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「あの、………さま…」
「うううー…」
ぱちり、と目を覚ますと美しい顔面のドアップ。
「うわあああ」
驚いて叫ぶと、それは慌てたように遠ざかっていく。
えっ?なに??泥棒???
リタは慌てふためいたが、男が遠慮がちに女神さま、と呟いたことにより昨日の記憶が蘇った。
「あ……」
私、もしかしてこの人放置して寝てた!?
「ご、ごめんなさい!!」
ベッドの上で土下座して謝ると、男は狼狽えた。
「なっ!女神さまいけません!!下僕如きに頭を下げるなど…!!!」
いけません!!とベッド脇に跪き、リタの土下座を止めようとあわあわする。
リタがちらりと顔をあげると男は泣きそうな顔をしていたので土下座は止めた。
「えっと、それで」
今何時だ?とベッド脇の時計を見ると、何故か無惨にも壊れていた。
「え???」
なにこれ?自分が眠さの余り壊したの?
首を傾げるリタに男は微笑む。
「どうかされましたか?」
「いや、時計が……あ、それよりも今何時でしょうか」
時計は気になるが、まあいい。
それよりも今の時間が分からない方が困ると思い、男に聞くと男は自分の右腕をちらりと捲った。
その時に見えたのはお洒落なデザインの腕時計。
高そうだとリタは恐々としてこんな物を持つ人がなぜ平民街に、と疑問に思った。
というか、この人のこと自分は何も知らない。
名前も結局聞いてない。
そんな今更なことを考えて。
「えっと今は……」
男に告げられた時刻を聞いてその考えは一瞬で飛んでしまった。
「えええええええ!!!やばい!やばい!!!」
急いでベッドから飛び出るとリタはその場で服を脱ぐ。もちろん下着は着ている。
男が無言で息を飲み、一瞬遅れてばちんと痛そうな音を立てて自分の顔を覆ったがそれどころでは無かった。
やばい!やばすぎる!!
完全なる遅刻。あの強面のベルーガの顔面が怒りによってどんな顔になるのかと思うと考えるのも怖い。普通の顔は見慣れたけど、怖い顔は見慣れてない。
急いでシャワーを浴び、濡れた髪をそのままに身体だけ拭いて着替える。
途中から男の存在は完全にリタの頭の中から抜けていた。
小さな鞄を持つと鍵をかけてリタは自分の家を出た。
中に男を残して。
リタが男のことを思い出したのは、ようやく患者の足が途絶え家に帰ろうとしたときだった。
「お疲れ様です」
ベルーガに声をかけながら、リタの心はどうしようと大声で叫んでいた。
ちなみにベルーガからは遅刻の制裁として拳骨をもらったが、昨日欠伸をしていたことも含め体調が悪いのではないかと心配もされた。強面だがとても優しい人なのだ。
「あーどうしよう………」
家に帰りたくない。男は鍵をかけずに出ていっただろうか。鍵はリタが今持っている1つしかないので、男が部屋の外に出たら鍵はかかっていないはずだ。
盗まれるような高価なものはリタのボロ屋には無いが、それでも長年使って愛着の湧いたものばかりだ。
「時計も買い直さなきゃ…」
寝坊するのは困る。今度の休みに買いに行こうと頭の片隅にメモしていると、あっという間に家に着いてしまった。
疲れて帰るときは遠いと思うけど、帰りたくないと思うとこうも早く感じてしまうものかとリタは少しの間ドアの前で現実逃避をした。
「………行こう」
とりあえず恐る恐るドアノブを回すとカチリ、と鍵の掛かっている手応え。
……まさか。
鍵を開けようとして鞄の中を探っていると目の前のドアが開いた。
「お帰りなさいませ!女神さま!!!」
美しい顔で満面の笑みを浮かべられ、衝撃の余りリタはその場に立ち尽くした。
「……」
「女神さま??」
男がリタの顔をそっと覗き込む。
「うわっ!じゃなくて、まだいたの!?」
「はい!!!恐れ多くはあったのですが、」
「そうじゃなくて…ううう、というか私が悪いから!」
「いや女神さまのせいでは決して!!」
ぶんぶんと男は手を振る。
その時、部屋の奥からいい匂いが漂ってきて、リタはあれ?と不思議に思った。
「…とりあえず、中入っていい?」
「もちろんです!」
即答した男にリタはそのまま部屋に入ると、においの正体を知った。
「これ、もしかして……」
小さなキッチンにはくつくつと湯気を立てて煮込まれている美味しそうなスープがあった。パンが焼かれていた。新鮮な野菜のサラダもあった。
「こ、これ……!!」
男が微妙にすすすとリタから目を逸らして言う。
「僭越ながら、ご用意させていただきました…その、もし女神さまの気が向きましたら一口でもよいので召し上がっていただければ、と………」
「食べていいんですか!?」
