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五月蝿く鳴る時計を止めて朝目覚めると、思いっきり気分が悪かった。
リタは元来寝起きのいいほうだ。だから今朝はとても珍しいことだと言える。
薄みどり色の髪を適当に手櫛で梳かし、顔を洗う。
小さな鏡に写る女の顔はやっぱりどこか不機嫌そうだった。
黒く透き通った飲み物を飲み頭をしゃっきりさせる。朝食は普段からとらない。朝はあまり食べる気がしないから。
拾い物の新聞を読む。特に意味は無いけれど、貧乏なリタには他に時間を潰す方法を知らないから、適当に文字を追う。
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発見!巨大な穴。原因は隣国の実験か。
派閥争い??平民街にて一夜にして大量の死体が発見され…
あの人気演目公演!野外広場にて有名な「不死の英雄と邪悪な竜」の公演が…
本日の天気予報。今日は一日晴れの日が続き気持ちのよい天気となるでしょう…
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「晴れるなら外に干そうかな…」
自分の住んでいる地域が久しぶりに晴れると知り、リタの機嫌が上昇した。
新聞を畳むと、小さな机の上に放り投げる。
時刻を確認すればそろそろ家を出る時間で、リタはテキパキと着替えて仕事に向かった。
「おはようございまーす」
ふわぁと欠伸をしながらそう言うと、リタが欠伸なんて珍しいな、と声をかけられた。
「ベルーガさん」
声をかけてきた人物は厳つい顔をした大柄な男性。
顔に走る大きな傷も相まって初対面の人は必ず彼を見ると怯えるが、実際はかなり心優しい人物で、この貧民街で医者を営んでいる。
リタは見慣れているのでその顔を見ても驚くこともなく、ただ普通に挨拶をした。
「お疲れ様です。今日はまだですかね」
「ああ、見ての通りまださ」
ベルーガが飲み物片手に肩を竦める。
まだというのはまだ患者が来ていない、つまりは暇な時間ということだ。
貧民街に居を構える治療院は数少ない。特にベルーガのように本当に治療をしてくれる医者はもっと少ない。大体はやぶ医者か、法外な金を取るだけの医者崩れだ。だから適切な金額を払えばちゃんと治してくれるベルーガの治療院はとんでもなく混む。
まだなら私も飲み物を淹れよう、とミニキッチンに向かったリタの耳に突撃するような足音が聞こえた。
「……きたな」
ベルーガが舌なめずりするような凶悪な顔をする。これでは悪役だと思いつつもリタは彼の後について行った。
あぁ肩こった。
肩をぐるぐると回しながらリタは夜空の下自分の家を目指して歩いていた。
あのあとはまるで戦場だった。リタは実際に戦場に行ったことは無いから、想像だけれど。
次々と運ばれてくる患者。付き添いの柄の悪さといい、あれはどこかの組織で抗争でもあったんだろうなと想像出来る。リタの住んでいる地域は正直治安が悪い。どこかの犯罪組織やら殺し屋やらが居を構えている場所なのだ。
リタは手術室には入れないので、その分患者の振り分けをしたり、診断書を作ったり簡単な手当をしたりと大わらわだった。
帰ったらすぐに寝ちゃいそう。
クタクタになった身体が訴えている。
漸くの思いでリタの巣にたどり着いた時、その前には一人の男性が立っていた。
誰か待っているのだろうか。こんな夜更けに。
少し怖いのでどいて欲しいなあと思いつつも、一刻も早くベットにたどり着きたくてリタは男性の横をすり抜けようとした。
「うわ!」
ら。
ガっと音が聞こえそうなほどに勢いよくリタの腕が掴まれた。
本能的な恐怖にリタの顔が引き攣る。いくら治安が悪い平民街とはいえ、何の声もかけられずにいきなり腕を掴まれるというのは初めての経験だった。
なに、と男を仰ぎ見て、リタはぽかんとした。
なぜなら美しい男が見とれるほどの満面の笑みを浮かべていたからである。
「お待ちしてました!再度見える幸運に巡り会えたこと、女神様に感謝いたします!!!」
「は?????」
思わず素でそう返してしまった。
「女神さま、貴方はなんて美しいのでしょう…昨日はそのご尊顔を拝せず大変後悔しましたが、それも今報われました……!」
