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ナルヴィ①

「結局、あの女の思惑は大したことなかったな」

「疲れた……」

珍しいな、とサイガは俺の肩に腕を乗せる。他の二人は処理するべき仕事があるから、と抜けて帰ってしまったが俺に関しては今日は色々あっただろうからと気をきかせてくれたようだった。ちなみにサイガに関してはアホなので書類をまかすことができないから常日頃は力仕事だの情報集めだのに駆り出している。実際書類に関しては彼自身も苦手だと思っているらしく、作戦行動も時折怪しい時がある。


「しかし、こうして二人でノンビリしてる時間ってのは久々じゃねーの?」

「最近は多少多かったが、そうだな、言われてみれば二人でのんびりと何も考えずに過ごすのは久々だ」

「だろ〜?」

ウニウニとベッドの上で細くしなやかな体をくねらせている姿はともすれば誘っているようにさえ見えるが、サイガ自身にはそんな意志は全くない。昔からこの可愛らしい顔と男女の区別がつかないような細い体で幾人もの変態を魅了してきた。彼自身はそんな自分の体を嫌がってはいるものの、俺は結構サイガがこうでよかった、と思っている。


「思えば、懐かしいな。ーーお前に初めて会ったのは、お前の母親が死んだ時だったか」

「……そう、だな。嫌な記憶だと思ってたけど、思い返せばそうでもねぇなァ。今でもあいつを殺したことは後悔してねぇよ、俺ぁ」

あいつ。

そう、サイガの母親ーー夕霧(ゆうぎり) 照子(しょうこ)


サイガはこのマンションで、彼の母親を殺した。

そして俺はその死体を処理する手伝いをした。

この話題を出すたびに、鼻の奥にぬめってこびりつくような血の匂いと、蝉の音が蘇る。





******


斎賀照之がこのマンションに越してきたのは、彼らが小学三年生の折だった。

柔和だがどこかしっかりしなければ、という表情の少しやつれた父親に連れられて、嘘のように綺麗な顔をした子供はどこまでも不機嫌に、怒りをたたえた表情のままじっとハジメのことを見つめていた。しかしハジメはそれに一切の興味を示すことはなく、「よろしく」と淡々と言って上階へと足を向けた。母親は、「あんたね……」と言いかけたが、常のことなのだろう、ため息を一つ吐いて交流をまた始めた。


「そうなんですか、奥さんが……」

「ええ、ですからお手伝いさんが入ったりして、見かけない人が増えると思いますが、よろしくお願いします」

「あら!かまいませんわ、こんなに可愛い子ならお父さんも心配でしょうしーー」


頭上で交わされるそんな会話を尻目にぼんやりしていると、突然痛みすら感じるほどの力でぎゅう、と腕を掴まれる。普段の癖で悲鳴を上げることはなかったが、目の前にキラキラと輝く瞳で現れたのは同じくらいの身長の少女だった。ツインテールに可愛らしい髪飾りをつけ、ニコニコとした笑みのまま彼女は「ねえ!」とうるさいくらいの声で話しかけてきた。

「あなた、お名前は?」

「名前……?」

「私、みなかみみれい!あなたはなんて言うの?」

名前?カス、ゴミ、クズ……そう呼ばれた記憶はあるのに、名前を呼ばれた記憶はわずかしかない。照之はどうしたらいいかわからず、父親と呼ばれる男の手を引っ張った。

「ああ、紹介が遅れちゃったね。私は斎賀 博之(ひろゆき)、この子は照之(てるゆき)。よろしくね、みれいちゃん」

「うん!えへへ、てるちゃんって呼んでいい?」

「あだ名かい?早速仲良くなれたようで嬉しいよ」

「てるちゃんてるちゃんてるちゃん!ねえ、遊ぼうよ〜!」


ぐい、と引っ張られ、バランスを崩しかける。静かに放っておいてほしいーーそう思っている心を置き去りにするように、照之は明るい日の下に引っ張り出されていった。やけに冷静なあの少年の名前を聞いていなかったことに気づくのは、その夜のことだった。


一年が経過すると、顔を合わせる機会もまあまあ増えた。(ハジメ)、という少年に会う機会もあったものの、その表面的な態度は一切消えることなく残ったままだった。しかし、それでもお互いに会えば挨拶もするし、なんだかんだで付き合いがあることは明らかだった。