思わず食い気味に目をキラキラさせて男を見上げると、男はそのまま動きを停止した。
それに気付かず視線をご飯のほうに逸らしたリタはうきうきと言葉を続ける。
「嬉しいなぁ…あったかいご飯なんて久しぶり…わぁ!もしかしてこれデザート!?すごい!!」
鞄を持ったままキッチンをうろちょろしているリタに返ってくる反応はない。
不思議に思って男の方を振り向くと、男は動きを止めたままその美しい顏から一筋の涙を流していた。
「えっ!えっ!!!ど、どうしました!?」
思わず男の肩を揺すると、男がはっと気が付く。
「めめめめ女神さま!?」
自分の肩を掴んでいるのがリタだと知り、男は思いっきり動揺して一瞬で顔を赤くした。
「えっ!っていうか熱!」
リタが掴んでいた肩も熱くなり、彼が相当照れているのだと知って、ぱっと手を離す。
男はよろめいたように二、三歩リタから遠ざかると口元を覆って女神さまのお手が…とぶつぶつ呟いた。
「あの、大丈夫ですか……?」
というかこの人本当によく照れるなぁ。
心配になって男に1歩近づくとズササっと音を立てて狭い部屋の中でリタから遠のいた。
とりあえず近づかない方がよさそうだ。
まるで野生の動物を相手にしている感覚になりながらも、リタはその場から動くのを止めた。
「えっと、すみません。私朝急いでて…あの、ご飯ありがとうございます。
すみません、お話の前に1回着替えたりしても…」
「ま、まちます!」
「あ、はい…」
そっとしておこう。
冷めちゃうとか、材料はどこから?とか、誰が作ったのか?とか気になることはいっぱいあったが、リタは下手に突っ込まないで先にシャワーを浴びることにした。
早くご飯が食べたかったから。
シャワーを浴びて部屋着に着替えると、リタの家の小さな机の上には夕飯一式が既にセットされていた。
「うわぁ、ごめんなさい!」
一応客人?に何をさせているのか、と謝ると男が滅相もありません、と笑う。
「それよりも私こそ申し訳ありません。女神さまの許可なく食器や調理器具を使用してしまい…」
「あっいや!それは全然…」
大丈夫ではない。他人に自分の物を勝手に使われるのは正直いい気分ではないが、このご飯の前には全く問題ない。
それほど男の用意したご飯はリタには輝いて見えていた。
「ではいただきます」
席に着いてリタが食事に手を伸ばす。
それを男は嬉しそうに見ていた。
キッチンで。立ちながら。
「………………………あのー」
罪悪感がすごい。
食事の用意だけさせて何もしてない自分しか食べていないなんて。
遠慮がちにリタが声をかける。
「お口にあいませんか…」
男が死にそうな声でそう言ったので、ぶんぶんと首を横に振った。
「いや!そうではなく!!とっても美味しいです!」
「身に余る…光栄……です……!」
感極まったように男が顔を覆う。
男の用意した食事は本当に美味しかった。シンプルなだけに絶妙なバランスで整えられた味もリタ好みだった。
でもそうではなく。
「あの、椅子…無いので……ごめんなさい、ベッドで良ければ座ってください」
本当は自分がベッドに座って椅子を彼に譲るべきだったが、机の上に綺麗にセッティングされた食事と、どうぞと引かれた椅子に抗うことを思いつく前に座っていた。
他に座るものもないのでベッドを進めると、男がぶんぶんと顔を降って壁際に寄る。
「お!恐れ多い…!!」
「はあ……」
まあ確かにあまり面識のない異性のベッドに腰かけるのは勇気がいると思ったので、それ以上言わなかった。自分だけ座っているのは本当に申し訳無い気持ちになるけれど。
「えーと、あの、このご飯て…」
食べ始めてから今更気になって聞いてみる。
「申し訳ありません。私が用意いたしました」
なんで謝るんだろう。というか。
「あ、貴方が…」
顔も良くて料理の腕もいいなんて出来た人間過ぎる。完璧だ。
ちなみにリタの得意料理はお湯を注ぐと出来るやつである。
リタが尊敬の眼差しで男を見つめると、男はやはりすぐに顔を赤くした。
「め、女神さまにそのような眼差しで見ていただけるほどの…」
ぶつぶつ呟いているがリタは聞こえないフリをした。大分男の反応に慣れてきた。
「あの、あと材料はどこから?」
「知り合いに買って来させました」
「あ、ありがとうございますとお伝えください…」
巻き込まれた知り合いの方すみません。ありがとうございます。
リタが心の中で謝ると、男はにっこりと笑って。
「女神さまが気にされるようなことではございません。寧ろ奴如き存在が女神さまのお役に立てたことを喜ばなくては」
私、一体なんなんだ。
顔も知らない女の役に立って喜ぶ人なんていないだろう、という言葉は胸に仕舞う。
