」
少女は急に自分の言葉を遮られて、涙目で再起を見上げた。再起はにっこりと笑って、少女の頭に手を置いた。
「で、どんな幽霊だったんです? お兄さんにも教えてくれませんか」
「うっ…………うえええええええっ」
「えっ、あ、いやちょっと……泣かないでください、遊乃さん……」
またも泣き出してしまった少女にうろたえ、困り顔で振り返った再起に、助手は苦笑いを返す。若草遊人は遊乃の背中をぽんぽんと叩いて落ち着かせ、ベッドに寝かしつけた。
「大丈夫だよ遊乃。お父さんが来たからにはもう大丈夫だ。だから、安心してお休みなさい」
「……うう」
遊乃はまだ落ちつか無げに声を漏らしていたが、やがて静かになった。若草遊人と再起、助手の三人は、静かに部屋を出る。
「遊乃さん、幽霊を見たとか仰ってましたね? それは――」
「そうです。差し上げた手紙にも書いていたと思いますが、この頃娘は毎晩何かを怖がって……。きっと悪夢にうなされているのだと思っているのですが、あんなにも怖がる様子は、見ていられません……」
「そうですか」
階段を下りながら、再起は首を捻った。
「それで、奥様はどちらに?」
「奥様……あ、家内のことですか。家内は今、仕事中ですよ」
「仕事中……? 失礼ですが――」
「ああ、うちの事業は全て家内が取り仕切っているんです。だから、あの子の面倒を見ているのも大体私です」
「はあ。それで、奥様はまだ仕事中、というわけですか。ええっと、ご在宅ですか」
「…………? ええ、あの子の部屋の真向かい、一フロアのほとんど全てを、家内が使っています」
「そうですか。いやあ変なことをお聞きしましたね、すみません」
再起は、不思議そうな若草遊人に、愛想良く笑って見せた。若草遊人はますます不思議そうに、首をかしげる。そして、何気なく向けられた彼の目は、階段の踊り場に設置されている採光用の窓に釘付けになった。
「若草さん? どうなさいましたか」
足を止めて再起が尋ねると、若草遊人は黙って、震える指で窓を指した。
「何です……」
再起と助手がそちらに目を向けると、窓越しに、人影のようなものが見えた。長い髪の毛、それに腕のようなものがゆらゆらと陽炎のように揺れている。
「こ、ここは普通のビルの三階に相当する高さですよ……。まさか」
怯える若草遊人を尻目に、再起は平気な顔で窓に近付き開いた。一陣の風が吹きぬける。ただ、それだけだった。再起は肩をすくめて窓を閉め、首を横に振った。
「怖がる必要はありません。誰もいませんよ」
「……でも、今のは?」
「…………さあ?」
再起は一瞬だけ楽しそうに目を細め、それから若草遊人を促した。
「ささ、早く下りましょう。ご依頼について、もう少し詳しくお聞かせください。……まあ、もう解決したも同然ですがね」
「え、今何とおっしゃいました?」
「いえいえ。何も」
いたずらっ子のように笑う再起を、助手は優しく見つめていた。
「それにしても、可愛い娘さんでしたね」
洋間に戻ってきてすぐに、再起はそう言った。静かに椅子に腰を下ろして、息つく暇もなしに、唐突に喋り始めた。
「あの金色がかった髪の毛や、薄いブルーの瞳……、私の妹の小さいころにそっくりでしたよ。あ、勿論妹の髪の毛は黒ですがね」
「……はあ」
若草遊人は、相手の真意を測りかねたように相槌を打つ。再起は楽しそうな口調で、尚も続けた。
「私の妹はですね、西洋人形みたいな顔をしているんですよ。名前は不起といいましてね、それはもう可愛い可愛い、愛らしい妹なんです」
「そうですか」
「そうなんです。小さい頃なんて、大きくなったらサイキお兄様のお嫁さんになるーだなんて嬉しいことを言ってくれたりもしましてねえ」