その年の間に何度も家政婦は変わった。

一人目の家政婦は盗難、二人目の家政婦は父親の博之への誘惑、三人目の家政婦は照之への性的虐待。三人目に関してはしつこく体中を舐め回されているところで隣の水上家の母親がおかずのお裾分けと様子を見に、と言うことでやってきたために判明したのだが。


四人目の家政婦に関しては男を探そう、と言っているところで事件は起きた。

ちょうど水上家の真上の部屋に住んでいた女性が救急搬送された後、死亡したと言うのだ。ちょうどその時遊びに行っていた創が見つけ、そして救急車を呼んだのだという。赤いランプがくるくると回りながらマンションの外壁を照らし出す。けたたましいサイレンの音に不安感が煽られるような気持ちになる。創が救急車を見送るその瞳に、言い知れぬ何かの感情を秘めているような気はしたが、それ以外は普段とほとんど変わらないためにその姿に背中を向けた。


そして現れた四人目の家政婦、ならぬ家政夫。彼は初めこそ真面目そうな顔をしていたものの、徐々に見張りがいないということ、そして喋りもしない不機嫌そうな子供相手ということで仕事に関してはかなり雑だった。しかし、それでも今までの家政婦よりよっぽどマシであり、彼は雇い主相手に家事を教え始めた。とうとうそれが発覚したのが一年後、既にあらかたの家事を覚え切ったところだった。

「これだけハズレを引くとは……」

どんよりとしている父親の肩を叩き、そして当然だとも考える。なにしろ文句を言ってくるのもただの子供なのだから、相手にされているわけがない。たまに博之が帰ってくる時さえ綺麗になっていれば大したことは言われないのだから。


「よし、もう一人。もう一人ダメだったら、諦めよう」

お前も大変だろうし、と呟くように言われたが、正直照之としてはもうどうでもよかったし、仕事ができようができなかろうがと言う気持ちであった。しかしながら、その次に現れた家政婦はよほど評判がいい人を呼んだのかはわからないものの、子供や夫と事故で死に別れた境遇の優しそうな女性だった。豊満な体格で、笑顔になると目元がキュッと潰れるような愛嬌のある笑い顔。

「こんにちは、友澤 真純と言います。気軽に真純さんって呼んでちょうだいな」

「……どうも」

真純は実によく働いたし、実際近所からの評判も良かった。加えて博之に対しても一定の雇い主との距離感を保った間柄になったままであった。


表面上は。


「真純さんじゃなくて、家の中ではママって呼んでちょうだい」

「ねぇ、どこに行こうとしているの?遊びに?ふうん、でも5時には帰ってらっしゃいね」

「ママ、って呼んでって教えたでしょう?どうしてできないのよ?」


強かに打ち据えられた頬の熱に、ああ痛みってこんなものだったなーーと脳みそが思い出す。その直後、身体中を柔らかな熱が包み込む。真純は照之のことを抱きしめた。

「こんなお母さんでごめんね、でもあなたもいけないのよ、言うことを聞かないから、ごめんね、ごめんね……」

抱きしめられる感触はほとんど初めてのものだったし、そして何より心地のいいものだった。それでも、やがて一年ほどで虐待している痕が博之に見つかり、真純もまた消えていった。ママ、と呼ぶ照之に博之が顔を般若の如く怒らせながら真純に詰め寄ったことを今でもはっきりと覚えている。


「違うわよね!?ママなんて呼ばせてないじゃない!!ねえ照之くん!!」

「ママ?何言って……」

「テル!もうそう呼ばなくていいんだよっ……」


何を言っているのかまるでわからないまま、彼の『母親』はいなくなった。多少顔くらい引っ叩かれようが、抱きしめてくれたのはあの人だけだったと言うのに。父親はまたすぐに出張があるからと家政婦を探そうとしたが、今度ばかりは照之もそれを断った。

博之を見送り終わり、そして部屋に戻ろうとするとそこに立っていた創と目が合った。唇に薄い笑みを湛えているその表情に薄気味悪いものを感じる。本当に美玲と血が繋がっているのかと思うほど、二人は真逆の存在だった。


「何だよ」

「ママがいなくなっちゃって、残念だったね」

そう掛けられた言葉に、何を返していいかわからなくなり、そして唇をワナワナと震わせた後に下を向く。それでもいいと思っていたのは当人同士だけで、世界はそれを許してはくれなかった。そして、真純もまたその関係を否定した。