スープの最後の一口を飲み干し、食器を下げようとしたところを男に止められ、代わりにデザートがリタの前に置かれた。
美味しくて無くなってしまうのが勿体なくて、デザートをゆっくり一口ずつ味わって食べていると、男がそんなリタの様子を見て微笑む。
まるで男の方が女神と見紛うような笑みをリタは正面から見てしまい、顔が熱くなった。
「えっ!とあの!!」
「はい」
穏やかに返事を返す男。
さっきまで壮大に照れていたのが嘘のような表情である。
「その、これで満足していただけました?」
デザートを食べ終えて、男を見上げてそう言うと、男はきょとんとした。
何のことは分かっていないようで、リタは自分の予想が外れていたことに気づいた。
これが恩返しだと思ったのに。
だから食べれば出て行ってくれると思ったのだ。
リタの食器を嬉々として洗う男の背中を見つめる。
ご飯を作ってもらい、洗い物までやってもらって悪いけど、単刀直入に言わせてもらおう。
洗い物が終わったのか水を止めてこちらを振り返った男は、じっと自分を見つめるリタに気づき飽きもせず赤面した。
「あの、何をしたら満足してもらえますか?」
「満足、ですか???」
「はい。私、もう貴方の感謝の気持ちは十分に伝わりました。美味しいご飯も作っていただけましたし」
本当に美味しかった。お店を開いていたら通うくらいには美味しかった。
「だから、もうこれ以上は大丈夫です。自分のお家にお帰り…」
「女神さまの家で夜を明かすつもりはありませんので!!ご安心ください!!!」
「…はあ」
じゃあまあいいですが。
恐れ多いです!と声を張り上げた男に一つ頷く。
「でも本当に美味しかったなぁ…お店とかやってるんですか?」
未練がましくもそう聞くと男はいいえと否定する。
「そうなんですね」
また食べたいなあと思ったリタは、もうこの味が二度と食べれないのかと少し残念に思った。
が。
「な、なんでまたいるの!?もう良いって言ったでしょ!?」
次の日、仕事帰りのリタは、家の前で再び男に出迎えられた。
思わず叫ぶと男が美しい微笑みでリタを見つめる。
「お帰りなさいませ女神さま!」
「いやおかしい!貴方帰ったんじゃ…」
「はい、一度御前から下がらせていただきました」
「一度って何!?」
二度目があったなんて知らないし聞いてない。
男は喚くリタをまるで他人事のようににこにこと見つめるばかり。
誰の話だと、と怒りが沸いて来たあたりで、男が両腕に袋を持っていることに気づいた。
「………それ、もしかして」
「こちらですか?僭越ながら女神様のお食事をご用意させていただこうかと思いまして…もしもお気に召しましたら召し上がっていただけたら、なんて」
昨日の美味しいご飯を思い出し、ごくりとリタの喉が鳴った。
今日もへとへとでとてもじゃないが自分でご飯を作る気分にはなれない。
リタは無言で男を部屋に招き入れた。
「お、美味しい…!」
「お口にあいましたようで何よりです」
男はそう言ってほんわりと笑う。
それだけならよかったが、女神さまに食される食材が羨ましいと続き、心の中でリタはひいていた。
やっぱりやばい人だ。
「ところで、あの、これお金払います」
ごくりとメインディッシュの魚を飲み込んでから気になっていた事を告げると、男はにこにこと笑う。
「で、いくらですか?」
にこにこ。
「…」
「…」
「いや、本気で払うんで……申し訳ないし」
にっこり。
「…」
「…」
「女神さま、デザートをどうぞ」
だめだ全く聞いてくれない。
はああとため息を吐いたリタはデザートに手を伸ばした。
「……おいしい」
ではなくて。
ちらっと男を見ると、男は心底嬉しそうにリタがデザートを食べるのを見ていた。
流石に洗い物くらいは、とリタが言い自分でやると聞かない男と攻防を繰り広げ、結局男が洗いリタが拭くという結論に落ち着いた。
皿を拭きながらリタは言った。
「あのー、本当に申し訳ないんでこれっきりでいいですからね、明日は来ないで下さいね」
ご飯を作り洗い物までしてくれている人に対し酷い言い様だが、ここまで直接的に言わないと男は聞いてくれない。リタは学んでいた。
「そんな!!
………………………いや、自分のような蛆虫のごとき存在が女神さまの傍に侍るなど確かに許されざる罪………」
うーん言葉通じてるのかな、これ。
ずーんと落ち込んだ男にリタは首を捻りつつも話を続けた。
「何度も言ってますけど、私女神なんて呼ばれる存在じゃないんで。
罪とかでは無くてですね、あなたに私が申し訳ないんですよ」
「なんてお優しい…流石地上に舞い降りた神…!」
「あーもうそれでいいです。まあそういう訳で恩返しは十分なんで、明日以降は来ちゃダメですよ?
