格安物件
山田は、同じ部署の後輩である松崎から引っ越しの話を聞かされていた。松崎が借りたというマンションは、山田の耳を疑うような物件だった。会社から数駅という近さに加え、駅から徒歩10分という好立地。築浅のワンルームマンションで、外観も内装も真新しいという。ここまではよくある話だが、山田が驚いたのはその家賃だ。
「え、マジで。その立地でワンルームなら、普通は最低でも月8万はするだろ」
山田は思わず松崎に詰め寄った。
松崎はにやにやしながら答えた。
「それがですね、なんと月3万円なんですよ。破格でしょ」
「は、3万?嘘だろ......」
「本当ですよ。ただ、家賃は1年分前払いっていう特殊な契約でしたけど」
山田は即座に直感した。
「それ、何かワケあり物件だろ」
松崎はあっけらかんと頷いた。
「そうですよ。だからこの値段なんですって」
「どういうことだよ」
山田は眉をひそめた。
「このマンション、築3年くらいなんですけど、この部屋だけ住人がすぐに引っ越しちゃうらしいんです。不動産屋が言うには、別に部屋で何かあった、いわゆる事故物件とかじゃないらしいんですけど、なぜかみんな、入居後しばらくすると出て行っちゃうって」
山田は疑問に思ったことを口にした。
「出て行った人たちは、理由を不動産屋に言わなかったのか」
「それがですね、不動産屋もおかしいと思ったみたいで、3人目の人が引っ越すって言ってきた時に理由を聞いたらしいんですよ。そしたら……具体的な何かがあったわけじゃないみたいで。その引っ越した住人が言うには、部屋にいると、なんとも言えない居心地の悪さがあったって言うんです」
「居心地が悪い、それだけで引っ越すのか」
山田は信じられないといった顔をした。
松崎はなぜか楽しそうに笑った。
「そう思いますよね。僕もそう思いましたもん。そんな理由でこんな格安で部屋が借りられるなんて、ラッキーとしか言いようがないですよ」
「いや、あのな......それって、本当は別の理由があって、不動産屋が何か隠してるんじゃないのか」
山田は松崎が騙されているのではないかと心配になっていた。
「実は、こういう人の出入りが激しい物件があった場合、不動産屋が手配した人がその部屋に住んでみて確認するらしいんですよ。今回は事情を知らない不動産屋の社員が実際にその部屋に住んでみたらしいです」
「へえ、それで何か分かったのか」
「その社員は1ヶ月くらいその部屋で生活したらしいんですけど、特になにも起こらなかったみたいで。居心地の悪さみたいな理由も分からなかったって言ってました」
山田は腕を組んで考え込んだ。
「なら、別に問題のある部屋ってわけじゃないんだろう。なんでそんなに格安なんだ」
松崎は小声になり、少しだけ顔色を変えた。
「実は、その後にその部屋に入居した人がいまして。その人、この部屋に住み始めて2ヶ月くらいで亡くなってしまったみたいで」
山田は思わず声を荒げた。
「はぁ、亡くなったって......なら本当に事故物件じゃないか」
「いや、亡くなったのは部屋ではなくて、病院なんですよ。その人は50代の男性で、元々心臓に持病があったらしくて。外出先で心臓の発作を起こして、病院に運ばれたけど亡くなったみたいなんです。だから事故物件っていうわけではないけど、入居者がいつかない物件ということで、今回このような家賃設定にしたみたいです」
「なるほどな。とりあえず1年間は同じ入居者に住み続けてもらって、悪い噂を払拭したいってわけか」
「そういうことです。で、たまたまそんな物件を僕が見つけちゃったってわけです」
松崎は勝ち誇ったように言った。
山田はため息をついた。
「1年間、問題なく住み続けられるといいけどな」
「大丈夫ですよ」松崎は自信満々に胸を張った。
しかし、それからすぐに松崎に異変が起こり始めた。
ある日の朝、山田が出社すると、珍しく松崎がすでに会社にいた。普段は始業ギリギリに駆け込んでくる松崎にしては珍しい。
「どうしたんだ、今日は早いな」
山田が尋ねると、松崎は疲れた顔で答えた。
「仕事が溜まってて、気づいたら終電がなくなってて……会社に泊まっちゃいました」
次の日も、山田が会社に来ると松崎はまたいた。どうやらその日も会社に泊まったらしい。さすがに連日会社に泊まるのはまずいと、上司から注意を受けていた。その日は退社時間になると、松崎は足早に帰っていった。
翌日、山田が出勤すると、またしても松崎がいた。しかし、松崎は昨日は会社には泊まっていない、朝早く来ただけだと上司に説明していた。松崎の様子のおかしさが、山田の心をざわつかせ始めた。
山田は別の後輩社員鈴木に松崎について尋ねた。鈴木は朝一で客先に行く用事があり、いつもより早い時間に出勤していたらしかった。
