妹たち②
日置 玲司。彼には日置 玲一郎という父親がいた。彼は油彩画の巨匠と呼ばれており、その作品は世に生み出される度に数百万、時には数千万の値がつくほどにファンが多くいた。瑞々しさを伴った筆致は幻想的でありつつもどこか達観した雰囲気をもまとっており、年を取った彼からまるで生み出されてはいないようではあったものの、十数年それが続けられていた。
そして、日置玲一郎にいた息子はいつの間にか、その妻である真知子と一緒に姿を消していた。
同じ頃から日置玲一郎の絵は売れ始める。
全く別人が描いたような、全く別人の感性を持った絵。
以前の絵とは違いすぎるーーそんな疑いを持った者さえいたが、制作過程では全く家から出てくることはなかった。別の家から何かを運び込む様子もなく、絵が出来上がればすぐにそれは公表されたため、彼が描いているとしか思われなかった。
しかし、そこで重要なのが消えた妻子のことだった。有名になればいつか消えた妻子もまた現れるでしょうーーというその記者の言葉に、玲一郎は静かに目を閉じて、そしてゆっくりと口を開いた。
『私の妻は、誇りを持って私と別れたのです。二度と戻ってくることはありませんし、また私に金の無心をするなどあり得ないでしょう』
その言葉は、とある但書がつく。
そう、たとえばーー妻が彼の手によって死んだのでなければ。
日置玲司は、部屋の隅にいる薄布を掛けられたミイラに向かって、淡い光の中濁った瞳を向けていた。
「……」
綺麗な花嫁衣装を着せられて、花飾りのついたヴェールをかけているのに乾燥しきって固まった『それ』はぽっかりと空いた眼窩を玲司へと向ける。ミイラがかびたりしないように空調は乾燥していた。カサカサとした空気が充満した中、水とビタミン剤、そして食事。
食事に関しては十分に与えられていた、少なくとも玲司が十分に成長できるだけのものだ。しかしながら必要のない、たとえばおもちゃなどは全く与えられることがなかったし、コンクリートで四方を覆われた地下室の中では唯一の色彩は絵の具だけだった。
たまに扉が開いて投げ入れられる写真と共に、声がかけられる。
「1週間後だ」
「はい」
1週間後には、写真と同じような、それでいてそれよりも感動を与えるような絵が出来上がっていなければならない。
それができなければ食事は無い。一度、一晩放置されたことがある。水さえもらえないまま。
空気は乾燥していて、喉がすぐに乾く。玲司の体はすぐに水を求めたが、「絵が先だ」と冷たい声が帰ってきた。泣くことすら水が惜しかった。
食事もその時は五日ほど抜かれたーー一日目は水さえもらえなかった。
次の日からは水だけをもらえたが、量はおおよそ1日に取るくらいの水だけ。お腹を膨らませるために好きなだけ飲めるものではなかった。そして五日経つ頃には、空腹で胃をかきむしられるような鋭い腹痛に襲われながらうめいていた。
「懲りたか?絵はしっかり描け」
「……う……」
切れ切れになった意識の中、流し込まれる栄養ゼリーを嚥下して、喉がひりつくような気がした。ただただ生きるための行為、それまで幸せだった家庭を自分が壊したのだという責任が玲司にはのしかかっていた。
玲司が絵を初めて描いた時、それは明らかになってしまった。
生まれついての天才というものが、世界にはいるのだと。
そして、不運なことにーー玲一郎は才能がない側、そしてその息子である玲司が才能がある側だった。
あまりに危険の大きく、そしてあまりに荒唐無稽な計画を妻である真知子に話した時、息子の将来のためだと言い聞かせながら根底にある玲一郎の虚栄心に気づいていた。そして逃亡を図ったところを玲一郎に殴り殺された。
そして息子である玲司はその様子に救急車を呼ぼうとしたが、玲一郎はそれを許さずに地下室へと放り込んだ。
アトリエであるそこには最低限、用を足せる場所があるだけ。たまにお湯で体を拭くことを許されていたが、それ以外にはただ生活に必要なものを寄越されるだけだった。
「……」
自由に絵を描くことは認められていなかった。ただただすることがない退屈と、異常な生活が玲司を蝕む中、転機が一つ訪れた。