今日もいきなり居たからびっくりしたし…っていうか!」
リタははたと怖いことに気付いてしまった。
「あなた、何時から家の前にいたんですか!?私が何時に帰ってくるかなんて知らないはずですよね!?!?」
思わず男の方に詰め寄ると、なぜか芸術品のような美しい顔をしている男のほうが「ち、近いです!!」と照れる。
いや、逆でしょとリタは冷静に心の中で突っ込んだ。
「で、何時からいたんですか??」
「ええと、そうですね…女神様とお別れして、材料の買い出しをした後からお待ち申し上げておりました」
「………」
「女神さまをお待ちしている間でさえもまるで夢のように幸福でした。会わない時間も貴女様のことを考え買い物をし、食材を選ぶというのは今生の中で上位3つに入る尊くも責任重大なお役目であり緊張感は勿論のことそれを成し遂げた時の達成感は何事にも代えがたく改めて自分の生を見つめ直すことができました。勿論今このように女神のお傍に侍ることができるこの時間は自分にとって勿体なさすぎるほどの幸運で」
「あ、はい、わかりました」
やばいひとだ。
リタはそれ以上聞いていられず男が話している途中で口を挟んだ。
もしかして自分の後をずっと追われたりしてたら嫌だなと思ったから、そうではなくてただ待ってただけと聞いて少し安心したけど、そんなのよりも全然やばかった。
そしてはたと大変なことに気づいてしまった。
「………………あの、あなたずっと待ってたみたいなんですけど、自分の家には帰ってないんですか」
「はい。ありませんので」
「…………………はい?????」
いや今のは肯定の「はい」じゃないから。
こくり、と綺麗な顔で頷かれても困るから。
「ジブンノ、イエ、ナイ????」
「はい」
思わず片言で言い返すとにっこり笑う。
「えっと、いつから…というかよく無事でしたね!?」
こんな綺麗な顔してるのに。
この街の治安はよくない。スリは日常茶飯事、人買もあるしギャングもゴロツキもいっぱいいる。
こんな生ける芸術品みたいなお綺麗な人なんて一発で目をつけられてどこかに売られちゃいそうなのに。
そう言うと男はとても不思議そうな顔をした。
「女神さまの方がお綺麗ですし、特に何もありませんでした」
「嘘だ!!!!」
「嘘ではございません!!女神さまとゴミに集まる鼠のごとき私では比較対象にすらなりません!!!
女神さまの美しい薄緑色の髪はまるで天上の木々の若葉のように神々しく、その瞳は月の雫の如く静謐で優しい光を」
「そっちではなく!いやそっちもなんですけど!!」
大丈夫です???あなた目見えてます????幻覚見てません????やばい薬でもキメてません?????
悲鳴のように叫んだあと、リタは考える。
今日この人を追い出したらどうなるのだろう。昨日も何も無かったって言ってるけど大丈夫なんだろうか。というかどこで寝たのかとか色々気になることは沢山ある。
でもその前に。
「…………あの」
「はい。女神さまどうかなさいましたか?」
「今日はどうするんですか?もう来ないですよね?」
「こちらの片付けが終わりましたら御前からは下がらせていただきます」
「そのあとは?」
そう聞くと男はきょとんとした。
「女神さまの気を煩わせないようにいたします」
嫌な予感がする。昨日のやりとりを思い出したリタは頭痛がした。
どうしてこうなった。
リタは迷った挙句口を開く。
「……………………………………………あの、死ぬとかじゃないですよね、念の為聞きますけど」
このやばいひとにとって私の気を煩わせない=死になりそうで、まあ自分の思い過ごしかもしれないし、自意識過剰かもしれないけど、とリタは願いつつ聞いてみる。
男はにっこり笑って。
「女神さまはお優しいですね」
「はぐらかすな!!」
どうしてこうなった。
私は何でこの人助けちゃったんだ。
うううう、と唸ると心配そうに男が覗き込んでくる。
誰のせいだと思ってるんだ。
そう考えて、リタは思考を止めた。
「私、もっと恩返して欲しくなってきました!!!とりあえず明日から一日3食夕飯はデザート付きで私のご飯作ってください!!!」
「よ、……喜んで!!!女神さま!!!!」
この世の全ての女神さまごめんなさい。
こんな強欲な女が女神とか呼ばれてごめんなさい。女神という存在に汚名を被せてごめんなさい。
泣き出す男に死んだ目を向けながらこの世の女神と呼ばれるあらゆる存在にリタは心の中で謝った。