5
はぐらかされたんだろうなぁ。
男の同衾発言から数日が経ち、リタはそう考えるようになっていた。
だってこの人。
「めめめめ女神さま…!!!」
「いい加減慣れてください」
リタがシャワーを浴びた後の姿(勿論服はしっかり着ている)にさえ動揺するし。
「あっ、ごめん」
「っ!!」
狭いキッチンで2人並んで後片付けをしている時に指先が触れただけで赤面して飛び退くし。
「あの、名前で呼んでください本当に」
「そんな!!め、女神さま…」
未だにリタの事を名前で呼ばないし。
うん。そうだ。絶対にそう。
はぐらかされたに違いない。
リタは確信を強めた。
***
「ただいま」
いつもの通り、仕事から帰ってきて扉を開ける。
「おかえりなさいませ、女神さま」
お腹が鳴りそうになる夕飯の匂いと共に男がそう言って出迎えた。
その美しい微笑みに。
「た、ただいま」
頬が熱くなってしまうようになったのは、いつからだろう。
ぶっきらぼうに返事をしたリタに不機嫌になることもなく、男は食器を用意したりと夕飯の支度を始める。
その間にリタはシャワーを浴び着替えて、出てくると机の上には料理が運ばれ、もうほぼ食べるだけの状態にまで整えてある。
「私も偶には手伝うよ」
「女神さまにそのようなことさせません」
申し訳なくなってそう言うリタに男は頑なに断り続ける。
別にそれくらいやるけど、とリタは毎回思うのだがあまりにきっぱりと男が言うので、引き下がるしかなかった。
後片付けだけは強引にリタもやっている。お皿を洗う係と拭く係はそのときによって違う。
今日はリタが拭く係だった。
男が手際よく皿を洗い、水を軽く払って籠に置く。それをリタが乾いた布で拭き取って種類毎に重ねる。
必然的に男との距離は近くなる。男と並んでいると、ふと彼は自分よりも背が高いんだな、と今更に思った。
皿を洗う男をちらりと見上げてみる。
その整った容姿は本当に絵画から出てきたようで、あまりにも眩しい。
綺麗な人だな。
「めっ、女神さま???」
自分が見られていると気づいた男は、リタと目が合うなり赤面して狼狽えた。
いつかのように皿を落とさないか心配になったリタは男の手から皿を奪う。
「えっ、あ、」
男は自分の何も掴んでいない手と、リタに視線を往復させる。
リタは自分が見られていることに気付かないフリをしつつ、早く終わらせましょうと言った。
***
「そこはこうやってあて布を回して…」
「こうですか?」
「うん。そう」
男を雇って数日が経った。男は午前中はリタと診療所の手伝い、午後は夕飯の支度をしに帰宅するという予定でだいたい動いていた。
リタとしては三食作ってくれるのなら何でもよかったので、別にいつも診療所の手伝いまでしてくれなくてもと内心思っていたが、下手に踏み込んでまた刺激したくなくて、特に何も言わないことにした。
それに何より男は手先が器用で、診療所の手伝いをしてくれるのはとても助かった。リタが教えたことは初めてやった事でさえもリタより大体上手だった。包帯の巻き方や、軽い手当のしかた、掃除なんてものまで。
リタの教え方が特別上手いという訳ではないはずだ。それに特に声に出して教えていなくても男はうまく出来た。
「どうして?」
特に男に教えた訳でもない、患部にする包帯の巻き方をリタが手を離せない隙にやっていてくれて、不思議に思ったリタがそう尋ねた。
すると男はまるで普通のことのように言った。
「一度拝見させていただければ大体のことはできますので……」
「はい??」
なにそれ。
「それって祝福?」
そう聞き返すといいえと言われる。
いやいやいやいや。
どう考えてもおかしい。なにそれ。
唖然としたリタに声がかかった。
「リタ!!急患だ!!!準備をしてくれ!」
久しぶりに聞くベルーガの焦ったその声に、リタは慌てて頭を切り替える。
