09
珈琲が不味い喫茶店は、喫茶店としての価値がない。喫茶店は、音楽の趣味が悪くても、家具の趣味が悪くても、立地が悪くても、店主や店員の態度が悪くてもいい。僕は喫茶店に珈琲以外を求めない。なぜなら、珈琲よりも苦々しい話をするからだ。珈琲が不味かったらそんな話を進められるわけがない。
「悩み事でもあるんですか」と彼女は言った。
黒縁のメガネを賭け、黒いスーツをピシッと着こなし、髪には一切の遊びがない。僕が知る限りでも、彼女は最もちゃんとした大人だ。
「悩みがない人間なんですか?」と僕は言った。
僕は珈琲を飲んだ。苦みが広がった。
彼女も珈琲を飲んだ。メガネが少し曇ったが、すぐになくなった。
彼女はじっと僕をみた。
私の言いたいことわかるでしょ?という目だ。
僕は何も言わず、考えているふりをした。言いたくないオーラを放った。
彼女の目は変わらなかった。
僕は珈琲を飲み干した。苦かった。
「上手く書けないんです」と僕は言った。
「いつものことじゃないですか」
「いつもより書けないんです」
「どうしてですか」
僕は何も言わず、考えた。
調子がいい方が少ない。スラスラ書ける、なんてことはほとんどない。僕の執筆スピードはスプリントでもランニングでもなく、散歩だ。歩行ではない。行かなくてもいいところをぶらぶらと歩き、寄り道と遠回りをしながら、ゆっくりとゆっくりと目的地に進む。時折、逆走をしながら。
彼女はこのことを知っている。僕よりも僕の、書くことについて知っている。だから、彼女が訊きたいのはこんなことじゃない。
じゃあ、何を言えばいい?僕は何に悩んでいる?
筋肉の成長が鈍化していること?将来のこと?家が本だらけのこと?読みかけの本をどこに置いたか忘れたこと?酒を飲み過ぎていること?夜眠れないこと?珈琲を止められないこと?
どれも違う。どうでもいい。書くことに何も関係ない。
「僕に才能があると、おもいますか?」
これ、だと思う。
「上手く書くのに、才能が必要なんですか?」
「いえ、いらないと思います。でも、よく思うんです。才能があったらっ、て」
「才能があっても、意味ないですよ。書かなければね」
「才能があって、書いている人は沢山います。その人たちの文章の方が僕の何倍も上手いです。それなのに僕が書くことに意味があるのかなっ、て」
「どうして文章を書いているんですか?」
「上手く、書くため、です」
「それが理由じゃないでしょ」
・・・・・・・・・。
「わからないです」
「ふむ」と彼女は言った。
彼女は珈琲を飲んだ。そして、アイスコーヒーを一杯注文した。
沈黙だった。趣味の悪いジャズと、やけに五月蠅い時計の音が聞こえた。
アイスコーヒーが運ばれた。店員が去った後、彼女はそれを僕の前に滑らせた。氷が鳴った。
「最後にどこか出かけたのは何時ですか?」
「覚えてないです。随分前なのは確かです」
「最後に遊びに行ったのは?映画館でも、ボウリングでも、ゲームセンターでもなんでもいいです」
「映画はサブスクで観ますし、ボウリングは嫌いです。エロゲーならたまにします」
「外食に行ったのは?日光の下で運動をしたのは?」
「外食はしません。身体に悪いので。運動は筋トレをよくします。日光は浴びてませんがビタミンDのサプリを飲んでますし、野菜も肉も食べているので、健康に問題はありません」
「ふむ」と彼女は言った。
僕の前のアイスコーヒを飲んで、元の位置に戻した。
「息抜きをしてください」
「え?」
間抜けな声が出た。
「遊ぶことも、つまり、書くこと以外のことも、書くことのうちです。旅行に行けとか、キャンプに行けとかはいいません。ただ、なんでもいいので普段しないことをしてみてください」と彼女はとても真剣な顔で言った。真剣な声だ。
「僕の悩みは、たいてい本を読んでしまえば解決するんです。それ以外のことが解決してくれたことなんてないです。映画も、旅行も、キャンプも行きました。それでも、上手くいきませんでした。僕には効果がないんです」
「それでいいです」
彼女は続けた。
「本を読んでもいいです。ただ、家では読まないでください。満喫でもカラオケでも図書館でも、どこでもいいです。トニカク、いつもと違うことをしてください。その後また、読ませてください」
びしょびしょに結露した、コップの水を彼女は飲んだ。氷だけが残った。
「今日はここまです」
彼女は伝票を持って、会計を済まし、僕に笑顔を向け、ちゃんと遊んでくださいね、と言い、ドアベルを鳴らし店を出た。
僕はしばらくの間、彼女が水を飲んだ、結露したコップを眺めた。
僕は店主に頼み灰皿をもらった。
煙草がなかった。
帰りにコンビニ寄った。
煙草を買うか迷ったが、やめておいた。
少女は部屋の隅でじっと座っている。