ヴェローナ②
九条シエラの実家である九条建設は、元々そんなに大きい会社ではなかった。祖父は早世し、色々とシエラの父親である建臣が奔走したおかげである程度成長したものの、地力としてはそこまで強いわけではなかった。コネも不足していたそんな時、外資系の社長令嬢であるソフィアに一目惚れしたことがきっかけでその会社との提携を行い、様々な取引先が増え、それなりに大きな会社へと成長した。
社長令嬢とはいえ、三男二女であるソフィアにとってはちょうど良かったとも言える。そしてシエラが生まれ、シエラ自身は様々なパーティーに出席するなども多くあった。しかし彼女自身は会社を継ぐとかそういう意識がまるでなく、そもそも自身の容姿について言われることについてうんざりしていたし、シエラの年の離れた弟が生まれたこともあってあまり干渉されることも無くなってきていた。
そしてある時に両親に頼まれて出席したパーティーで出会った諸菱グループの御曹司である諸菱 大翔に言い寄られたことで事態が一変した。
「……先日のヒルトップビルディング、その建設現場において一部不正があったことをご存知ですか?今後の建物検査において我が社の手を借りた方が良いと、私は思いますがねぇ?」
ねっとりとした語尾の調子に苛立ちながら、隣の父親の顔色を見ればなぜ知っているのかと言わんばかりに目を見開き、そして動揺している。馬鹿な父親だ、と思いながら正面の男の顔を見る。
「ヒルトップビルディングの入札も、かなり無理をしたようじゃあないですか?ふふ」
悪くない顔立ちをしている。
性根は最悪だ。
ああ、反吐が出そうだ。私を縛り付けようとするこの男も、馬鹿なこの父親も。母親は何ひとつ知らないだろうし、内輪で色々と話をしていただけのつもり、だったのだろう。
こいつに縛り付けられて、一生を終える。そんな想像するだけで胸糞が悪い。あの建物さえなければーーと思ってしまうが、もうすでに後のまつりだ。
自暴自棄になっているところへ現れたのが、やけに態度のでかい中学生だった。色々と的確に見抜くあたりきっと苦労した人生だったのだろうな、と思っていた。
そんなことを思いながら校門から出ていくと、そこに待ち構えている男がいる。
「九条シエラ様、お迎えにあがりました」
「……」
ピシッとしたスーツの男。不審者という感じが全くない、できる社員の見本のような男についていくと、黒塗りの高級車の中から待っていたよ、というねっとりした声が聞こえてきて嫌な気分になる。
「何か御用件ですか?」
「ふふ、良いじゃないか。婚約者に会いにきてはいけないのかね?んん?」
髪を持ち上げられ、キザな男を装っているのかその束に口付ける。気色の悪い男だと思いながら耐えていると、その体がグッと近づいてきて、口にぬめりとしたものが触れた。
「んゔッ……!?」
ふすふすという鼻息が顔に当たるのが気色悪い。唇の周りをベロベロと這いずるなめくじのような舌が気持ち悪い。興奮を抑えられずにのしかかってくる体の重さが気持ち悪い。
強い吐き気がした。
どん、と気付けば彼を突き飛ばし、まだ動いていなかったのを幸いなことに車から飛び出て嘔吐した。胃の内容物が全て流れ出るような気さえしたのに、嫌悪感は一切消えてはくれなかった。唇から滴り落ちる唾液すら、今は汚くて悍ましいものだと感じられて涙がじんわりと浮かんできた。
「……具合でも悪いのかい?かわいそうにねぇ、家まで送って差し上げよう」
気持ち悪いのはお前だ。
その言葉を飲み込んで、「すみません」と口にした。都合の良い時に体調が悪くなってくれて助かった、と思っていたけれど、実際に風邪をひいていたらしく数日間そこから体調が悪くなり、寝込んでいた。そして目覚めた時、なぜか頭はスッキリしていた。そして不思議と浮かんだ想像にこれはいける、と思い、家からいくつかの機器を持ち出した。
