風立ちぬ
──4月末、名古屋──
「堀越、またそれを弄っているのか」
桜も終わりかけたある日の午後、三菱航空機のとある一室に本庄の声が響いた。
声を掛けられた堀越は手に持った缶コーヒーを眺めている。
「何事もすんなりと行かないな」
「何がだ?」
「零戦の20㍉機銃だよ」
「ああ……」
この頃の零戦は金星六〇型を載せた機体が既に引き渡し済みで、来月戦力化される予定であった。
20㍉機銃は陸海軍統合時に陸軍の九四式20㍉機関砲の初速は750m/sと海軍が購入した物より高速な為採用。
弾数は開戦前に百発になっていたがベルト給弾化はエンジンの更新に間に合わなかったのだ。
真鍮薬莢の原料の1つである銅が電線や真空管と競合する為軟鋼に代わり、排莢不良が解決していなかったのである。
「俺達の領分じゃない事で悩んでも仕方無いさ。
その缶もそうだが、どうしようも無い事の方が多いんだ」
「確かに──だが未来を見せられては現実逃避すら出来ないんだ」
堀越はそう言うと、ミウラ折りが施された缶を置く。
彼等は軍機──史実情報──に触れる事が出来た数少ない民間人である。
36年春、理研に招かれた他の企業の技術屋と共に天然色の映像と未来を体感。
持出しを禁じられた資料には翌年彼が開発する機体の顛末と後悔が綴られていた。
「人の命がかかってるから余計にな……だがまあ海軍さんの話が通じるようになったのは有難い」
アルミを除けば環境も良くなったし、と続けた。
本庄が設計した一式陸攻は兄弟が提供した資料や日中戦争の損害から速度低下を忍び防弾が考慮された。
零戦も同様である。
ドラフターと蛍光灯、冷暖房の普及で図面の汗ジミに悩まされずに済み、真空管が専有する部屋では二次元CADが実行出来設計期間が1/4に減った。
計算も最初はタイガー計算機の6倍の速度でこなすリレー計算機を導入。
3年足らずで速度が5倍になった改良版に更新され、40年に導入されたレジスターサイズのパラメトロン電卓はタイガー時代の500倍、41年に納入された2坪を占める大型機に至っては5万倍に到達。
製造分野でもNC工作機械の導入と改良により小さい物は数値入力から部品加工終了まで8時間から15分に短縮され、生産速度は人の時の10倍以上に跳ね上がったのである。
材料も40年に起きたタイと仏の領土紛争を日本が調停して以降、北米産原油は屑鉄共々入って来なくなったが満州で両方共代替出来た。
ゴムと錫はタイ。
潤滑油、燃料、工作機械に必須であるダイヤモンドは満州の大連。
ニッケル、タングステンは朝鮮半島。
超々ジュラルミンに添加する銅、マグネシウムは国内や上記地域から輸送され、アルミは満州で採れるが低品質で、適用出来るのは超ジュラルミンまでであった。
「アルミはまあ……理研兄弟の弟の方から怒られたよ。
軽量化は理研でも出来るだけ協力するから、工具の設計から始めなければならない程機体内部の隙間を無くすなってね」
ミウラ折りはこの時貰った物である。
ミウラ折りを施した缶は無加工のそれと比較して30%軽量化出来ると知って再現出来ないかと尋ねたのは堀越だけではなかったが、解析、製造に80年代中盤──算盤、計算尺、機械式計算機が現場から消え去った後の技術が必要との返答に肩を落とすしかなかった。
理研が実験室レベルで到達した水準は60年代。
量産体制はそれ以前の問題だった。
モーターは三菱電機が1993年に考案したポキポキモーターを理研が再現、前倒しした為性能はそのままでコイルに用いる銅線重量が半減。
磁石と外装重量がそれぞれ最大3、6割削減された為、将官の一部はミウラ折りの再現も主張したが理研、製造、整備現場から不可能と言われ沈黙した。
理研が──元は小川兄弟が提供したアルミ電線に銅メッキを施したイヤホンケーブル──はまだハードルが低い為住友金属の手で配線がアルミ化され、新型モーターは日産系列の武蔵野モーターが先行受注していたので、三菱は同社に技術者を派遣。
三菱電機で内製済みだった。




