ナルヴィ②
残酷表現注意。
ぬるい茶の染みたカーペットに横たわったまま意識を失っていたらしく、ひどい酒臭さといびきの音に目をさました照之は口元を押さえて声を出さないようにあたりを見回した。金目のものを意識を失ってから物色していたのか、鞄には溢れかえるように多数のものが詰め込まれている。覚醒すると共に鈍い痛みが蘇ってくる。顔は殴られなかったようで痛みはまるでないものの、ぎりぎりと食いしばった歯の奥から吐き気が迫り上がってくるようだった。
普段使っているソファーの上に脱ぎ散らかされたワンピースはシワだらけで、その上に細くて美しい手足を投げ出すように眠っている。テーブルの上には酒の缶や高価そうな瓶が空になって並べられており、丁寧に整えられた暮らしの中に異物が紛れ込んだような心持ちさえする。あれは父親が確か出張から帰ったら飲もうかな、と言っていたはずなのに、それを遠慮もなく飲み干したあたり、おそらく冷蔵庫や、あらゆる場所に手をつけているのだろう。
そう思った瞬間すうっ、と頭の中に入り込んだ妄想に体は支配されるように動き、気がつけばその手に包丁を握り締めていた。呆然としたままそれを両手で握り締める。
このまま、喉でもひとつきにしてしまえばきっとそれで事足りる。その妄想に支配されるにしたがって体は震えが止まって、謎の自信が体を満たしていった。しかし、そこで彼の妄想を中断するように背後から物音がする。
「うぅん……?何してるのよ」
冷や汗が全身に吹き出し、背筋がぎくりと強張る。振り返ると、じいっとしかめられた顔が向けられていた。その顔にヘラリと笑いながら冷蔵庫を開け、そして好きそうな食材を取り出す。
「す、すみません、夕飯を、作ろうと」
「ふぅん……?そんなことできるんだ。まあいいわ、作って」
ふぁあ、という声に、背中が向けられる。少し暗いキッチンの中から真っ白な背中が浮き上がるように見えた。
そのあまりの無防備さに、思わず体が動いていた。美玲にあちこち外に連れ出されていたことはある意味、彼にとっては幸運だった。生来のしなやかなバネに筋肉が備わった体は既に照子が知っているようながりがりの、細く何もできない無力な体ではない。
たん、と一息で踏み切った体は勢いのついたゴムまりのようにその無防備な背中に深々と食い込み、ほとんど海老ぞりになるようにして体が歪んだ。しかしその手に握られていた包丁は深く刺さってはいない。表皮から侵入した刃は骨にガチ、と食い込んだだけでほとんど表面で止まっている。このままだとやり返される、そう考えた瞬間照子の口から軽い悲鳴が上がった。
酒と眠気で鈍くなっていた神経がようやく痛みを伝えたようで、ギリギリと激しい歯軋りが聞こえる。引き抜いた瞬間に再度悲鳴が上がり、照之はぐらぐらとしながらも立ち上がる照子と相対することになってしまった。恐怖が今更ながら足元から立ち上ってくるように、全身に絡みつく。
「ィイイイイ!!何しやがるクソガキ!!ふざけんな、このッ……殺す!!」
「うるさい!俺はもう、違うんだ!!」
髪を振り乱してぎらつく目を向けると、怯え混じりながら、反抗の視線が返ってくることにまたイライラしながら吐き捨てる。しかし、彼女は完全に失念していた。
恐怖に冒された人間は、もう止まることはできないのだ、と。
包丁を小脇に構え、そしてまた立ち上がってゆらゆらとしている影に向かって全力で突っ込んでいく。今度はあやまたず、太ももの柔らかな肉に包丁はしっかりと突き刺さり、そして照子は悲鳴を上げて扉に倒れる。後頭部を強打し、綺麗な髪の隙間から鮮血が流れ出して扉に痕を残していく。ずるずる、と床へくず折れるが、まだ気を失ってもいない。
「ーーヴゥ、ぐ、ごのッ……」
長い爪の手がまさぐるように太ももを撫で回し、包丁を探り当てると引き抜こうとする。しかし、その長い爪を小さな手が力の限り引っ張り、ぱき、という音が荒い呼吸音の中に響く。付け爪は根本か折れちぎれ、鋭い痛みが彼女の指先に走った。
