遭遇事件①
酔っ払ったシギュンを家に連れて帰るまで、かなりの時間を要したーーと言ってもその大部分を運転手を見つけることに費やしたのだが。
ちなみにユミールだが、研究だの手術だのを除けば極めて不器用であるため、彼女は事故ってもいいならと言ってくれたが丁重にお断りした。
というわけで、俺は今桜木の付き人である三奈木に桜木と共に送迎してもらっている。彼女は桜木に仕えているため、間接的に俺に丁寧に接してくれてはいるが、あまりいい感情を持ってはいないと思っていた。どことなくそっけない、感情を押し殺すような瞳。彼女は機械的に礼をして、それから去っていった。
最寄り駅までで構わないと言って、すでに着替えたシギュンと共に家までの道を歩いていく。ゆらゆらとした足取りは歩みこそ遅いが、俺が抱えて運んでいくよりは目立つまい。歩いて8分程度でようやっと家に到着し、エレベーターに乗り込む。すでに時刻は9時を回っていて、夕飯を買ってくればよかったか、と思いつつ家に入った。シャワーを浴びるよう言おうとしたが、すでにソファーに倒れ込むようにして眠りについてしまった。仕方がないか、と冷蔵庫から作り置きのおかずを取り出し、むしゃむしゃと食べる。起きてすぐ水を飲むよう、その後は軽くシャワーでも浴びるように指示した紙を机に置いて、眠ったシギュンに俺の部屋にあったタオルケットをかけてやる。もうゴールデンウィークに差し掛かり、暑さもある。服も着込んでいるしこれで十分なはずだ。
「俺も風呂入って寝るか……」
ひとまず明日は休みだ。シギュンも飲まされてはいたが、いつもの時間に起きそうだな、と思いながら意識はだんだんと遠のいていった。
翌朝になってふっと意識が浮上する。昨日はやや気疲れしたため眠りが深かったが、目覚めた時間は少し早い。シャワーの音が遠くからする。ああ、指示通りにしているのか、と思いながら俺は体を起こして伸びをした。カーテンを開くと遠くから鳥の声が聞こえる。なんというか……平和だ。
今日の予定は、と思いながら台所に立つと、朝食の準備を始める。しじみの味噌汁とまでは行かないが、薄めの味付けの味噌汁にご飯、そして白菜のおひたし、漬物。タンパク質が足りないと感じたので卵焼きは作ってあるが、おそらくシギュンは受け付けないだろうし、量は少なめにしている。
配膳を始めたあたりで少し湿り気のある髪のまま、シギュンが上がってきた。パジャマは俺のところに置いていったIラインのワンピースであるが、袖や足元はしっかりと覆われている。手入れが大変そうな髪だが、いつ見てもとても艶やかだ。特には手入れしている様子もないのだが、もしかしてその部分も改造として入れられているのだろうか?
ふと、玄関のチャイムが鳴った。それなりに朝早いのだが、と思っていると、もう一度鳴らされる。インターホンを表示しようとしたが手が開かない。いや、待てよ?と俺は少し首を捻った。どうせこんな朝っぱらから訪ねてくるなんて、一人しかいないだろう。見るまでもない。
「シギュン、多分ナルヴィだ。開けてやってくれ」
「はい、すぐに」
ピポポポポポポ、と連打されるチャイムにちょっとイラッとしながら料理を盛り付ける。もう大声を張り上げると近所の人に声が届くかもしれないし、とりあえずサイガと呼び直すか、と気持ちを入れ替えると、ドタドタという大きな足音を立てながらサイガが部屋の中へと入ってきた。扉が乱暴に開け放たれ、そして響いたのはいつもと違う声だった。
「おっ、お兄ちゃん!?誰この人!?」
「………………ふぇ?」
「ふぇ?じゃない!」
なんでこんなところに、という言葉が頭の中を駆け巡り、いやその前に帰ってくるなんてこと聞いてないし、という言葉が突き抜けていく。そして最終的に俺の口から出てきた言葉はこれだった。
「……大きくなったなあ……美玲」
妹の、水上 美玲。長く綺麗なストレートの茶髪をツインテールにし、俺や両親とはやや顔の系統の異なるぱっちりとした二重、透明感のある肌に丸みのあるほっぺた。そう、いわゆる可愛らしい顔、ロリ系統の顔立ちである。身長もややサイガより低いくらいだ。しかし、胸はどこからいったい遺伝したのか、しっかりと女子も羨むほどの丸い膨らみがある。母親はストンペタンなんだが。
シギュンは無表情のまま、両手をあげたり、下げたりしているが、悪いわけがない。むしろ開けて正解だった、と手を軽く振ると安心したようでこくりと一つ頷く。
「話を聞きなさいよ、このあほ兄貴!いつまでもぽやんとしてるとこは変わんないんだから!このデカい女は誰かって、聞いてんのよ!」