どす、っとどこかで何かが刺さるような音がした。助手は一瞬で、それとは分からないように体勢を整えたが、再起と若草遊人は何にも気付いていないように話を続けている。
「そうそう、そういえば私が大きくなって独り立ちしようというときに、妹は泣いて私を止めたんです。サイキお兄様、お家を出て行かないでーって」
「はあ、そうなんですか」
若草遊人は途中で話を遮ることもなく、仕方なさそうに付き合っている。その間にも、誰かが何かを突き刺しているような小さな音が聞こえている。
どすっ、どすっ。
「しかし可愛いもんですよ。あれから何年か経って、私のことを嫌いになったように見せかけちゃあいますがね。本心ではまだ私のことを好いているのですよ。それが私にはよく分かる――」
再起がそこまで口にしたとき、洋間の扉が勢い良く開き、一人の少女が登場した。ゴシック調の上品な黒いドレスに過剰なまでのフリルが付いた出で立ちのその少女は、持っていたレースの日傘を再起に突きつけた。
「サイキ兄……。よくも、あることないことべらべらと……っ!」
「あははははは。兄の特権ってやつだよ。そんなに怒らないで、不起」
「怒るも怒らないもありません。今日という今日は、目に物見せてやります」
有無を言わさぬ厳しい口調で、不起は兄に近付く。助手の女性は既に臨戦態勢を取って、椅子の上に立っている。ただ一人、状況を飲み込めていないのは若草遊人だった。
「ええっと……。あの、お取り込み中申し訳ありませんが、その、そちらの方は覆水さんのお知り合いでしょうか?」
「ああ、そうですね紹介が遅れました。こちらは覆水不起。先ほど話した、私の妹ですよ」
「妹さん……ですか」
ぽかんと口を開けた若草遊人には関係なしに、不起はいらいらとした様子で日傘を天井に突き刺していた。
「あ、ちょっと不起、止めなさい。ここは美寿寿さんの屋敷ではない、そんなに穴だらけにしてしまっては――」
「では、サイキ兄がこの天井の代わりをしてくださると言うのですね?」
「いや、そんなことは言ってない」
再起は首を振りながら両手を挙げて、降参のポーズを取った。
「私は何も、君とけんかしたかったわけじゃない。だから、その武器――もとい日傘をしまいなさい」
「誰がサイキ兄の言うことなんか聞きますか」
不起の日傘が、容赦なく再起に振られる。それを助手の女性が進み出て受け止め、きつい目つきで不起を睨んだ。
「おやめください、不起様。先生は今日、大怪我をなさったのです。ですから、もう攻撃はおやめください」
「大怪我が何です、……どいつもこいつも邪魔ばっかり!」
心底憤慨したように、不起はふくれっ面をして、振り上げていた日傘を下ろした。再起はほっと息をつき、助手はまだ警戒するような表情で自分の椅子に戻る。
「…………ええっと」
若草遊人はおずおずと口を開き、場を見渡した。
「どうして覆水さんの妹さんが、ここにいらっしゃるんです?」
「ああ、それはですね」
再起が答えようとしたが、不起がそれを遮った。
「それは、私から説明して差し上げます。まず、自己紹介をさせて頂きましょう……私、こういう者です」
言って、不起は若草遊人に一枚の名刺を差し出した。
「ええっと。『事件代行人』……。…………?」
名刺を読んでもいまいちぴんときていない若草遊人に、不起は畳み掛ける。
「私は、貴方のご令嬢から依頼を承りましたの」
「……え、ご令嬢というと……娘、ですか」
「はい」
不起は肯き、再起の膝の上に腰を下ろした。再起がうわあと声を上げたが、それには一切構う素振りを見せない。
「若草遊乃さんから、幽霊騒ぎを起こしてくれるようにと」
「何、……あの子が、そんなことを言ったのですか」
「ええ」
若草遊人は戸惑いの表情を浮かべた。
「何故あの子がそのようなことを?」