ある日あまりに不機嫌な顔をしたままの玲一郎は一つのデバイスを投げ込んだ。
「勉強しろ」
「……?」
「絵の勉強をしろ。何一つ進歩のない絵だと言われたぞ、どうなってるんだ!ふざけるな」
足で扉を閉める音が響くと、玲一郎が残したデバイスを拾い上げる。そこからは、もうもはや未知の存在であるそのタブレットに夢中だった。中に入っているのがただの書籍だったとしても、あまりに魅力的な色の数々。そして言葉を習うこともこの書籍の僅かにある文字から進めていった。
そして彼の興味を引いたのが、もう一つ。グラフィックデザインと隣り合っていたために誤って購入したプログラミング入門だった。日本語がある意味不自由な彼にとって、それはある意味もう一つの言語だった。ややもしないうちに彼の脳内は二重の言語で構成されていく。
本の中にある絵の評価の言葉は、だいぶ前に止まってしまった彼の頭では理解できなかった。けれど、その種類の多さに自らの世界の狭さを悟っていった。
そしてそこから絵の雰囲気は一段と鬱屈さを増すような、それでいて自由を求めるような破壊的な雰囲気をも纏うようになり、そしてついに外に出ることを諦めた段階から外はただの幻、そして決して自らが手を触れることなんてできないものであると解した瞬間から諦観めいた雰囲気を醸し出すようになった。
体は成長しているのに、その心の成長は全く歪なまま、母親のミイラと共に過ごす時間は彼の心を壊して、最後にはパレットナイフを自らの左腕に振り下ろしたところで彼の意識は失われた。
目が覚めた時には、すでにとある部屋で点滴が繋げられ、生存のために体をいささか改造された後だった。
「やあ、おはよう。気分はどうかね、玲司くん」
「ッ!?」
がしゃん、という金属音を響かせながら部屋の暗い部分へと走っていく。途中で点滴が引っこ抜け、腕に鈍い痛みが走ったが構わなかった。低い声を出す背の高い男ーー父親と同じ、それが目の前で、今、知らない場所にーーここはどこだ?
「すまない、驚かせたようだね。しかし、しばらくここにいさせてくれたまえ。君は死にかけていたことを覚えているか?」
「……」
「うん、言葉はやや通じにくいようだが……君の父親、玲一郎についての話をしよう。彼は一日前に死んだよ」
「し……んだ?」
仮面をつけたままの青年が、真っ黒な軍服姿で目の前にいた。彼は椅子に腰掛けて口には笑みを浮かべている。笑っている人間を見たのは久しぶりだったーー実際、その姿はあまりに父親とかけ離れていて、腕から流れ出す赤い血液すら気にかからないほどに不可思議だった。
「ああ、交通事故だ。とは言え君の父親が酔っ払って当たりに行ったようなものだが」
「こうつ……?」
「そしてその父親の絶筆を欲しがった資産家がいた。彼は絵があれば回収してきてほしい、そうでなければ彼が遺した家を買い取れるようにと偽造した遺書を金庫かどこかに入れてきてくれ、と。そうして家に侵入したところで見つけたのが君だ」
「ーーたすけてくれたって、こと?」
しかし脳裏によぎったのは、また絵を描け、と閉じ込められる状況だけだった。つたない日本語で絵を描きたくない、と口にしようとしたが、その言葉を吐き出す前にブレーキがかかってしまう。痛みが、渇きが、飢えが、彼の全てを押し止めていた。
「そういうことだ。しかしいささか命に危険があった状態でね、多少改造させてもらったよ。とはいえ身体能力としては微妙だが……」
「あの、あ……」
「まだ目覚めたばかりだろう、なにか食べてゆっくり休むといい。ああ、暇だろうからこれも」
「……これ、は」
見覚えのあるタブレットに目を瞬かせる。しかし、開いてみれば驚くことに、その全てが見たこともないアプリで埋め尽くされている。
「あんな味気ないものでは暇さえ潰せないと思ってね、用意させてもらった。ちなみに何か、食べたいものはあるかね?」
「たべ、たい……もの?」
頭の中にぽっと浮かび上がったのは、ずっと昔ーーまだ両親が仲良く過ごしていた頃に、母親が作ってくれたオムライスだった。中がケチャップ味のチキンライスで、上にケチャップがかけられている、そんなスタンダートなもの。
「あの、ケチャップの、オムライス……」