「了解です!」
パタパタと手術の準備を始めた彼女に何か手伝うことはありませんか、と男が言った。
「とりあえず、布とお湯の準備を」
「承知しました」
男と手分けして準備をして、支度が整ったことを別室で患者と待機していたベルーガに告げる。
ちらりと見えた患者はまだ幼い少女だった。
手術室の扉が閉まる。
中に入らなかったリタに男が不思議そうな目を向けた。
「……私は中には入らない」
言葉少なにそう教える。男は何も言わなかった。
患者が手術室に入ったらリタに出来ることは何も無い。
それでも落ち着かない気持ちを振り払って、軽い怪我の手当をしたり、包帯のストックを作って気をまぎらませていると、また手術室から大きな声が響いた。
「布持ってこい!!!あとナイフも!」
「っ!」
布。ナイフ。
どちらもここにある。
たまたま隣の部屋で備品整理をしていたリタは、部屋の中から言われた物を見つけて、ベルーガの元へ届けていた。
入らないと決めていた手術室に足を踏み入れてしまったことにも気付かずに。
長い長い手術が終わり、ベルーガが出てきたのは夕暮れ時になってからだった。男は夕飯の支度をしに家に帰っていた。
オレンジ色の光が差し込む廊下で、ベルーガは患者が亡くなったことをリタに告げた。
「………お疲れ様です」
リタは疲労困憊の様子のベルーガを労った。
辛うじてそれしか言えなかった。
「お前のせいじゃないからな」
ベルーガは青い顔をしているリタに強く言い聞かせる。強面のせいで傍から見たら恐喝でもしているかのようだが、幸いなことにここには彼と彼女しかいなかった。
「……」
黙り込んだリタにふっとため息を吐くと、ベルーガはリタに家に帰るように言った。
「…ただいま」
「おかえりなさいませ、女神さま」
扉を開けるとふわんといい匂いが香る。出迎えた男はいつも通りの輝くばかりの笑顔。
いつからこれが”いつも通り”になってしまったんだろう。
リタは冷えた思考でそう考えた。
男をぼんやりと見つめたまま扉の中に入ろうとしないリタに男が怪訝そうな目を向ける。
慌てて男から視線を逸らすと、リタは部屋に入った。
「………お口に合いませんでしたか?」
しょんぼりとした顔で男が言った。
いつものようにリタの手が料理に伸びていないことに気付いていたようだった。
「…違うよ。とってもおいしい」
取り繕った笑顔でそう告げても男の顔は晴れない。
目ざといのかなんなのか、とリタはため息を吐いた。それが男にはどう見えたのか分からなかったが、彼はびくりと震えると顔を伏せた。
「申し訳ありません女神さま。貴女様のご気分を…」
そう謝り出したのでリタは焦った。
「違うちがう。気にしないで…」
椅子から降りて頭を下げようとした男を止め、リタは迷っていたことを口に出した。
「今日午前中に運ばれてきた患者さんが、亡くなったの」
男がリタを見る。その瞳は鏡のように強ばった表情のリタを写していた。リタはそれを見たくなくて、男から視線を逸らした。
「人はいつか死ぬものでは?」
男はリタの行動を気に咎めた様子もなく、普段と何ら変わらない声で言った。
「っ、」
リタは思わず男に視線を戻す。
男はリタと目があうと、ぱっと顔を赤く染めた。
いつも通りのその反応に今は少し違和感を持った。
「………人が死ぬのは悲しいことだよ。もう二度と会えないんだから」
静かにリタがそう言うと、男は微笑んだ。
「女神さまはお優しいですね」
「……」
この人はきっと分かっているはずだ。知っているはずなのに。
生命は尊く、傷つくことがどんなに悲しく、死が痛いものなのかを。
「あなたは、私が怪我しそうになったら庇ってくれたよね」
いつだったか、リタに覆いかぶさって頭上から落ちてくるものから庇ってくれようとした。