「そんなことは存じません。ご令嬢に直接お聞きになれば宜しいのではないかと」
突き放すような不起の物言いに、若草遊人は益々混乱していく。再起はといえば、興味深げに一連のやり取りを見守っているだけだ。
「先生、宜しいのですか」
助手が、再起の耳元で囁く。
「ん、何がだい」
「このやり取りを止めなくても――」
「良いんだよ。別に、私が出る幕じゃない」
「…………」
助手は不満げに眉をひそめたが、それ以上何も言おうとはしなかった。
若草遊人が、理解に苦しむと言ったように髪を掻き回し、声を荒げた。
「どうして……、いや、それなら何故貴女は私の娘の依頼など引き受けたのです。あんな年端もいかない子供からの依頼を……!」
「代価はきちんと支払うと、約束してくださったからです。代価さえ頂けるなら、私はどんな依頼でもお引き受けいたします」
しれっとした不起の対応に、若草遊人はとうとう立ち上がり、混乱した頭で叫んだ。
「もう良いです! そんな契約は知らないっ……今すぐお帰りになってください!」
「…………」
不起はじっと若草遊人を見上げていたが、やがてひとつため息をついて、再起の膝から腰を上げた。そのまま扉へ歩いて行こうとした、――が。
「お父さんっ、その人は悪くないのっ」
幼い声が、急に開いた扉から聞こえてきた。一同の視線が向けられた先には、若草遊乃が立っていた。小さな彼女は、重い扉を苦労して押して、部屋に入ってきた。
「遊乃……!」
若草遊人は驚き、慌てて遊乃の傍へ近寄った。
「遊乃、お前は一体どうして」
「お父さん、御免なさい。勝手なことをして、全部遊乃が悪いの」
「遊乃が何をしたって悪いことなんてないよ……。お父さんは遊乃のことを怒ったりはしない」
「本当に……?」
遊乃は涙を溜めた目で父親を見上げた。若草遊人は真剣な顔で肯き、遊乃を抱き上げ、自分の椅子の隣に座らせ、自身も座った。部屋の中が、ようやく静まり返る。
不起はむっとした顔で壁に寄りかかっていたが、やがて落ち着いたらしい若草遊人に勧められて着席した。
「不起さん、先ほどは頭に血が昇って……、失礼なことを言いました、許してください」
「別に、私は気にしておりません」
不起はつんとした表情で若草遊人の謝罪を受け流し、その視線を遊乃に向けた。
「遊乃さん。こうなってしまった以上、貴女から理由をお話になるのが一番良いかと思います」
「はい……」
遊乃は目を伏せて肯き、父親のほうに身体を向けた。
「お父さん、私……お母さんとお話がしたい」
「……お話、を?」
若草遊人はぱちくりと瞬きをした。
「どういう意味だい?」
「そのままの意味でしょう、若草さん」
そう、言葉を挟んだのは再起だった。若草遊人が再起を見ると、彼は自分の膝に肘を付き、組んだ両手の甲に顎を乗せていた。そして、穏やかに遊乃を見つめていた。
「そのままの意味なんですよ。遊乃さんはですね、奥様の気を引きたかったのです」
「家内の気を……引く……?」
若草遊人は呆然と繰り返し呟き、遊乃を見た。
「遊乃、そうなのか? そんなことのためにお前は……?」
当惑する遊人の言葉に、遊乃はまたも泣き出しそうに唇を歪めて、俯いた。
「そんなこと、ではありませんよ」
再起は、遊人に諭すように言う。
「見たところ、奥様は一日中お仕事で部屋からほとんど出ておられませんね。職業上の勘というやつです、当たっているでしょう?」
「…………」
若草遊人の沈黙を肯定の意に取った再起は、そうでしょうそうでしょう、と大仰に肯き、続ける。
「さっき、遊乃さんのお世話は遊人さんが行っていると仰いましたね。勿論それはそれで結構なのですが、どうです遊人さん。遊乃さんと奥様は、普段からあまり顔を合わせていないのではありませんか」
