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沙蘭国の王女たち  作者: 立川みどり
洛帝国編
13/13

洛帝国編6

      6


 セウネイエーが自分の居室に戻ってまもなく、レアウレナエーのもとに皇帝からの書状が届いた。書状とはいっても、今宵そちらに渡るという旨を記した一文だけの書状である。渡る予定の妃嬪のもとにはそういう一文だけの書状が届けられる慣わしだと、あらかじめ聞かされていた。夜に備えて丹念に体を洗い、身支度を整えておけるようにという配慮である。

 さっそく初日からかと、レアウレナエーは嘆息した。皇帝の年齢や皇后の話からの推測では、話し相手をするだけですむかもしれないが、そうはいかないかもしれない。やはり、閨を求められた場合を想定しておく必要があるだろう。

 相手に暗示をかける方法はある。その技を、レアウレナエーは習得している。かつてサラライナで、協力者の女たちが洛の使節団に用いた技だ。じつは、レアウレナエーは、彼女たちの誰よりもその技が得意である。とはいえ、催眠作用のある薬酒と併用しなければけっこう難しい。薬酒と併用した場合でさえ、かつてカウリンが董玄焔にその技を用いようとして失敗している。

 その技を用いることなく、皇帝と友人のようになれるなら、それに越したことはない。

 そう思いながら、レアウレナエーは湯殿に向かい、洛人の侍女たちが腕によりをかけて磨きをかけるのに、内心で鬱陶しく思いながら身を任せた。


 夕食後しばらくしてから訪れた皇帝は、寝室でレアウレナエーとふたりきりになると、まるで少年のように目を輝かせて、かつて自分を守って亡くなったサラライナ人の侍女の思い出を語った。

「ほんとうにすばらしい女人だった。美しいだけでなく、やさしく慈愛深く、余には実の母以上に母のような人であった。しかも勇敢で凛々しく、まるで女神のようであった。あれほど神々しい女人を、余はずっと目にしたことがなかった」

 異国で命を落とした故国の民が愛され褒められるのは、悪い気がしない。だが、その一方で、長年連れ添った皇后様はどうなのか、子を生ませたまま捨て置いた祥細君はどうなのかと言いたい。やさしく凛々しくすばらしい女性たちを妻にしておきながら、「あれほど神々しい女人を、余はずっと目にしたことがなかった」とは、宝の持ち腐れというものだ。

 内心でそう思いながら無言でいると、皇帝は言葉を続けた。

「彼女ほどすばらしい女人に巡り合うことは二度とないだろうと思っていた。きのう、そなたに会うまでは」

 顔を見ただけなのに、どうしてそう思うのか?

 理解しがたい男だと、レアウレナエーは思った。さすがにあの巌王の父というだけある。思い込みの激しい男だ。

「ああ、夢のようだ。こうしてそなたと添うことができるとは」

 言いながら、皇帝は、レアウレナエーの頬に触れた。レアウレナエーの背筋に嫌悪感が走った。

 母のようだとも女神のようだともいう女性になぞらえておきながら、欲望の対象にするというのは理解しがたい。強大な帝国の皇帝として君臨する男だからか? それともこういう性格なのか?