「いだァッ!?」
「渡すわけないだろ!」
力一杯引き抜いた瞬間にどこか弾力のある手応えを切り裂いたような感触が残った。おそらくどこか太い血管を引き抜くときに傷つけたのだろう、照之が引っ張った瞬間、噴水のように血が噴き出す。ああ、掃除が大変だーーという益体もないことが頭をよぎった。傷口からは拍動に合わせてブシャ、ブシャ、と血が流出して床を汚していく。ふとあたりを見回して近くにあったキッチンペーパーのロールを転がしはしたものの、吐き出される血液には到底間に合わない量だったようですぐに真っ赤に染まっていく。
「……はぁ、はぁ、はぁ……」
ぎゅ、と握り締めた包丁が、途端に重たく感じるような気持ちにすらなってくる。心の中は爽快な気さえしていた。
段々と青ざめていく顔色に、そんなに長くない命だということもわかる。意識も朦朧としているのだろう、しかしとどめをこの手で刺したい、刺さなければまだ立ち上がってくる、という強迫観念が心を支配していた。
一息に振り上げ、そして力一杯体に振り下ろす。先が欠けて曲がってはいたが、それでも心臓を傷つけるのに全く支障はなかった。
ずる、と体の上に崩れ落ちていく。心拍が消えていく体にそっと自らの体を重ね、その音を聞く。温かくて柔らかいその感触に、ようやく母の腕に抱かれたような気がした。徐々に冷たくなっていくその温度に、現実がじわりと滲んでくる。
「……ああ、どうしよう」
まずタオル、キッチンペーパーは何度も血を吸わせて流しで絞り、捨てていく。全身がぬるく鉄臭い液体にまみれたまま、死体が腐り始めるのはいつだったか……そう考え始めると、もう死体を隠すのだって難しい。殴られたのだから命の危険を感じて殺した、というのなら正当防衛になるだろうか。そんなことをつらつらと考えながら電話を手に取り、そして110という番号を押そうとしたその瞬間だった。
「通報するの?」
ここにあるはずのない、他の人間の声に照之の肩が跳ねる。恐る恐る振り向くと、創が唇に笑みを湛えて立っていた。
「……なんだ、お前かよ……」
安堵のあまり出てきたのはそんな言葉だった。いつものように静かに笑って立っている彼にぼんやりとした頭でそう返した後にふと気づく。鍵は確かあの女が閉めたはずで、と思いながら黙っていると、創は血液がつかないように床を歩いてくると、足のつま先で死体をつつきながら「あのさ」と言った。
「何だよ……」
「これ、もしかしなくても処分に困ってるんじゃない?」
「しょ、処分って……人が死んだんだぞ」
「お前がやったんじゃないか」
「……そう、だけど」
「これ、俺が処分してあげてもいいよ。その代わり、どうやったかは秘密ね」
そんなことができるのか、いやその前にどうやって、とぐるぐる頭の中を思考が反響する。しかし返事をする前に、ずるり、と創の足元の影が広がったような気がした。錯覚かとも思い目をこすったが、その影はやがて実体を伴って膨れ上がり、そしてはっきりと持ち上がってどぷん、と死体を飲み込んだ。
「……なるほど、人間の体を飲み込むとこういうことになるんだ」
へえ、と言いながら手足を確かめるように動かしていく。ムグムグと輪郭が多少歪んで見えたのはおそらく気のせいではないだろう。ぶくぶくと膨れ上がった胴体に合わせるように服は伸び縮みを繰り返し、やがて元の大きさへと戻っていく。
「なあ、何だよその体。お前、もしかして人間じゃねえのか……?」
ポカンとした表情が向けられ、それから創は心外だとでもいうように頬を膨らませる。
「人間だよ、れっきとしたね。ただしこの夏休みで多少体を改造したけどね」
腕の形に合わせるように手のひらを滑らせ、腕の形もそれに合わせてポコポコと泡立つように膨れ上がり、そしてもとに戻る。すげぇ、と漏らした照之だが、ふと「それ、どうやってやってもらったんだ?」と口にする。