「あー……」
シギュンはその身をこわばらせ、少しでも小さく見えるように体を縮めているが、正直デカさは変わらない。俺は一瞬のうちに考えを巡らせて、それからいい答えを思いついたとばかりに笑顔になった。
「彼女」
「……へ?か、彼女?お、お兄ちゃんの……?」
「うん」
シギュンの表情は変わらなかったが、内心ひどく動揺しているのが手に取ってわかる。微妙な違いだが、相当混乱しているに違いない。しかし、咄嗟に思いついたにしてはなかなかいい案だと思うんだが。
恋人同士で出かけても特に問題はないし、加えて家に連れ込んで作戦の概要を話し合ったりしてもいい。
「ふ、ふしだら!」
「あのなあ……一人暮らししてる高校生が、彼女も家に連れ込まない健全なお付き合いしてるだけって方が母さんも心配するからな?」
「だからって……」
言い募る美玲に、俺はご飯をよそった茶碗を差し出した。
「とりあえず、食ってからにしろ。今日は日曜日だからな、なんで急にここに来たのかもあわせて、色々と聞きたいからな」
「う、そうね……」
彼女は不服そうに情報を整理するべく、一旦は玄関に置いてきた荷物を運び込んできた。ピンク色のスーツケースにはどうやら二、三日分の衣服や洗顔、そのほか諸々のものが入れられている。急にどうして、と思わなくもないが、妹の様子がおかしかったのはこのせいだったようだ。
「それで?何をしでかしてきたんだ?」
「う゛、お兄ちゃんもお母さんみたいなこと言う……」
「責めたりはしないから、安心して喋んな」
俺は妹が確か使っていたカップにコーヒーを淹れ、牛乳を入れてテーブルに出す。それを一口飲んで顔をぎゅっと顰められ、「砂糖」と言われて角砂糖の入ったツボを出す。
「すまんな。流石に中学生も卒業したし、砂糖なしでもいけるかと思って」
「お砂糖なしだと苦いもん。でね、何があったかだけど……同じ学年のお金持ちの女の子を叩いちゃって、転校ってことになっちゃった。その子酷いんだよ!?私の友達にネチネチした嫌がらせをして、無視とか、仲間はずれとか!ありえないと思わない!?」
「……そうだね、酷いと思う。美玲はよくやったと思うよ」
ぐりぐりと手のひらでこねるように頭を撫でると、彼女はエヘヘ、と相好を崩した。
「そうよ!誓ってどこに背を向けるような恥じ入ることはしてないんだから!」
俺はニコニコと張り付けた笑みを浮かべたまま、彼女の頭を撫でていた手をそこから引き上げる。ああ、なんて純真で馬鹿で正義感の強い人間なんだろうか。自分のやっていることが偽善かどうか、きっちり判断することなく自らの目、自らの見方だけを信じて突き進む、愛すべき馬鹿。
「あの、ハジメ……」
「ああ、そうだったそうだった。いやあ、紹介しようとは思ってたんだけど、彼女の症状が落ち着いてから、と思ってさ。彼女の名前は九重 シオン。シオンって呼んでやってくれ」
「しょう……じょう?」
「ああ、そうだ。少しデリケートな話になるから、できればシオンから無理やり聞くのはやめてやってほしいんだ、心に関する問題でね」
「そ、そうなんだ。お兄ちゃん優しいもんね……ねえ、シオンさんはお兄ちゃんのこと、好き?」
「お、お慕いしております……」
狼狽しながらそう答えたのはなかなか照れているようにも見えたらしい。美玲は満足したように頷いた。
「そっか。お兄ちゃんにも恋人が……しかもシオンさんのハートもいとめて、心の傷も癒そうとしてる……じゃあ、一つ聞いていい?なんで……今日シオンさんはお兄ちゃんの部屋に泊まったの?」
ぎろり、という視線が俺を射抜いた。まあそう来るよなーーそう思った俺だが、シギュン、いやシオンが口を開いた。
「美玲さん、と言いましたか?あなたが心配しているのはつまり、私とハジメさーーんが性交した可能性があるということでしょうか?」
「せッ……ま、まあそうね!」
「であれば、心配なさる必要はございません。さーーんに限ってはそのようなことは致しません。私は過去、義理の父親から性的な暴行を受けていました。全身が隠れるように覆っているのも、素肌を見る人の視線に耐えられないからです。ハジメさんは道に行き倒れていた私を見つけて保護してくださり、そして働く場所、勉強の場など、色々と情報をくださいました。私へ告白してくださった時も、嫌なら断ってもいい、という言葉をつけてくださいました。私からは何も言えることはこれ以上ございません」
告白された時とか聞いてないんだが?