 多くの人間の心を読み取ってきたレアウレナエーだが、この皇帝の心はどうもよくわからない。

「おや、震えておるのか。初々しいのう」

 畏怖や緊張による震えではなく、嫌悪感で身震いしたのだが、皇帝が何か勘違いしているようなので、それを利用することにした。

「あの、緊張で震えが止まりません。緊張をほぐす薬酒がございますの。一口飲ませていただいてよろしいでしょうか」

 返事を待たず、寝台の脇のテーブル上に用意してあった薬酒を杯に注ぎ、飲み干すふりをしてみせた。そのあと別の杯に薬酒を注いで、皇帝に差し出す。

「陛下もどうぞ」

「夜伽の妃嬪のもとでは飲食しないという慣わしなのだが」

 毒を盛られるのを警戒して生まれた慣わしなのだろう。

「信用していただけないのですね。それなら、わたくしと同じ杯から召し上がりますか」

 悲しそうな表情をつくって見せると、皇帝はあわてたように言った。

「いや、信用していないなんてとんでもない。そうだな、意味のない慣わしだ。じつは余も緊張しているのだ。緊張をほぐす薬酒というなら、いただこうか」

 皇帝は、差し出された薬酒をひといきに飲み干した。

「意外にうまい酒だな。薬酒というから、もっと癖があるかと思った」

「そんなことはございませんよ。この国の薬酒はそんなに癖が強いのでございますか?」

「うむ。薬だからしかたがないと、我慢して飲むようなのがほとんどらな」

 呂律が少しあやしくなってきた。

「これはうまいうえに、飲んれ気持ちがええな」

 言いながら、皇帝は、レアウレナエーの首筋を撫で、衣の襟首に手を差し入れて肩を撫でる。気持ちが悪いが、これぐらいは我慢せずばなるまい。

「なにか頭がもやもや……。余は何をしておるのか……」

「わたくしと寝所での営みを……」

 抑揚をつけて、レアウレナエーが説明する。催眠効果のある抑揚である。

「夜の営みをおこなっています」

「ああ、夢のようだ」

「ええ、そう。夢のようにお過ごしですわ……。もう終わりましたわ。お疲れでしょう。お眠りなされませ」

 皇帝は寝台に横たわり、寝息を立て始めた。至福の時を過ごしているかのような、幸福そうな笑みを浮かべながら。


 レアウレナエーが寝台から降りるのとほとんど同時に、カウリンが自室から姿を見せた。同室のサラライナ人の侍女ナウナマエーもおずおずとそのあとに続く。もう一部屋の洛人の侍女ふたりは、前もって差し入れした香草茶とカウリンの話術で眠らせている。

「ずいぶんよく効きましたのね」

 燭台の薄明りのなかでも見てとれる皇帝の恍惚とした表情を見ながら、カウリンが小声で言った。

「このような用途でこの技をお使いになるのは初めてですのに」

 ナウナマエーも頷いている。諜報活動を得意とし、サラライナの王宮に勤める以前には妓女の経験もあるという女兵士で、かつて洛帝国の使節団から色仕掛けと暗示の技で有益な情報を探り出した女性たちのひとりでもある。

「こういうふうになるのは、よくわかりません。わたしは、同衾して首尾よく終わったという暗示をかけただけなのに」

「つまり、それでこういう表情になるほど姫様に魅力を感じたということですね」

 それは困ると、レアウレナエーは思った。暗示の技は疲れるので、調子に乗って頻繁に来られてはたまらない。

 ナウナマエーが寝台に近づき、膝を立てて寝台に上がると、短刀を取り出して自分の腕に切り傷をつけ、血を垂らした。すぐに布を巻いて血を止め、寝台から降りる。

「わたくしたちの部屋でやすまれては?」

 カウリンの提案に、レアウレナエーは首を横に振った。

「だいじょうぶ。ここでやすみます」

 なにしろ数人が並んで眠れそうなほど広い寝台だ。その中央近くに皇帝が寝ていても、なおじゅうぶんな広さがある。

 レアウレナエーは、敷布の鮮血を挟むように、皇帝と距離をとって身を横たえ、カウリンとナウナマエーは自分たちの部屋に戻った。


 いつも妹には何でも話すレアウレナエーだが、翌日、セウネイエーが授業の後で立ち寄ったとき、昨夜のことを話さなかった。あまり話したい内容ではなく、それよりもセウネイエーの話を聞きたかったのだ。

 妹が他の留学生たちと仲良くなり、授業も興味深く受けているようなので安心した。セウネイエーが帰ったあとも皇帝からの書状が届かなかったので、レアウレナエーは給仕の侍女たちと談笑しながらくつろいで夕食を食べ、ゆったりした気分でやすむことができた。

 翌日の午後、女官が書状を届けてきたので、また皇帝のお渡りがあるのかと、内心うんざりした気分で受け取ったが、皇后からのお茶会の招待状だった。


 招待された時刻に皇后の宮を訪ねると、今回は皇后だけで、梅妃も蓉妃もいなかった。

 侍女が茶と菓子を置いて下がり、ふたりだけになると、皇后がレアウレナエーを見て言った。

「昨夜、陛下はわたくしのところにいらっしゃいましたの。その前の晩は、あなたのところにお渡りになられたとおっしゃっていました」

 皇帝は、妃嬪との夜のことをいちいち皇后に報告しているのだろうか?

 レアウレナエーが訝しく思っていると、皇后が言葉を続けた。

「あのう、お気を悪くなさらないで。そのとき陛下がおっしゃっていたことが引っかかって、あなたのことが心配になったものですから。夢の中にいたようで、心地よかったということ以外はよく覚えていないのだが、あなたがお経のようなものを唱えていたと。そうおっしゃっていましたの」

「お経?」

 意表をつかれてレアウレナエーが問い返した。

「お経というのは、ブダ教の聖典のことでしょうか? わたくしはブダ教徒ではありませんが?」

 ブダ教は、洛帝国で広く信仰されている宗教の一つである。サラライナなどの砂漠の国々にも信者はいるが、それほど多くはない。レアウレナエーは信者ではないが、ブダ教の神官が死者を悼んでお経と呼ばれる聖典を唱えているのを耳にしたことがある。そういえば、そのお経の抑揚は、皇帝を暗示にかけるために口にした言葉の独特の抑揚と似ていなくもなかったような気がする。

