朝の32秒
私の1日の過ごし方。
毎朝6時に起床し、ダラダラと朝食を摂り仕事へ向かう準備を進める。
新卒3年目。ある程度仕事には慣れてきたが、行きたくない気持ちは相変わらずだ。
そして朝7時35分。
部屋を出てマンションのエレベーターに乗る。
私の部屋は8階。しかし、いつもこの時間のエレベーターは1階にいる。
8階まで上がってくる32秒が、毎朝少しだけ長く感じる。
ああ、やっと来た。
エレベーターに乗り込む。
いつもこのタイミングは誰も乗ってこないため、イヤホンを装着するにはちょうどいい。
だが今日は違った。
4階でエレベーターが止まった。
「……っす。」
大学生くらいの男性が乗り込んできた。
おそらく私に向かって一応挨拶したのだろう。
片耳だけイヤホンを外し、返事を返す。
「おはようございます。」
いつものルーティンが崩れた。
エレベーターが1階に着くまでの32秒。
いつもの音楽ではなく、エレベーターの空調音を聞いている。
ああ、気まずいったらありゃしない。
男性はスマートフォンを見つめたまま、何も話さない。
私は数字が減っていくのをぼーっと眺めながら、閉じたままのイヤホンケースを指先で転がしていた。
やがて1階に着く。……長かった。
「失礼します。」
男性は軽く頭を下げると、足早に駅とは反対方向へ歩いていった。
社会人じゃないのかな。
そんなことを考えたのも、一瞬だけだった。
その日の仕事は相変わらず忙しく、家に帰る頃には朝の出来事なんてすっかり忘れていた。
翌朝7時35分。
今日もエレベーターは1階にいる。
8階まで上がってくる32秒を待つ。
扉が開く。
乗り込む。
閉まる。
4階で止まる。
まただ。
昨日と同じ男性が乗り込んできた。
「おはようございます。」
昨日より少しだけはっきりした声だった。
「おはようございます。」
私はイヤホンを外すことにも慣れてきた。
たったそれだけ。
でも昨日より、32秒が少しだけ短く感じた。
3日後。
7時35分。
今日もエレベーターは1階にいる。
8階まで上がってくる32秒を待つ。
以前は長く感じていたこの時間も、今ではスマートフォンを見る間もなく過ぎていく。
扉が開く。
乗り込む。
閉まる。
4階で止まる。
「おはようございます。」
「おはようございます。」
それだけ。
会話はそこで終わる。
名前も知らない。
何をしている人なのかも知らない。
それでも私は、4階で扉が開くのを待つようになっていた。
前までは、1秒でも早く1階に着いてほしかったはずなのに。
人は慣れる生き物だ。
たった32秒にも。
名前も知らない誰かにも。
朝から土砂降りだった。
エレベーターが4階で止まる。
「おはようございます。」
「おはようございます。」
彼の手には折り畳み傘が握られていた。
私もバッグの中を確認する。
……ない。
玄関に置いたままだ。やってしまった。
1階に着く。
自動ドアの向こうでは、雨が容赦なく地面を叩いていた。
「……あの。」
初めて彼のほうから声をかけてきた。
「よかったら、駅まで入りますか。」
一瞬だけ迷った。
部屋まで取りに戻れば済む話だ。
でも、もう一度エレベーターを待って、また身支度を整えて家を出ることを想像すると、ため息が出る。
「……ありがとうございます。」
私は彼の傘に入れてもらうことにした。
雨音が傘を叩く。
思っていたより静かだった。
隣を歩いているのに、何を話せばいいのか分からない。
「毎日、この時間ですよね。」
沈黙を破ったのは彼だった。
「そうですね。」
「7時35分。」
思わず笑ってしまう。
「覚えてるんですか。」
「なんとなく。」
それだけ言って、彼も少し笑った。
雨の日だからだろうか。
いつもより駅までの道が短く感じた。
駅の入り口に着く。
「ありがとうございました。」
「いえ。」
彼は軽く会釈をすると、人混みの中へ消えていった。
名前も知らない。
それでも、不思議と心が軽かった。
翌朝。
7時35分。
今日もエレベーターは1階にいる。
8階まで上がってくる32秒。
今日は少しだけ待ち遠しい。
扉が開く。
乗り込む。
閉まる。
4階で止まる。
「おはようございます。」
「おはようございます。」
昨日と何も変わらない。
変わらない、はずだった。
「昨日はありがとうございました。」
「いえ。」
たった一言。
でも、その一言だけで十分だった。
いつもの32秒が、今日はいつもより少しだけ短く感じた。
数日後。
7時35分。
今日もエレベーターは1階にいる。
8階まで上がってくる32秒。
私は無意識に4階の表示を見つめていた。
扉が開く。
……開かない。
4階を通り過ぎる。
「あれ……。」
思わず小さな声が漏れた。
寝坊かな。
そんなことを思いながら会社へ向かった。
翌日も。
その翌日も。
4階で扉は開かなかった。
名前も知らない。
連絡先も知らない。
何をしている人なのかも知らない。
だから何もできない。
ただ、毎朝32秒を過ごすだけだった。
そのとき初めて気づく。
私は、32秒を待っていたんじゃない。
4階で扉が開くのを待っていたんだ。
3日後。
7時35分。
エレベーターのボタンを押し、32秒待つ。
今日も4階では止まらないのだろうか。
そんなことを考えている自分がいた。
いや、今までがそうだったじゃないか。
イヤホンをつけて、1人で1階まで降りる。
ただそれだけの朝だったはずだ。
ポン。
4階でエレベーターが止まる。
思わず顔を上げた。
「おはようございます。お久しぶりです。」
彼がいつものように乗り込んでくる。
「お、おはようございます。お久しぶりです。」
少しだけ慌ててしまった。
同じ言葉を返しただけなのに、なんだか照れくさい。
「実は風邪をひいてしまっていて。今日から復帰なんです。」
「そうだったんですね。」
それだけ返すのが精一杯だった。
エレベーターは静かに1階へ向かう。
32秒。
以前と何も変わらないはずなのに。
今日は、いつもより少しだけ短く感じた。
エレベーターが1階に着く。
扉が開く。
「それじゃ。」
彼は一歩踏み出して、小さく笑った。
「行ってきます。」
そう言って、人混みの中へ歩いていく。
私はその背中を見送る。
……行ってらっしゃい。
声には出さなかった。
でも、その言葉はちゃんと胸の中にあった。
私も駅へ向かって歩き出す。
明日の32秒が、少しだけ楽しみになっていた。