「そ、それは……」
「遊乃さんは寂しかったのですよ。いくらお父様が一緒にいてくださるとは言っても、お母様ともお話がしたかったのです」
再起は言いながら、遊乃ににこりと微笑んだ。遊乃はそれでいくらか元気付いたらしく、キッと顔を上げて父親を見た。
「お父さん。勝手に騒ぎを起こしたりして、本当に御免なさい。でも私、お母さんとお話ししたい。毎日会って、一緒にご飯を食べたい」
「遊乃……」
父親は感極まった様子で、遊乃を抱きしめた。
「遊乃、悪かったね。お父さんはそこまで気が回らなかったんだ……、許してくれ。お母さんにはお父さんから話して、これからは家族皆で食事を摂ることにしよう。もう遊乃に寂しい思いはさせないよ」
「ありがとう、お父さん……!」
父娘が涙を流しあうその光景を、助手は安堵の表情で眺めていた。再起は、若草父娘をじっと見つめる不起を観察しながら、彼にしては珍しく、にやにや笑いを浮かべていた。
「……それで、先生。私たちは結局、何をしに若草邸まで足を運んだことになるのでしょう」
若草邸からの帰り道、再起と並んで歩く助手が、眼鏡の手入れをしながらそう言った。呆れたようでもあり、またどこか楽しそうでもある。再起はのんびりと夜空を見上げながら答える。
「そりゃあ、父と娘、そして母親の、心温まる感動エピソードをだね……」
「サイキ兄、またも私の邪魔をしてくれましたね」
再起の言葉は、後ろをついて歩いていた不起によって遮られた。不起は不機嫌そうに顔をしかめ、乱暴な足取りで靴音を響かせる。
「邪魔なんて心外だなあ、不起。私は私の仕事をしたまで……痛いっ」
不起は再起の背中に日傘の先をぐりぐりと押し付け、険しい顔で再起を睨んだ。再起は身をよじり、助手は慌ててそれを止める。無言の攻防の末、ようやく再起の背中から日傘が外された。
助手はまた眼鏡の手入れを始め、はあっとため息をついた。
「全く……油断も隙もありませんね」
「それはこちらの台詞です。サイキ兄、貴方は一体どういうつもりであんなことをべらべらと」
「そりゃあ、依頼を遂行するのが私の仕事だからね。事件を起こすのが不起の仕事であるのと、同じように。最初から不起が関わっていることは調べがついていたから、君に依頼した人物と動機さえ分かれば、後はもう簡単なことだよ」
「…………」
再起の言い分に、不起は文句も言えずにむすっと黙り込んだ。助手は眼鏡を掛け直し、普段どおりの真面目な表情で歩き続けている。
「しかし、久々に良いものを見ることが出来たよ。遊乃さんの嬉しそうな顔、見たかい」
「…………」
不起は益々むっとしたように唇を尖らせ、何も答えない。突然、再起は立ち止まり、不起と助手に向き直った。
「どうしました、先生」
再起は両腕を広げて、不起に笑いかけた。
「不起、君は遊乃さんのあの表情が見たかったんだろう」
「…………」
「お母さんと話がしたいという彼女の、笑顔が見たかったんだ……そうだろう?」
「どうしてそんなこと」
不起は再起と目を合わせず、横を向いたまま聞く。
「分かるよ、そんなことくらい。だって、兄妹じゃないか。私たちのお母さんが亡くなったとき、……一番悲しんでいたのは君だったからね」
「…………」
不起は腕組みをして、そっぽを向いたままふん、と鼻を鳴らした。
「サイキ兄は、いつも謎解きが早すぎるのです。昔から……」
「そりゃあ、私は生まれながらの名探偵だからね」
くす、と再起は笑い、また歩き出した。
「サイキ兄」
その場から歩き出さなかった不起が、兄の後姿を呼び止めた。再起は振り向かず、ただ立ち止まる。助手は振り向いて、不起を見た。
「サイキ兄。今年こそは、お母様のお墓参りに来てください」
「…………」