シオンの何気ない嘘を頭に叩き込みつつ、俺はヘラヘラと笑みを浮かべた。
「そ……そんなの、酷いよ……私が決めた!シオンさん、ここに住んでいいからね!私のことは妹だと思って、今までシオンさんが不幸だった分、わたしたちで幸せにしてあげるから」
「ーーいえ、それに関してはお断りさせていただきます。一応住む場所も、職場もありますので」
「ぇあ、うわ……そ、そっか!」
キラキラした瞳で手を差し出した先がシオンだったのが運の尽きだろう。彼女は俺以外の頼みは大体断れる女だ。住んでいる場所はアジトの近くだし、常に俺の命令を伝達できるようアジトに控えているか、俺に張り付いているかだ。まあ断るとは思っていた。
「そういうわけだから、頻繁に会うと思うが……っていうか、お前がこっちにいるってことは父さんと母さんはどうするつもりなんだ?」
「あれ?言ってなかったっけ、今年一年はこっちの学校で生活するって」
「母さんからも聞いてないが?????」
「あーまあ、なっちゃったものは仕方がないし……そのね、お金持ちの女の子から睨まれたらしばらく私も暮らしづらいだろうし、土地での影響もすごいから、って。東京なら別に大丈夫かなって言われて……でも、私そんなの間違ってると思うの。だから一年したら戻って、彼女に言いたいなって思ってるの。その考え方、やめた方がいいよって」
けたたましく笑い出したくなるような戯言を述べながら話をしている妹は、早々に自分の部屋へと引っ込んでいった。俺はシオンと目を合わせ、そして俺の部屋へと入っていき、互いに顔を見合わせて小声で話し始めた。
「失敗だったな。やはり零部隊に家族の情報も追わせるべきだった」
「いえ……しかし、とっさの嘘とはいえ……あの、なぜ恋人に?複数人で泊まりに来て、最後に残ったのが私だけとか言い訳をすればよかったものを」
そうだな強いて言えばーーと首を傾げる。頻繁に泊まりに来ていて、サイガにも面通しが終わってて、学年も年もまるで違う人間だ。恋人同士でもない限り、事情をつけて二人きりになるには面倒になってしまうのだと軽く説明すると、彼女は動揺を収めたのか、こくこくと頷いてちんまりと部屋の隅に鎮座した。普段入らない部屋だからだろうか、俺はまあ座れ、といつもサイガの座っている座布団を適当に渡す。
「とりあえずサイガに連絡だ。今日家に妹が来ている、と」
「わかりました。総帥の端末をお借りします」
「ああ、いやーー万が一がある。ハジメと呼べ」
「ハジメさーーんとはお呼びいたしますが、先ほども慣れなくて……やはりハジメ様でも良いですか?」
「いや、できればハジメさんか、呼び捨てがいいんだが……無理っぽいな。無理ならしなくていい」
呼び捨てと言った瞬間に絶望的な表情をしたのはまあ、さすがというべきか。とにかくまずいことは一つ。これから妹はしばらくここに住むことになる。そうーー一番の問題として、時間がなくなるのだ。
「零部隊に通達しろ。まず妹の学校で何が起こったのか、そしてーーなぜこちらの学校に来る羽目になったのかを調べるように、と。この件について解決しない限り、妹の目を盗み盗みの活動しか行えない。以降の組織の活動に支障が出る」
「かしこまりました。理由を付記して通達いたします」
サイガの家に泊まるにしても、妹が訪問をためらうことなどあるはずがない。もともと美玲はサイガへやや強めの恋愛感情を抱いていて、彼には苦手に思われている。サイガのところにも今日、明日にはささっと話を通しに行くだろう。ああ、面倒だ。どうしてこんなことになってしまったのか。
「とりあえず、夕飯を作るとするよ。シオン、心配だろうが今日はもう帰れ。組織の方もやや心配なところがある、できればお前に見てきてほしい」
「かしこまりました。それでは失礼いたします」
「いやーー待て。これを口実にして、買い物がてらお前を送ってくると外出する。今日は確か零部隊の人間に一人、アポをもらっていた。集合場所をずらして話をしてくる」
「わかりました。本日はアジトには顔を出されないということでよろしいですか?」
「ああ。厄介な案件が出てきたり、妹のことで情報が上がってきた場合には早めによろしく頼む」
「わかりました。では、向かいましょう」
俺は妹に声をかけて、とりあえず夕飯の分の買い物と、シオンを送ってくるためしばらく外出することを告げてから家を出て行った。