「ああ、そうなのですか。いえ、陛下の話を聞いていて、嵯柘夫人のことをつい思い出したものですから」

「シウラン様のことを?」

「ええ。陛下の最初のお渡りのとき、お経を唱えていたのですって。で、それは何かとご下問された陛下に、亡くなった父母と一族に許しを乞うていたと言われたとか」

 ああ、そうかと、レアウレナエーは腑に落ちた。サシャ王国は洛帝国の文化の影響が強く、ブダ教の信仰が広まっていた。サシャ王家でも、サシャ古来の神々と並んでブダ教も信仰していた。ブダ教には苦しむ者の救済という側面が強いから、国と一族を滅ぼされたシウラン姫は、いっそうブダ教を深く信仰するようになったのかもしれない。

「それを聞いて、嵯柘夫人が痛ましくて……。誤解のないように申しますけれど、陛下はけっして非情な方ではございませんのよ。おやさしい方なのです。いちおう、嵯柘王国の滅亡から三年、嵯柘夫人の後宮入りからでも二年、手を出されずに待たれたのです。けれども、後宮に皇帝のお渡りを望んでいない女子などいるわけがないと思い込んでおられますから、女のそういう苦しみがよくおわかりになれないのです」

 つかのまレアウレナエーは巌王のことを思い出した。自分の寵愛が相手に迷惑なこともあると想像できない鈍感さ。父と息子と妙なところが似ている。それとも、強国の支配階級の男はこういうものなのか。同じ支配階級でも、皇后は目下の者の心情を細やかに思いやれる人なのに。

「嵯柘夫人のことがありましたから、陛下のお渡りが、あなたにとってことのほか辛かったのではないかと気になったのです」

 皇后のやさしさを、レアウレナエーは少し利用することにした。

「まったくつらくなかったといえば嘘になります。シウラン姫様ほど深刻ではありませんが。ずっとサラライナに住み、サラライナの民たちのために生涯を捧げると思い定めて生きてきましたから、このような形の婚姻をすることになって、とまどっております」

「ああ、それは……。申し訳なく思っています」

「あ、いえ、シウラン姫様ほど深刻な状況ではございませんから。これもサラライナの民のためでございますし。ただ、子供のころ、『生涯どこにも嫁がずに、サラライナの民のために尽くします』などと女神様に祈ったことがございましたので、思わず女神様にお詫びの祈りを捧げました。陛下がそれを聞いて、ブダ教の祈りと思われたのでしょう」

 言いながら、レアウレナエーは、内心でサラライナの守護神である女神に謝罪した。子供のころに女神像の前でそう誓ったのは事実だが、正式な誓いではないので実効性はなく、それでも出立前にその言葉を撤回して女神に謝罪しており、皇帝の前で女神に祈りを捧げたというのはまったくの嘘である。それで、このような形で女神の名を出したことを謝ったのだった。

「あの、でも、そんなに深刻ではございませんのよ。子供のころに誰にも告げずにひとりで勝手に立てた誓いに拘束力はありませんし、民のために尽くすという点は守っているわけですから、この縁組を受け入れたことに悔いはございません。ただ、それでも思わず女神様に祈りを捧げて、陛下や皇后さまのお心を煩わせてしまいましたこと、申し訳なく存じます」

 皇后をあまり苦しめることなく、皇帝のお渡りがあまり頻繁にならないように尽力しようという気にさせるには、この言い方が妥当だろう。

 レアウレナエーの思惑通り、皇后は、できるだけ皇帝が負担をかけないようにしてやりたいと思うと同時に、「民のために尽くす」という言い方に注目した。

 皇后も洛帝国の上流階級のつねとして、結婚に恋や自分の感情など入る余地はなく、親が決めた相手に嫁ぐのが当然という育てられ方をしてきた。が、それはあくまで「家のため」「親や親族のため」や「国のため」であり、「民のため」という発想はない。女たちだけでなく、男たちも、政治や結婚に「民のため」という発想はないと思う。

 いや、書物で読んだ伝説的な賢帝は民のために政治を行なったという。目の前にいるのは、そういう伝説の賢帝と同じような女性なのだ。

 そう思ったところで、皇后は、「民のため」と口にした女性がもうひとりいたのを思い出した。

「民のため……。西域の王族はそういう価値観の方が多いのかしら」

 レアウレナエーのもの問いたげな視線を受けて、皇后は言葉を継いだ。

「あ、いえ、嵯柘夫人もそういう言葉を口にしていましたの。彼女が寝所でお経を唱えていたと陛下に聞いたあと、心配して彼女と話をしたときに。あのとき、嵯柘夫人が真っ先に心配したのは、それで陛下の不興を買ったのではないかということでしたが、『そうではなく、わたくしがあなたの心情を心配しているのです』と説明すると、『民のためだから』と答えたのです。『自分の名誉のため、王家の名誉のためであれば、母たちとともに死ぬべきでしたが、民のために生きることにいたしました。あの場では思わず経文を唱えてしまいましたが、民のためであれば、一族を滅ぼされた恨みを捨てることにも、陛下にこの身を捧げることにも異論はございません』と」

