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過去――オムライス

 オレは黒葉のことが嫌いだ。だけど、最初からそうだったわけじゃない。たぶん黒葉も、オレのことを最初から嫌いだったわけじゃないと思う。

 人格が曖昧だったときがあるとはいえ、自分が後から生まれた人格というのはなんとなくわかっていたし、黒葉が大変な思いをして、その結果オレを生み出したこともわかっていた。だから、嫌いになんてなれなかった。黒葉の力になることをしよう。そんなことさえ思っていた。

 黒葉がまた学校に通えるように、黒葉が通いたくなるように。オレは黒葉の代わりに、たくさんのことをした。

 黒葉をいじめていた人とは関わっていないし、クラス替え前に先生に相談してからは、同じクラスになっていない。

 友達もたくさん作った。居心地がいいクラスになった。

 黒葉にたくさん、学校は楽しいってことを教えた。毎日学校であった出来事を手紙に記して、黒葉に興味を持ってもらえるように。

 もう黒葉を苦しめるような状況はないよ。だから、学校を怖がる必要はないよ。毎日楽しいよ。そう何度も伝えた。


 だから、黒葉が学校に行きたいって相談してくれた日は、すごくうれしかった。

 黒葉が学校に行けるようになったら、自分が友達と話すことはもうなくなるかもしれない。自分は消えるかもしれない。そうわかっていても、オレの目的は「黒葉を学校に行かせること」だったから、悲しいとか、辛いとか、そういう感情はなかった。

 ただただうれしかった。なのに。


 オレが作った環境は、黒葉に合わなかった。


〈学校の話はもう、書かないでほしい〉


 オレにとってこの黒葉の文章は、黒葉に、自分の全てを拒絶された気分だった。

 オレは学校にのみ生きる人格で、学校がすべてだから。

 そんなオレに、学校の話を書かないでほしい? それって、もうオレとは話したくないってことなの?


 普段ポジティブに生きてきたオレだけど、黒葉に対してだけは楽観的に考えられなかった。 


 それから一週間、なんて書けばいいかわからなくなって、毎日やり取りしていた手紙は途切れる。

 必要とされないなら、いっそ消えてしまいたい。そう思うほどに、オレはこれからどう生きて、黒葉とどう関わっていくべきなのか見失っていた。

 

 そんなオレの感情が黒葉に影響したのか、もしくは黒葉自身に何かあったのか、それはわからない。

 ――オレは、そのとき初めて家の中で目を覚ました。

 人格が曖昧だった時期の記憶が残っていたから、目が覚めたのが黒葉の家で、黒葉の部屋だというのはすぐにわかった。目の前には机の上に宿題が乗っていて、黒葉が寝落ちをしたときにオレに入れ替わったんだと思う。


「黒葉ーご飯だよー」


 部屋の外から、母さんの声が聞こえた。家に帰ったら自然と入れ替わっていたのもあって、あの頃のオレは意識を黒葉に戻すやり方なんてわからなかった。そういう理由で、オレはオレのまま母さんのところに向かった。

 今思えば、母さんに会ってみたい。そういう好奇心の方が大きかったかもしれない。


 リビングに向かうと、たちまちいい香りがした。学校の給食では嗅いだことがない香り。

 テーブルの上に置いてあるのは、オムライスだった。金色にさえ見えるようなキラキラとした卵に、鮮やかな赤いケチャップが乗っかっている。

 こんなに美味しそうなものを、黒葉の代わりに食べてもいいのだろうか。「今お腹空いてないから、後で食べる」……そう言って黒葉が戻ってくるのを待った方がいい。そう思わなかったわけではない。

 でも、心が崩れかけていたオレにとって、【母親の手料理】ほどあたたかいものはなかった。

 それに、このあたたかい手料理を食べずに冷ましてしまうのは、罪悪感があった。


「どうしたの?」

「……な、なんでもない」


 母さんには心配をかけたくなくて、黒葉はオレたちのことを言っていなかった。だから、オレはできるだけ短い言葉で返して、椅子に腰を下ろす。

 そのまま「いただきます」と言って、オレはオムライスを口に運んだ。


「……おいしい」


 思わず声を漏らしてしまうほど、そのオムライスはおいしかった。あつあつのご飯と甘くてとろとろの卵の味は、小さかったオレにとって感動を覚えるほどのおいしさで。

 みんなと食べる給食とはどこか違った、お腹だけでなく、心まで満たされていく感覚。


 そう。そのとき初めて、生きているって実感したんだ。


 自分は生きているんだって。こうやって、美味しいものを食べて、おいしいって感じて良いんだって。

 毎日友達と遊んでるのに、オレにはいままで生きているという実感がなかった。

 あくまで黒葉の副人格で、黒葉が生きていくために必要なものだから、オレは普通の人間のように生きるべき人格じゃないって。いつか消えるべきものなんだって。そう思ってた。小学生だった当時は、それを当然のように受け入れていた。

 だけど、今こうして自分の家で、母親の料理を食べて、おいしいって感じて「生きている」って実感した。

 オレは黒葉の副人格かもしれない。だけど、「夏咲」っていう一人の人間なんだ。そう、自分の存在を肯定することができた。

 本当に些細なことだと思う。当時のオレは本当に生きることに執着がなかったから、今よりもずっとネガティブだったんだなって。今のオレはそれを思い出すと笑ってしまう。


「どうしたの? 黒葉」


 母さんはオムライスを食べて感傷に浸っているオレを、「黒葉」と呼ぶ。

 いつか「夏咲」って名前の息子がいることを、知ってほしい。そんなことを思いながら、オレは「なんでもないよ」と答えた。

 だけど、それだけじゃ物足りなくなって、オレは黒葉なら絶対言えなそうなことを「ごちそうさま」の言葉のあとに付け加えた。


「母さんの作る料理、大好きだよ。母さんのこともオレ、大好き」


 大好きって二回も言ってやった。素直に言葉を発せない黒葉のことだから、母さんは相当驚いたと思う。その後無言で部屋に戻ったから、母さんがあのときどんな心境だったかはわからない。


〈今日のばんごはん、オムライスだったよ。すごくおいしかった!〉


 手紙の続きは、晩御飯のことを書いた。

 それから母さんの料理をオレが食べることは、高校生になるまで一度もなかった。

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