「木崎先生はちょっと用事で外してますから」
体調が悪いと言って保健室に行こうとすると、それを知っていた一人の先生が耳打ちしてきて鍵を渡してくれた。先生は不在です、の文字を掲げてそこでようやく気づく。
人がいる。寝ているようだった。
毛穴から汗が噴き出すような感覚を覚える。
カーテンの隙間からこっそりと姿を確認して、そして男子であることを確認すると、行き当たりばったりでしかない計画に全能感を覚え、震えた手でカメラをセットすると録画を開始した。そして勢いよくカーテンを開けた。
まさかそこで相手が人間ではない何か(本人はそう言い張っているが)にかち合うと思っていなかったし、まさか助けてもらえるとも思っていなかったが。
しかし、現段階でその悪の組織ラグナロクとやらの構成員に関してはたったの四人だと言う。
「四人で何かできるくらい甘いやつでもないわよ?それにうちの建物がどうこうならない限りは……」
「何か勘違いしてるようだが、別にまだ人は入っていないだけならやりようはいくらでもあるとも」
ヒルトップビルディングに関して言えば、あれはほとんど諸菱グループとは無関係の企業の建築でもあるため、手出しをしたところで他の人間からは九条とのつながりがわかりにくい。しかしその会社の社長である三田 央樹は多方面で恨まれているーー特に社員に。ゆえにそこへ手を出しても恨まれにくい、と踏んでのことだろうが、とシエラは息を吐く。
「まさか中学生のこんな妄想みたいな計画に手を貸すことになるなんて……」
「おや、妄想は嫌いか?」
「叶うものであればね。私は……そうね、できたらあんな建物爆破しちゃいたい気分よ」
「ほう、それはなかなか良さそうだ。案はそれで行くとしようか」
「ええ……?ど、どういうこと?」
返事の代わりに帰ってきたのは、不敵な微笑みだった。
三田は実に小心者である。
部下は忠誠心を自分に持っているのか、裏切られまいか、色々あれこれと悩んで悩んで悩み抜いて、結局踏みつけても逆らわなかった人間をそばに置くことでしか安心できない。何度かその行為を繰り返してそっと胸を撫で下ろす。自宅に帰るのは寝るためだ。妻にも子供にも逃げられたのなら、自分に残されているのは仕事だけだからだ。ぼんやりとしながらソファーへと倒れ込み、肉の乗った腹に手をおいて布団にくるまる、そうするだけのはずだった。
壁一面に赤い文字で描かれた落書きさえなければ。
『お前の全てを奪うことにした。 悪の組織ラグナロクより』
初めに浮かんだのは恐怖だった。震えながら携帯を手に取るが、ロックがうまく解除されない。ううう、と唸り声を上げながら110、という簡単な番号を何度も打ち間違え、そして繋がるやいなや言いたいことがどっと溢れ出す。
「へ、部屋に!侵入だ、た、助けろ!!真っ赤な文字で、わしの全てを!!」
『お、落ち着いてください。まずはーー』
ひとしきり説明を終えると徐々に頭の中を冷静さが占めてきた。全てを奪う、というよりもまず、悪の組織ラグナロクとはなんだ、聞いたこともない、いたずらにしては悪質が過ぎるが警官も応対してくれないのではないか、という不安も生まれてくる。加えて自身が持っていた隠し金庫の存在も原因だっただろう。三田は動揺からベッド近くにあったものをひっくり返し、警官が到着すると、部屋の状況から悪質ないたずらにしては、と警官が動くことになった。
「い、一体なんでわしが、狙われなければならんのだ……!!大体悪の組織とはなんだ、魔法少女もいるなぞ、正気ではないわ!!」
「落ち着いてください。ひとまず、指紋を採取しますので……」