「あ、それなら、見ましたよ」
鈴木は即座に答えた。
「駅から会社に向かっていると、駅前にある漫画喫茶から松崎さんが出てくるのが見えました。どうも昨日は、そこに泊まったみたいでしたよ」
山田は確信した。松崎はどうやら、自宅に帰りたくない"何か"があるのだと。山田は松崎に直接、何があったのか訊くことにした。その日は週末で翌日から休日だったので、山田は松崎を自分の自宅での飲みに誘った。松崎は大喜びで山田の誘いに乗ってきた。
山田は松崎と自宅で酒を酌み交わしながら、マンションに帰りたくない理由を慎重に尋ねた。すると、松崎はグラスを握りしめ、震える声でこう言った。
「あの部屋には、何かがいるんです……」
山田がどういうことかと促すと、松崎は絞り出すように話を始めた。
部屋に住み始めて数日は、本当に何も問題はなかった。格安で借りられたこともあり、松崎は上機嫌で新しい部屋での生活を満喫していた。しかし、住み始めて数日後、異変は起こり始めた。
それは、松崎が部屋で夜にテレビを見ながらベッドでくつろいでいた時のことだった。部屋はワンルームで、玄関を入るとすぐにキッチンがあり、その横にユニットバス、そして居室がある。松崎はいつの間にか眠ってしまったらしく、気づいたら時計はとっくに0時を回っていた。風呂にも入っていないことを思い出し、重い体を起こしたその時、何とも言えない部屋の雰囲気を感じた。
なんだろう、見える範囲に何かがあるわけではない。なのに、言い知れぬ圧迫感。部屋の空気も、鉛のように重く感じられる。松崎は自身でもどう説明していいのか分からない感覚に襲われた。
しばらくすると、何もなかったかのように雰囲気は一変した。今のは何だったのだろう。松崎はそう思いながらも、そのときは深く考えることはなかった。
だが、それから、そのようなことが度々起こるようになった。その都度、松崎はその理由を探したが、目に見える範囲での異常は見つけられない。天井も壁も床も、どこにもおかしなところはない。それでも、説明できない不快感は常に松崎を蝕んでいった。
松崎はこの部屋の今までの住人が言っていた"居心地の悪さ"がどのようなものなのかを、嫌というほど理解し始めた。そして、だんだんと部屋にいることが苦痛に感じられるようになっていった。仕事が終わっても、まっすぐ部屋に帰る気がしない。夜が深まるにつれて、あの重い空気が部屋を支配するような気がして、怖くてたまらなくなった。会社に泊まったり、漫画喫茶に逃げ込んだりするようになったのは、そのためだった。
松崎は震える声で言った。
「これなら、まだ幽霊が出るとかの方がマシでした……」
「この、なんだか分からないけど不快な感じは、もう耐えられない。でも、マンションは1年契約してしまったし……僕、どうすればいいか分からないんです……」
そう言った松崎の目には涙が浮かんでいた。
山田は松崎の肩を叩いた。
「たしかに、安さにつられて1年契約したのはまずかったな。でも、諦めるのは早い。とりあえずダメ元で、不動産屋に相談してみるしかない」
不動産屋は意外にも、松崎が部屋を解約したいという話をすんなり聞き入れた。家賃も月割りで、住んでいた分以外はきちんと返却してくれるという。不動産屋としても、松崎の件を受けて、この部屋はこのままでは人に貸すのは無理だと判断したようだった。
数日後、松崎のもとに不動産屋から連絡があった。
「山田さん、あの部屋のことなんですけど……」
松崎の声は、どこか震えていた。
不動産屋は有名な寺のお坊さんに部屋を見てもらったらしい。すると、部屋の壁の中の柱に使われていた木材に問題があったという。その木材がどういった経緯のものかは不明だが、様々な人の念が込められたものらしかった。そのため、その念が部屋に住む人の精神に悪影響を及ぼし、不快感を与えていたというのだ。
「今では、その木材が使われた柱を撤去したから、もう問題はないって言ってました……。まさか、そんなことってあるんですね……」
松崎は呆然としたように呟いた。
山田は電話を切った後も、しばらくその話が頭から離れなかった。見えない「何か」の念が、人に不快感を与える。そして、その部屋の住人は、理由も分からずに苦しみ、逃げ出した。そして、何も知らずにそこへ住み着いた男が、持病とはいえ死を迎える……。
本当に、それで全てが解決したのだろうか?あの部屋に漂っていたという"居心地の悪さ"は、本当にただの木材のせいだったのか?
山田は、漠然とした不安を拭い去ることができなかった。あの部屋は、きっとこれからも、誰にも知られることなく、人知を超えた何かを抱え続けるのではないだろうか。