「……別に。犯罪者だろ」

「ふぅん、君までそう言うことを言うんだ。でもそれってただの正当化じゃない?俺は正直な気持ちが聞きたかったんだけどな」


彼はそう言って自らの家の中に戻っていく。たった壁一枚隔てた向こうに『それ』がいるのがひどく悍ましく感じて、照之はせめてもの反抗のように玄関の扉を思い切り閉めた。





程なくして、小学六年生の夏がやってくることになった。隣家の創は夏の間長期で中学受験の合宿に参加するということらしく、初日から「しばらく美玲の面倒をよろしくね」と言い置いて去っていった。美玲がやや苦手だった照之は生返事を返したが、彼は「よろしくね」と言い含めるようにもう一度伝えて踵を返す。

「何なんだ、あいつ……」


どうせ美玲が遊びに来るのだから、と思っていたが、父親があちこちに短い期間で連れ出してくれたため前半にはほとんど会うことはなかった。その代わり宿題は一切進むことはなく、後半に日記だの何だのをやりながらぶつぶつ文句を垂れる。隣の家は今無人で、美玲も連れて遠方の実家に帰省していた。

「お兄ちゃんは今キャンプ中なんだけどね、一緒の日付に帰ってくるように言ってあるから帰ってきたら顔出すわ!」

そう言って美玲がウキウキした表情で去っていくのを見送った。美玲も、創も、帰る場所があるのだということに暗澹たる気分になりながら、照之は静かにタオルケットをかけ、眠りについた。


ジジ……ジワジワ……という蝉の声が反響するように響く。既にタイマーをセットしていた冷房は消えていて、全身にはじっとりと汗をかいていた。重たい頭を左右に振って机を眺めると、テーブルの上に置いていた麦茶のグラスの結露がノートを湿らせていた。

「やべ……でもまだねみぃ……」

ぐらぐらする頭をもう一度振って冷房をつけようとした、その時だった。


ピンポーン、とチャイムが鳴る。

この時間なら美玲か、と思った隙間に、いつものように怒涛のチャイムならしが始まる。ピポピッポ、という音にイライラしながら鍵を開け、「うるせーな、近所迷惑だろ」と言おうとしてハッと思い出す。


「今美玲はーー」

上から見下ろす人物は、強い夕日の光に照らされて逆光になっていたにも関わらず誰なのかがわかった。

ややつり気味の猫のような瞳は照之に受け継がれ、スラリとしたスタイルに長身の彼女。肩の出た白いワンピースを着て、ピンクゴールドに染められている髪は緩く巻かれて柔らかな雰囲気を纏っていた。その雰囲気をぶち壊すかのように向けられている視線はひどく冷たく、そして恐ろしかった。


「お、おか……お母、さん?」

「そうそう、ひっさしぶりね!元気だった?」


赤いルージュの引かれた唇がゆっくりと弧を描き、そして長いネイルの先がまるで獲物を狙うかのように鋭く、黒く塗られていることに気づいた瞬間には、もう外の鮮烈な夕日の光は消えていた。カチャン、と鍵が閉まる音が聞こえる。

「ッ、は、ァッ、な、なんで、ここにィッ!?」

「苦労したのよ?あんたを探すのにどれだけ時間がかかったか。もう散々よ」

肩に食い込むネイルの先が痛みを伝える。真純の平手打ちが今ならどれだけ手加減されたものかがわかるほどに、その手には遠慮がなかった。その手つきはどこか美玲に似ていて、こういうところが苦手だったんだ、と今更ながら苦手な原因を自覚する。どん、と突き飛ばされると軽々と体は台所まですっ飛んでいった。衝撃に音を立てて棚に上げて乾かしていた茶碗などが落ち、がしゃん、と派手な音を立てる。

「……ぅグッ」


背中がギシギシと痛むが、やはり悲鳴が上げられないのを見て彼女の唇がにぃぃ、と弧を描く。

ああ、これでまた、俺は逃げられないのか、と考えながら床から母親の顔を見上げ、静かな絶望が心を覆い尽くしていく。

「とりあえず、暑い中歩いてきた母親に何か出しなさいよ。気の利かない、愚図が」

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