再起は一瞬躊躇するように黙ったが、やがて片手を上げて、ひらひらと振った。
「……そのうちに」
そしてそのまま、二度と振り向かずに、助手とともに帰って行った。
「覆水再起、昨日は悪かったな」
言いながら事務所へ入ってきた先永美寿寿は、再起の姿が見当たらないのできょろきょろと事務所内を見渡した。小さな事務所には、助手の女性が窓の鍵の蝶番に油を差しているだけで、他には誰の姿も無い。
「ええっと……、覆水再起はいないのか?」
「ああ、お早う御座います、先永さん」
助手は髪の毛を整えながら美寿寿に向き直り、油差しをしまった。
「先生は、朝からお出掛けです」
「そうか。珍しいこともあるものだな」
美寿寿はふむと肯き、ソファに腰を下ろした。その間にも忙しそうに働いている助手に、彼女は話しかける。
「それで、どこに出掛けているんだ。コンビニか、それとも本屋か」
再起の出掛けそうな場所をはじめから限定してかかっている美寿寿の物言いに苦笑しながら、助手は答える。
「ご実家です」
「ご実家……って、実家?」
「ええ」
こともなげに肯く助手の態度とは反対に、美寿寿は驚いていた。思わずソファから立ち上がりかけて、それから思い直したように座りなおした。三分ほど何かに思いを巡らしていたようだったが、また口を開いた。
「それはまた……。あんなに怖がっていたのに、昨日の今日でもう出掛けたとはな。驚いた」
「まあ、色々と思うところがあったのでしょう。あれで結構、先生は繊細な方なのですよ」
「…………」
美寿寿は、はん、と肯いて、時計に目を向けた。短針は既に十時を指している。
「そういえば、あいつの実家はどこにあるんだ? 今日出掛けたということは、しばらく帰ってこないのか?」
「気になりますか」
「気になるも何も、あいつが来ないのであれば私の仕事はないだろう。仕事がないのならば、ここに来る必要もない」
「それもそうですね」
助手は今気がついたというように口に手を当てた。美寿寿は若干呆れたようにその様を見ていた。
「先生のご実家は、そう遠い所にあるわけではありません。恐らくそろそろ帰ってらっしゃるのではないかと」
「え。……そろそろ、って」
美寿寿は今度こそソファから立ち上がって、助手に聞き返した。助手は壁際に置かれた植木鉢に水をやりながら答える。
「今朝四時にここを発たれたので、そうですね……、あと五分もすれば」
「あと五分って……」
驚き続けている美寿寿にお構いなしに、助手は次々と仕事を片付けていく。エアコンのフィルターを換え、書類ファイルの確認をし、コンピュータのソフトウェアの更新を行い、ついでにコーヒーを入れようとしている時に、事務所の扉が開き、覆水再起が現れた。相変わらずの出で立ちで、整った顔にはうっすらと笑みを浮かべている。
「おや、お早う御座います美寿寿さん。今日も早くからご出勤、ご苦労様です」
「…………」
美寿寿はぽかんと再起を見上げ、それから「本当に五分だった」と呟いた。
「え、五分って何です」
「あ、いやこちらの話だ。……ん、覆水再起。お前、何か臭うな」
「え、何ですか」
再起は慌てたように自分の身体に鼻を近づけ、くんくんと鼻を動かした。その様子を見るでも無く見ていた美寿寿は、思い出したように声を上げた。
「ああ、そうか。これは線香の匂いだ」
「線香――……」
再起は呟き、自分の匂いをかぐのを止めた。
「そうですか。……線香でしたか」
「ああ。ふん、そうか。お前は墓参りにでも行っていたんだな。なかなか殊勝だ」
美寿寿は満足げに肯き、助手は微笑む。再起は一瞬嬉しそうな、それでいて哀しそうな複雑な表情になったが、すぐにいつも通りの笑顔を浮かべ、快活に答えた。
「お褒めに預かり、光栄ですよ」