「まあ、シウラン姫がそのようなことを……」

「浅はかなことに、わたくしはそれを聞いて、そう思うことで無理に自分を慰めているのかと思ったのですが……。あなたと話していて、嵯柘夫人もあなたと同じ価値観をお持ちの方だったのかという気がしてまいりました。強がりではなく、ほんとうに民のために生きるという信念をお持ちで、それによって苦しみを乗り越えた方なのかもしれません。それなら心配するのは失礼でしたわ」

「失礼ということはございませんよ。皇后様が心配して力になろうとしてくださるのはありがたいことです」

「それにしても、砂漠の国々の王家はみんな、あなたがたのようなのかしら。国のためでも王家のためでもなく、民のためを考えていらっしゃる……」

「すべての国の王族にあてはまるかどうかはわかりませんが。周囲の国々に狙われ、賊の襲撃を受け……という小さな国々の民はつねに危険にさらされていますから。王家が民を守らなければなりません。そう考えている王族は多いと思います」

「嵯柘夫人もそういう方なのですね。民を守ることにつながると思えば、それまで清らかに生きてきたであろうのに、その身を仇に捧げることも厭わない……。なんとお心が強くて気高いこと。弱弱しく見えたので見くびっておりました。ひょっとして、嵯柘太夫もそういうお方なのかしら」

「嵯柘太夫……。リクシュン王子ですね」

「ええ。あ、このあいだは名前を出しておきながら、話しませんでしたが、嵯柘の王太子殿は宦官となって、そのう……、陛下の寵愛を受けております。そういう話はお聞き及びでしたか」

「小耳にはさんで、真偽のほどを知りたいと思っておりました」

「事実です。その話を知って、囚われていた嵯柘の王妃様は王女様と末の王子様を連れて池に入水なされ、王女様ひとりが生き残りました。それが今の嵯柘夫人です。すでにお聞き及びかもしれませんが」

「それもちらりと小耳にはさんで、真偽のほどを知りたいと思っておりましたの。それならシウラン姫様はさぞおつらかったことでしょうね」

「ええ。そのときにはまだ十三歳の少女でしたもの。臥せったままの王女様を見舞ったとき、嵯柘太夫も見舞いに来て、自分もいっしょに逝ければよかったと嘆く妹に向かって言ったのです。『母上には怒りしかない』『死にたければ自分だけ死ねばよいのに、おまえや弟を道連れにしようとした』『わたしが宦官になっても、おまえたちがいれば王家の血を残せるのに』などというようなことを」

 皇后がリクシュン王子に悪感情を持っているようだと感じていたが、それが原因だったのかと、レアウレナエーは納得した。

 親孝行を重んじる洛帝国の道徳観からすれば、自分の所業が原因で母親を自害に追いやるなど、とんでもない親不孝。それを悔いるどころか自害した母親をなじるなど、冷酷非情な人物と感じても無理はない。

 だが、レアウレナエーにはリクシュン王子の気持ちもわかるような気がする。弟妹に期待をかけて、敢えて宦官となる道を選んだのに、母はその思いをわかってくれず、弟妹を道連れに自害しようとし、妹はかろうじて生き延びたものの弟は死んでしまった。その無念さが言わせた言葉なのではあるまいか。リクシュン王子とじかに話してみなければ何とも言えないが。

「嵯柘夫人には兄のせいで母と弟が亡くなったという思いがおありのようで、そのときには兄をなじって口論していましたが、体調が快復し、しばらくして成人の儀を終え、後宮入りを受け入れたときには、兄と和解しているようでした。その二年後に陛下の初めてのお渡りがあったあと、兄に諭されて民のために生きることにしたと言っていたのです。わたくしには嵯柘太夫が妹に因果を含めて利用しようとしているように思えました。ですが、ひょっとして、嵯柘太夫も民のために生きるという価値観の人なのかしら」

「会って話してみないことには何とも言えませんけれども……。宦官となって皇帝陛下に仕え、妹を後宮に入れ、自分と妹が陛下の恩寵を得られれば、属国となって心細い状態であろうサシャ王国の民たちのために何かできるかもしれないと、そう考えたのかもしれませんね」

 シウラン姫にもリクシュン王子にも会って話したいと、レアウレナエーは思ったのだった。

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