「女神さまの役に立つことが自分のよろこびですから」
男は誇らしげにそう言った。
「あなたは優しい人だよ。私なんかと比べ物にならないくらい」
リタは笑った。
そう。男は優しい。リタを見るその暖かな柔らかい視線が何よりの証拠だ。
「だから、私と一緒にいちゃいけないんだよ」
これ以上、リタが男のいる日常を日常だと勘違いしないうちに。
「…」
そう言ったリタにいつもはすぐに何かを言う男にしては珍しく、少しの間口を噤んだ。
そしてリタを真っ直ぐと見て告げる。
「女神さま、私は貴女様にそのように言って頂けるほど価値のある存在ではありません」
視線を合わせたらいつも赤面していたのにその時ばかりは違って、珍しいこともあるものだと頭の隅でリタは思った。
「だから違うってば。価値が無いのはあなたじゃなくて、私。そもそも女神なんて呼ばれるようなものじゃないから」
「いいえ。貴女様は尊い存在です」
「…」
はあとため息を吐いた。
男はきっぱりと言う。そこには男の確固たる意思があった。
恐らくいくら言ってもいつまでも平行線で、この男はリタの言うことを分かってくれないだろう。
厄介だ。
男に対してその時初めてそう思った。
***
「では女神さま、私はこれで」
「うん。気をつけて」
「こんな石ころ如きの存在になんとお優しい!!!女神さまのためなら例え人攫いに襲われ腕一本になろうとも必ず帰宅して見せます!それよりも女神さまの御身の方が…はっ!私が分裂できれば女神さまのお傍に侍らせて戴きつつ、お食事の用意も出来るのでは…??いや、二人では足りない。他にも女神さまのお役に立てるかも……申し訳ありません女神さま。私に分裂の能力が無く、至らない下僕で」
「分裂できたら多分人間じゃないから」
思わず突っ込んでしまい、何か言いたげな男を強制的に外に送り出した。
リタと男のやり取りを見ていたベルーガが若干引いた様子で笑う。
「お前らよく飽きねぇな」
診療所の手伝いの後、夕飯の準備をしに男は午前中で大体帰宅する。大抵今日のようにとんちんかんなことを言う男にリタが突っ込み、最終的に強制的に外に放り出すのだ。
リタはうううと唸って机に突っ伏した。
何も言えない。
「あいつも凄いが毎回律儀に突っ込むお前も大概だぞ」
そう言ってベルーガが笑った気配がした。
リタは机に顔を伏せたまま言った。
「ベルーガさん…どうしたらいいんでしょうね……」
それはリタと長い付き合いであるベルーガでも聞いたことのない弱々しい声だった。
長い付き合いであると言っても、リタがこの街に来てからまだ3年ほどしか経っていない。
それでもベルーガとリタは二人っきりの職場で今までずっとやって来た。だからこそリタについては恐らくこの街で一番詳しいという自負がベルーガにはあった。
彼女は泣かない。
どんなに悲しいときでも。患者が亡くなった時でも。
顔を青ざめさせて唇を食いしばるのに、決して泣かない。そして目を背けることも無かった。
ずっとベルーガと一緒に他者の生命を彷徨うこの現場にいて、ベルーガと共に戦い続けた。
そのリタが今はこんなに弱々しい声を出していた。今にも泣き出しそうな声を。
「………どうした?」
それは慈愛に満ちたとても優しい声だった。リタはベルーガがこんな声を出せるなんてと驚くと共に、あの男とも違うと考えてしまう自分が嫌になった。
「……………………私、この街を出ていきます。
もう、一緒には住めない。離れたいんです」
誰と、とは言わなかった。それでもベルーガは理解してくれるとリタは分かっていたから。
「………………そうか」
突っ伏したままのリタの頭をくしゃくしゃとベルーガが撫でる。
それが痛いほど懐かしかった。
2人のやり取りを男が聞いていたことを、ベルーガもリタも気付かなかった。