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朝の32秒

作者:
掲載日:2026/07/25

私の1日の過ごし方。


 毎朝6時に起床し、ダラダラと朝食を摂り仕事へ向かう準備を進める。

 新卒3年目。ある程度仕事には慣れてきたが、行きたくない気持ちは相変わらずだ。


 そして朝7時35分。

 部屋を出てマンションのエレベーターに乗る。

 私の部屋は8階。しかし、いつもこの時間のエレベーターは1階にいる。

 8階まで上がってくる32秒が、毎朝少しだけ長く感じる。


 ああ、やっと来た。

 エレベーターに乗り込む。

 いつもこのタイミングは誰も乗ってこないため、イヤホンを装着するにはちょうどいい。


 だが今日は違った。

 4階でエレベーターが止まった。

「……っす。」

 大学生くらいの男性が乗り込んできた。

 おそらく私に向かって一応挨拶したのだろう。

 片耳だけイヤホンを外し、返事を返す。

「おはようございます。」

 いつものルーティンが崩れた。


 エレベーターが1階に着くまでの32秒。

 いつもの音楽ではなく、エレベーターの空調音を聞いている。

 ああ、気まずいったらありゃしない。

 男性はスマートフォンを見つめたまま、何も話さない。

 私は数字が減っていくのをぼーっと眺めながら、閉じたままのイヤホンケースを指先で転がしていた。

 やがて1階に着く。……長かった。

「失礼します。」

 男性は軽く頭を下げると、足早に駅とは反対方向へ歩いていった。

 社会人じゃないのかな。

 そんなことを考えたのも、一瞬だけだった。

 その日の仕事は相変わらず忙しく、家に帰る頃には朝の出来事なんてすっかり忘れていた。




 翌朝7時35分。

 今日もエレベーターは1階にいる。

 8階まで上がってくる32秒を待つ。

 扉が開く。

 乗り込む。

 閉まる。

 4階で止まる。

 まただ。

 昨日と同じ男性が乗り込んできた。

「おはようございます。」

 昨日より少しだけはっきりした声だった。

「おはようございます。」

 私はイヤホンを外すことにも慣れてきた。

 たったそれだけ。

 でも昨日より、32秒が少しだけ短く感じた。

 



 3日後。

 7時35分。

 今日もエレベーターは1階にいる。

 8階まで上がってくる32秒を待つ。

 以前は長く感じていたこの時間も、今ではスマートフォンを見る間もなく過ぎていく。

 扉が開く。

 乗り込む。

 閉まる。

 4階で止まる。

「おはようございます。」

「おはようございます。」

 それだけ。

 会話はそこで終わる。

 名前も知らない。

 何をしている人なのかも知らない。

 それでも私は、4階で扉が開くのを待つようになっていた。

 前までは、1秒でも早く1階に着いてほしかったはずなのに。

 人は慣れる生き物だ。

 たった32秒にも。


 名前も知らない誰かにも。





 朝から土砂降りだった。

 エレベーターが4階で止まる。

「おはようございます。」

「おはようございます。」

 彼の手には折り畳み傘が握られていた。

 私もバッグの中を確認する。

 ……ない。

 玄関に置いたままだ。やってしまった。

 1階に着く。

 自動ドアの向こうでは、雨が容赦なく地面を叩いていた。

「……あの。」

 初めて彼のほうから声をかけてきた。

「よかったら、駅まで入りますか。」

 一瞬だけ迷った。

 部屋まで取りに戻れば済む話だ。

 でも、もう一度エレベーターを待って、また身支度を整えて家を出ることを想像すると、ため息が出る。


「……ありがとうございます。」

 私は彼の傘に入れてもらうことにした。

 雨音が傘を叩く。

 思っていたより静かだった。


 隣を歩いているのに、何を話せばいいのか分からない。

「毎日、この時間ですよね。」

 沈黙を破ったのは彼だった。

「そうですね。」

「7時35分。」

 思わず笑ってしまう。

「覚えてるんですか。」

「なんとなく。」

 それだけ言って、彼も少し笑った。

 雨の日だからだろうか。

 いつもより駅までの道が短く感じた。

 駅の入り口に着く。

「ありがとうございました。」

「いえ。」

 彼は軽く会釈をすると、人混みの中へ消えていった。

 名前も知らない。

 それでも、不思議と心が軽かった。

 



 翌朝。

 7時35分。

 今日もエレベーターは1階にいる。

 8階まで上がってくる32秒。

 今日は少しだけ待ち遠しい。

 扉が開く。

 乗り込む。

 閉まる。

 4階で止まる。

「おはようございます。」

「おはようございます。」

 昨日と何も変わらない。

 変わらない、はずだった。

「昨日はありがとうございました。」

「いえ。」

 たった一言。

 でも、その一言だけで十分だった。

 いつもの32秒が、今日はいつもより少しだけ短く感じた。




数日後。

 7時35分。

 今日もエレベーターは1階にいる。

 8階まで上がってくる32秒。

 私は無意識に4階の表示を見つめていた。

 扉が開く。

 ……開かない。

 4階を通り過ぎる。

「あれ……。」

 思わず小さな声が漏れた。

 寝坊かな。

 そんなことを思いながら会社へ向かった。

 翌日も。

 その翌日も。

 4階で扉は開かなかった。

 名前も知らない。

 連絡先も知らない。

 何をしている人なのかも知らない。

 だから何もできない。

 ただ、毎朝32秒を過ごすだけだった。

 そのとき初めて気づく。

 私は、32秒を待っていたんじゃない。

 4階で扉が開くのを待っていたんだ。 




 3日後。

 7時35分。

 エレベーターのボタンを押し、32秒待つ。

 今日も4階では止まらないのだろうか。

 そんなことを考えている自分がいた。

 いや、今までがそうだったじゃないか。

 イヤホンをつけて、1人で1階まで降りる。

 ただそれだけの朝だったはずだ。


 ポン。

 4階でエレベーターが止まる。

 思わず顔を上げた。

「おはようございます。お久しぶりです。」

 彼がいつものように乗り込んでくる。

「お、おはようございます。お久しぶりです。」

 少しだけ慌ててしまった。

 同じ言葉を返しただけなのに、なんだか照れくさい。

「実は風邪をひいてしまっていて。今日から復帰なんです。」

「そうだったんですね。」

 それだけ返すのが精一杯だった。

 エレベーターは静かに1階へ向かう。

 32秒。

 以前と何も変わらないはずなのに。

 今日は、いつもより少しだけ短く感じた。

 エレベーターが1階に着く。

 扉が開く。

「それじゃ。」

 彼は一歩踏み出して、小さく笑った。

「行ってきます。」

 そう言って、人混みの中へ歩いていく。

 私はその背中を見送る。


 ……行ってらっしゃい。

 声には出さなかった。

 でも、その言葉はちゃんと胸の中にあった。

 私も駅へ向かって歩き出す。

 明日の32秒が、少しだけ楽しみになっていた。

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