「……」
やばいひとだ。
リタは自分の腕を掴みながら高らかに何事かをぺらぺら話す男を見てそう思った。
逃げよう。
幸いにして、この手のやばい奴に絡まれたことは今までの人生の中で1度もない。だから対処法なんて分からない。
でもとにかく逃げよう。そう決意する。
自分のアパートまではあと少しだ。
この手を振り払って急いで駆け込み、扉を閉めて鍵をかけたらとりあえずは大丈夫なはずだ。
リタが逃げる隙を伺うために男をじっと見ると、何故か男は顔を赤らめた。
「女神さま…貴女様にその様に一心に見つめられますと、私のような至らない男は己の身の恥ずかしさの余り死んでしまいそうです…いやそれはそれで幸福かもしれませんが………」
「いや、そんなことで死なないでよ」
思わず冷めた声で突っ込むと男はぱぁと喜色を滲ませた。
「女神さまにこの矮小な身を案じていただけるとは…!」
やばい、つい心の声が出てしまった。
変に刺激するのはよくないと思いつつも、抑えきれなかった。
「貴女さまと出会えたこの運命、そのお言葉だけで十分です…」
男がそう言って顔を伏せる。
いまだ!とリタは手を振り払おうとして。
「っ!」
「女神さま?」
まるで心を読んでいるかのようにぎゅっと逆に握られた。
こちらを見る眼差しはとても甘いが、それが今はとても恐ろしかった。
なんだこの人。やばい。
恐怖がぶり返したリタが泣きそうになると、男がぎょっとした。
「め、女神さま、すみません……」
囁いてリタの手をおずおずと離した。
その思っていたよりもずっとあっさりした反応に驚いてしまい、男を見上げると男は視線をさっと逸らした。
「感動のあまり先走ってしまい申し訳ありませんでした…」
しょぼんとした顔でそう謝られてリタは反応に困った。
………ええええ、おもったより素直。
まるで捨てられた子犬のようで、リタは罪悪感が募った。
「あ、はい……」
いつでも逃げられる状況なのに律儀に返事をしてしまう。
男はそんなリタをちらと見ると、もう彼女が泣きそうな顔をしていないことに安堵したようで、ほっとため息をついていた。
「あの……」
リタが声をかけると、ふわっと男の顔が綻ぶ。
「っその!」
調子が狂うからやめてほしい。
強面のガルーダの顔には体制があるが、こんなに美しい顔にはないのだ。
そんなことを思いつつも恐る恐る続きを告げる。
「あなた、どなたですか?」
男の顔がぴしりと固まり、そのあと途轍もなく悲しそうな顔をした。
今にも涙がこぼれ落ちそうでリタは動揺する。
「あっ!えっ、と!!すみません!覚えてなくて本当にごめんなさい…!本当に、人の顔が覚えられないダメな頭で……!!」
咄嗟に謝ると男は顔を伏せた。
まずい。泣かせた?どうしよう。
ぐるぐると回る思考の中で、リタはここが外だということも思い出し、こう言った。
「本当にごめんなさい…!あの、私の家すぐそこなんで、とりあえず行きましょう!話しましょう!!」
これがきっと運命が変わった瞬間だった。
リタが自分の部屋に他人を招き入れたのはこれが初めてだ。
だから狭い部屋には当然のように椅子は一脚しか無くて、リタはそれに男を座らせて自分は立っているつもりだった。
しかし男はそれを頑なに拒否し、結果椅子は使われること無く二人は立っていた。
「あの…お客様なんで座ってください」
弱ったリタがもう一度そう言ってみたが、男は「女神さまを差し引いて腰かけるなど」と固辞する。
あまり無理強いするのもよくないかと諦めて話をすることにした。
「えっと、まず私の名前はリタです。貴方のお名前をお伺いしてもよろしいでしょうか」
そう聞けば、男が震えたのでぎょっとした。
「女神さまのお名前を知ることが出来るなんて……リタ、なんて美しい……」
「えーと」
とりあえずこっちの世界に戻ってきて、と言いたくなりため息をつく。
話が全然進まなそうだ。
困った顔をしたリタに気づいたのか、男ははっとリタの方に向き直る。
「すみません!女神さまのお名前を自分のような塵芥の存在ごときが知れたことに感動してしまい……!」
「いや…」
塵芥って。もっと自分を大事にしてほしい。
その言葉を言うとまた話が進まなそうだったのでとりあえず飲み込んだ。
「えっと、貴方は…」
「私は昨日、貴女さまに助けていただきました」
