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ルクレシア

 アリスが必死に素数を数えていた同時刻――


 学院のとある片隅にて。


 夢遊病患者のようにひとりの女生徒が歩いていた。


 彼女はネグリジェのまま学院の端にある『自然の森』と呼ばれている一角に向かっていた。


 素足である。


 彼女は足が泥にまみれるのも厭わず。


 小石で怪我をすることも構わず。


 ただ、ひたすらにその場所へ向かっていた。


 ただ、その唇で、「アリス……、アリス……」と呟いていた。


 彼女が821回目のアリスという言葉を口にしたのと同時に、少女は目的の場所に到達する。


 そこには黒衣を纏った女がいた。


 少女は彼女の名を知らない。


 それどころか面識はない。


 だが少女は彼女と会うためにここにやってきたのだ。


 彼女ならば自分を救ってくれる。


 そう思いここまでやってきたのだ。


 事実、彼女は少女の救世主だった。


 少女の名はルクレシア・モナフォード。


 公爵家に連なる名家の娘。


 幼き頃より英才教育を受けており、首席で王立学院に入学し、首席で王立学院を卒業するはずだった少女。


 しかし、彼女の前には大きな壁が立ちふさがった、


 その者の名はアリス・クローネ。


 地方の男爵家の冴えない末娘。


 本来ならば彼女はルクレシアの視界にさえ入らない矮小な存在。


 卒業まで言葉さえ交わすことがなかったはずの取るに足らない存在だったはずなのに、彼女は今、ルクレシアの前に立ちふさがる巨大な壁だった。


 

 座学でも彼女には勝てない。


 魔力では太刀打ちさえできない。


 級友たちからの声望も遠く及ばない。


 男子たちの人気も劣る。


 

幼年学校では上記のものすべてを手に入れてきたルクレシアだったが、この学院に入学して以来、一番になれないでいた。


 いや、それどころではない。



 ルクレシアはアリスと出会うことにより、首席の座どころかすべてを奪われてしまった。


 今やルクレシアは級友たちからは凡庸な生徒と見なされていた。


 比較対象がアリス・クローネだから。彼女は座学でも常に満点を取る。



 今やルクレシアは凡才と見なされていた。


 彼女の魔力は膨大すぎて、魔法を唱えるたびに学校の器物を破壊し、校庭に大穴を開ける。その才は学院創設以来なのでは? というのが教師たちの共通見解だった。

 


 今やその人気はルクレシアと比べるまでもない。


 明るく、人当たりの良い性格は、男女問わず人々を引きつける。


 彼女の机は常に恋文で満たされ、休み時間になれば自然と彼女を中心に輪ができる。



 かつてはルクレシアの周りにいたものも皆、離れていった。


 もはやルクレシアにかつての勢いや覇気もない。


 ただ、遠くから彼女のことを見つめるだけだった。


 ただ、アリスが羨ましい、彼女のようになりたい。そう思うだけだった。



 生まれてから一度も感じたことのない感情にルクレシアは支配されていた。


 その感情の名は分からない。


 なぜならばルクレシアは今までの人生で一度も挫折をしたことがないから。


 しかし、ルクレシアにその感情に名前を教えてくれる人物がいた。


 黒衣を纏った人物は、ルクレシアの側まで寄ると、そっと耳打ちをしてくれた。


 彼、彼女かは分からないが、その人物はルクレシアの心の中にわだかまっていた感情の正体を教えてくれた。



「貴方が心の中で飼っている感情の名前は『嫉妬』というの。覚えておきなさい」



 嫉妬?


 ルクレシアは思わず声を漏らす。


「この私が嫉妬をしているというの? あの娘を妬ましく思っているというの?」


 そう問うたが、黒衣の人物はなにも答えてくれない。


 代わりに懐から宝石を取り出す。


 紫色に輝く怪しげな宝石だった。


 禍々しいまでの妖気を感じる。


「もしもあの娘を打ち負かしたい、そう思うのならばこの宝石を受け取りなさい。さすれば貴方は自分の中にある感情を表現することができるでしょう。圧倒的な力を得ることができるでしょう」


 黒衣の人物はそれだけを言い残すと、すうっと暗闇の中に消えた。


 ルクレシアはそれを呆然と見送ると、受取った宝石を右手で握りしめた。


 ぎゅっと力強く、まるで誰かの心臓を握りしめるかのように――。

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