「わかった、用意させてもらうよ。ゆっくり休みなさい」
額にそっと落とされた唇に、ミイラの面影に隠れた母親を思い出す。サラリと撫でられた髪に父親の昔の大きな手を思い出した。握り潰されるような、暗い思い出。
部屋を出ようとした瞬間に、「ま、待って!!」と声が出た。
「い、いか、行かないで……ひとりに、しないで……」
俯いた顔に、朱が走る。こんなことを言って、殴られるかもしれない。それでもーーもう置いていかれるのは、懲り懲りだ。軍靴の音が近づいてくる。
「ーーまだここにいて欲しいのか。なら、時間を気にせず甘えるといいーー明日までなら、私はここにいるからね」
喉が掠れたような音を出した。目の前の男を見上げると、彼は変わらず口に緩い笑みをたたえたまま、そこに佇んでいた。
「オムライスの件はもう少し先になってしまうかもしれないが、構わないかね?」
こくん、と頷いた。何度も、何度も。もはや食べるものなどどうでもよかった。ここにいてくれる、とそう言ってくれただけで。
たった一人の牢獄から、日置 玲司が救われた瞬間だった。
「ーーあ、着きましたよ日置さん」
「ふぁッ!?あ、……はい……」
目が覚めた瞬間に、勢いよく聞き覚えのない声が聞こえてビクッと震える。
「あははー、んな緊張せんでくださいよ。んじゃあ、お疲れ様でした」
家の直前で降ろされ、鍵をポケットから取り出す。扉を開けると、鍵を閉める。ロックを閉め終えると、彼はふう、と息を吐いた。
「素顔、よかったな……めっちゃかっこいい……俺みたいな垂れ目じゃないし、なんか服オシャレだったな……」
ラグナロクの総帥ロキである、水上ハジメ。その妹の問題はわかったとしても、彼がいついかなる時でもそんな問題に悩まされないようにするのが日置にとっての最上の仕事というべきだ。
「ーーん、まず、どうしようか」
伊集院 光瑠。
彼女に関しては、向こうから接触してくるとは言い難いだろうから調べていなかったが……最近伊集院グループにもやや動きがあり、傍系の動きが騒がしくなってきているのだ。これは最近提携を始めたことによるものだと判断して無視していたのだが、もしこれが光瑠の出生に関わる、つまり、彼らがDNA検査を伊集院光瑠に対して行っていればーー光瑠自身が真実に気づくのも遅かれ早かれ時間の問題だ。
いや、もしかして既に気づいてはいるのかーー?
「中学一年の時点では彼女は取材や注目されることを嫌っていた傾向があるのに、急におかしくない?なんかさ」
わざと人目につこうとしている、つまり彼女自身の対外的な価値を上げようとしているのかもしれない。ということは、と日置はパソコンに手をかける。
長い間付き合ってきた相棒は、暗い中でぼんやりと光りながら情報の道を照らしていく。
「伊集院グループ内部のネットワーク、そこにアクセスしてみよっかな」
もし何か検査が行われていたのであれば、彼女自身はおそらく伊集院グループを継ぐためにと今精一杯周囲に働きかけているはずだ。PCでプログラムを立ち上げ、働かせることによってセキュリティを突破するが、光瑠に関しての情報の抽出がやや面倒だ。実名を出して喋っている人が少ないため、抽出材料がやや難しい。
「ーーんんんん、難しい……」
『本家の小娘』が一番合致することに気付いてからは早かった。やはり、光瑠は自らの出生の秘密に気付いていると考えて間違い無いだろう。さらに光瑠の動きについて詳細に調べ始める。ふと目に留まった一つの文章に目をやった。
「東京行きの、新幹線チケット?学割申請……何のためだ?もしかして、」
彼の脳裏に嫌な予感が走った。
出てくれーーと淡い望みを抱えて、ハジメへと電話をかける。2、3コールもしないうちに繋がった。別れてから一時間半、まだ帰ってはないだろうと思いながらジリジリと嫌な気持ちを抱えたままに「もしもし」と叫ぶ。
『もしもし?どうした日置、そんなに慌ててーー』
「そちらに、伊集院光瑠が向かっているかもしれません。気をつけてください」
動揺したようなハジメの声が、電話口の近くから。そしてーー女性の、声が奥からする。
『ああ、もしもし日置ーー?』
手遅れだ。
その言葉に、日置は床にくずおれた。