先を促すと男は神妙な表情でリタにそう告げた。口を閉ざしてリタがじっとその顔を見つめると、男の顔がじわじわと赤く染まる。
…なんか、とっても可愛い人だな。
正直普通の顔立ちの自分にそこまで過剰に反応して貰えるのは新鮮で、同時に面白かった。
「ふっ」
思わず笑うと、男の顔は真っ赤を通り越し、耳まで赤くなる。
「その、その…女神さま……」
きょときょとと視線を色々な方向にさ迷わせながら、弱ったように男が囁く。
それを笑いを噛み締めつつ、リタはさっきからどうしても気になっていたことを言った。
「その、女神さまっていうの止めてください。私そういう柄じゃないし、ただの一般人なので」
「滅相もない!!!」
女神呼ばわりなんて自分はそんな聖人ではないし恥ずかしい。
そう思って言ったことだったが、男はそれを全力で否定した。
「貴女様を女神さまと呼ばずなんと呼べばいいのでしょう…!こんなにもお優しく、見ず知らずのゴミのような存在の自分さえも慈愛の心で…」
「いや、普通にリタでいいから。それに貴方の方が年上ですよね?そんなに遜らなくていいんで」
というかまた自分のことゴミとか言ってるなこの人。
「そんな…!私のような穢れた存在が女神さまのお名前をお呼びするなんて恐れ多いです!!」
私はこの人の中でどんな存在なんだ。
呆れつつも女神呼びだけはどうしても嫌だったので、どうにか説得して名前で呼んでもらおうと思った。
「はい、リタ」
「め、めが」
「リタ」
「……っ!!り、」
「リタ」
「り、た…樣」
「うーん、さん、で」
「すみません自分には無理です申し訳ありません」
まあいっか。
床に這いつくばりそうなほど頭を下げた男を見てここが落とし所かなと諦める。とりあえず女神呼びが回避出来たのだからいいや。
それに。
「えーと、私、昨日あなたを助けたけれど、全然気にしてないから恩返しとかいいんで」
リタはもう男と関わるつもりは無かった。お礼が言いたいとかそんなことならもうこれで十分だ。
自分に感謝の気持ちは伝わった。だからこれ以上は要らない。
そう告げると、男はぶわわと今度こそ泣いた。
「えっ!?えっ!!??」
どうして泣いてるの。
「そんな、そんなことを仰らず……!私如きの埃以下の存在が貴女様に出来ることなどたかが知れてますが…でも私は貴女様の椅子でもいいのでお何か恩をお返ししたい所存です……!」
椅子はもう一脚あるので十分です。
「いや、えーと」
「貴女様から頂いた多大なるご恩に報いる程のものは不可能かもしれませんが、このまま何もせずのうのうと生きていくなんて……」
義理堅すぎる。こわい。
「何でもします!!貴女様が命じて下されば何でも…!」
怖い怖い怖い怖い。
「本当にそういうのいいんで!!大丈夫なんで!!間に合ってるんで!!!」
思わず大声で叫ぶと男がピタリと言葉を紡ぐのを止めた。
「……そうですか」
諦めてくれたか、とほっとすると男はよく分からない怪しげな笑顔を浮かべた。
「私の存在がご不要でしたら申し訳ありませんが、この場で介錯をしてくださると、」
そう言って男はすらりと輝くナイフを懐から出した。切れ味がよさそう、ではなく。
なんでこの人ナイフなんか持ってるの??物騒すぎるんですが???
「とにかく、ナイフしまってください!!!
私は今特に困ってないし、お金も別に要らないし、椅子も特に不要です!!」
そう突っぱねると男は渋々とナイフをしまってうーんと首を傾けた。
そして恐る恐るリタに何かを言っていたが、リタは眠さのあまり半分意識がなかった。
「……では、汚いですが私の身を捧げるというのは……」
「………あの、正直言うともう本気で眠いんでとりあえず一旦帰ってくれません…?」
男の相手をしていたら夜中もとうに通り過ぎて日付が替わってから数時間が経過していた。
もうなんでもいいから寝たい。
それがリタの正直な気持ちだった。
ふわぁと見ず知らずの他人の手前で、欠伸を隠す余裕もなく眠い目を擦ると、男は慌てた。
「申し訳ありません。女神様のお身体に無理をさせてしまい…」
また女神って言ってるこの人。
「もうふわぁ、いい、で、す…ねむ……」
眠さの余り思考が停止したリタはベッドの前まで歩くと、そこに思い切り倒れ込んだ。
そして男を放置したまま寝た。