「ああ、まあ……いいか。これは俺が最近知り合った人が面白い人でね。元々研究者をやってたんだけど、俺の計画を話したら『面白そうだ』って言って乗ってくれたんだよ」
「けい……かく?何だよ、世界征服でもしようっての?」
「それに近いことだ。俺は世界が愛おしくて仕方がないけれど、同時にこの世界が自らを縛り付けるような真似をしているのが我慢ならないんだ。だから、その楔を抜いてあげようと思ってるんだよね」
「何言ってるのかわかんねぇ」
「そう?じゃあ簡単に言い換えよう。俺が好きな世界を壊す奴は、全員ぶち殺すーーほら、わかりやすくなっただろ?」
確かにわかりやすくはなったが悪化してないか、と思いながら未だ残る血飛沫の残骸にため息を吐く。
「この壁のシミとか、取れねえ?飛び散っちゃったやつ……」
「ちょっと難しいかな……正直、拭いた後のものは証拠隠滅できる自信はあるけど、壁紙まで意識を保ったまま染み込めるわけじゃないから逆に俺が染みになっちゃうかも?隠したいなら、何か塗料でも買ってこようか」
「ああ、いや、助かったよ。正直死体を隠してくれただけでありがたいし、それに……今、出掛けられないだろ。どう頑張っても、出かけようとしたら血がつく」
二人で苦心しながら全ての場所を拭き上げると、顔を見合わせて笑い合う。二人の仲が、何となく今までのものとは変わったように感じた。服や死体などは全て創の体内に隠されているということを不思議に思いながら色々と実験を始めたが、分かったことは物理的な衝撃、また熱や冷気にも耐性が完全にありそうだということや強くイメージすれば他の人間にも変身できるということだけで、飲み込める体積などは見た目さえ気にしなければおおよそ1LDKのマンション一室分ほどだということだった。
それから数日間、二人は同じ家で過ごすことになった。というのも、実際いつ終わるかわからなかったためにキャンプ期間を長く設定しており、同じタイミングで帰宅する予定だったために家に帰ったところで人がいないということ、また設定に合わせて行動しなければいけないためにどこに泊まろうか思案中だったのだという。
「ガバガバじゃねえか!なんでそんな雑な作戦立てて帰ってきちゃおうと思ったんだよ」
「実際、家にいるだけなら鍵穴くらいどうとでも弄れるからつい……でも家に入って気がついたんだけど、しばらく両親もいないし妹もいないから食べ物もないし、電気代動いてたらバレるかなって思ってね」
「そういえばお前、鍵かけてたのにうちに侵入してきてたな。次入って来る時は鍵くらい使えよな、全く……」
空恐ろしく感じていた少年がやや抜けた部分があるということを知って、こいつの面倒を見なくてはという気分にすらなってしまった照之は、「おい、水上」と呼びかける。
「何?」
「今日のこと、誰にも秘密な。そんでもって、お前もうちに遊びにこいよ。それで、……その」
口に出すのが、少し気恥ずかしくなったもののもう人を殺したところさえ見せてしまったのだから、もうどうにでもなれ、という気持ちのまま照之は願いを口に出す。
「ーー俺にも、お前の夢を手伝わせてくれよ」
「……え?いいの?」
「いいっつってんだろ!あんまり言わせんじゃねえよ、バカ!」
むぎゅ、と目の前が暗くなる。抱きつかれていたと気がついた瞬間、じわ、と目に涙が溢れてくる。温かいその腕の中で、自分が血まみれだということを思い出して離れようと腕をつっぱると案外すんなりと腕は離れた。
「ありがとう、斎賀くん」
「……そういやお前、俺の名前一度も呼んだことなかったな。サイガでいいよ、照之って名前嫌いなんだ」
照子と同じ感じが使われたその名前を、疎ましく思ったことは何度となくある。だから、サイガという呼び方をして欲しかったのだが、名前で呼ばれる方が親しいのだと思い込んでいる人が多過ぎる。だからもしかしたら名前で呼びたいと言われる前にそう口にした。
「ああ、わかった。サイガね、俺はハジメでいいよ」
「ん、よろしくな、ハジメ」