しかし、その部屋にかつて住んでいた妻と子供のもの、そして本人のものしか指紋は現れなかった。当たり前であるが、水上 創ーーロキが侵入して体を再構成するとき、指紋を三田のものに合わせていただけだからだ。無論すでに正常な生命の代謝を失ったロキにとって、毛髪がうっかり抜け落ちたなどのこともなくDNAが検出されることもなかった。
面白いことに人は恐怖を感じた後は怒りを覚えるらしい。
全てを奪う、と言われた挙句されるがままになるなんて、と即時にあちこちの会社に人を派遣し、人員を増加させた。もちろんそれには新しく建設された一台事業の根幹であるヒルトップビルディングも含まれていたのだが、建物内部の建設が完全に終わっていないことなどから周囲に警備員を配置する、ということしかできなかった。というより、そういう指示を父親にさせたのがシエラであった。
「悪いようにはさせないから」という娘の言葉を信じただけであるが、シエラ自身は家のことを見限り始めていた。多少の便宜は図ってもいいけれど、だからと言って親孝行のようなことをするつもりもない。
「もしもし、指示出してくれたみたい。ヒルトップビルディングの内部には人はいないし、爆弾も仕掛け終わってるわ。しかしどうやって用意したの?この馬鹿みたいにでかい建物を綺麗に爆破してくれるような爆弾なんて……」
『うちの研究者は優秀なんだよ、建物の構造自体はお前のほうが詳しいんだろう?指示通りに爆弾は全て設置した』
幼い頃父親に習っていた建築図面の読み方がここまで役に立つとはと思いながら、じゃあ始めるわよ、と震える手で彼女は通話を切ってヒルトップビルディングの見えるレストランまで来ていた。
「体調はもういいのかな?シエラ」
「ええーーおかげさまで。お礼を言うのをすっかり忘れていたわね、ごめんなさい」
挑戦的に笑うと、目の前にいる男はすっかりと相好を崩して応対する。自分に好意を抱いてくれているのだ、と勘違いする。馬鹿にも程がある。
「お腹、すいちゃったわ」
「昨日は学校から出てくるのが遅かったようだが……?」
「ああ、それね。保健室にいた生徒の相談に乗ってたのよ。水上創って子なんだけど、目の前で親しくしていた隣人の自殺を見てしまって、カウンセリングに通っているんですって」
「そ、そうか。いや、疑ってしまって悪かったよ」
「いいえ、問題ないわ」
その回答に関しても、保健室から出てきたはずのない水上とシエラが日が暮れてから出てきたという話を協力的な教員や調査員から聞いているため、特に問題はなかった。外部との接触に関しても、交友関係とたどっても、おかしな動きをしている様子すら見られない。
「……それよりも楽しい話をしようか。君が仕事を辞めた後だが我が社において秘書として働くのはどうだろうと思ってなーー」
料理が運ばれてくる中、シエラはただただ外の変化を待っていた。勝手な妄想をべらべらと喋り続ける目の前の男を見ながら、ひたすらワインを飲む。酒に強い体質であろうとなかろうと、今は全く酒が効く気がしなかった。
目の前の男の顔が、恥辱に歪む顔が見たくて見たくて仕方がない。
上機嫌にワインを飲むシエラに少し怪訝そうな顔をした諸菱だが、その表情のにこやかさが変わらないのを見て口も軽く、会話は一見楽しそうに弾んでいた。
ポケットの中の携帯電話が、軽く震えた。来た、とシエラは目を瞑る。
「落ち着いて聞いてほしんだけれど……」
ヒルトップビルディングの屋上に一つの人影が現れる。闇に紛れるような漆黒の軍服を着た仮面の男が笑みを浮かべたまま、屋上の端へと歩いていった。元々Rというマークが描かれた緊急用のヘリポートのため、フェンスも設置されていない。くらくらするような高度から地面を見下ろして、彼は懐から一つの機械を取り出した。
「さてーーショータイムといこうじゃないか」
手元にある起爆装置のボタンを、一息にかちりーーと押し込んだ。




