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沙蘭国の王女たち  作者: 立川みどり
洛帝国編
12/13

洛帝国編5

       5


 レアウレナエーが皇后たちとお茶会をしていたころ、セウネイエーは、講師のひとり石寿按や九人の留学生たちとともに馬房にいた。

 留学生とはいっても、人質を兼ねて周辺諸国から集められた王族の子女は、洛帝国で公務に就くための帝国学校の学生たちとともに学ぶわけではない。帝国学校は試験に合格しなければ入ることはできず、その試験は難しい。周辺諸国から来たばかりの人質たちにそのような難関を突破するのはまず不可能だろう。

 そこで、洛帝国の招きで来朝した留学生たちだけを対象とした学習塾が設けられており、セウネイエーもその学習塾に編入学した。そこで学問を積むうちに、帝国学校に入学したいと思えば、受験してもよい。

 もちろん諸外国からの留学生でも、自分の意思で来朝した一般の留学生たちは、洛人の学生たちと同じく、帝国学校を受験したければ、一般の予備校で学ぶか独学して受験する。

 そういう仕組みなので、セウネイエーとともに学ぶのは、周辺諸国の王族の子弟ばかりである。

 周辺諸国には、農業に適さないため、遊牧を生業とする国も多い。サラライナも、通商を主産業としながらも、食糧生産については農業より酪農と遊牧が主体である。そういった遊牧が盛んな国からの留学生たちには乗馬に長けた者が多かった。

 セウネイエーも、祖国で騎乗するのは砂鳥が多かったが、乗馬も得意だ。砂鳥の次に好きな動物は馬だった。

 彼女の目から見て、洛人たちの馬の扱いはひどい。彼女だけでなく、馬好きの留学生たちは皆、馬房や馬場の様子にいらついていた。

「みなさん不満がありそうですね」

 石寿按が苦笑とともにそう言うと、馬の世話をしている者たちに声をかけ、何点か注意した。彼は、遊牧の民に引けをとらないぐらい、馬の扱いに詳しいのだ。

「多牟加殿」

 石寿按に指名されたのは、キオグハンの王の息子だという若者だった。

「好きな馬を選んで乗ってみてください」

 洛の呼び方で多牟加、母国の呼び方でタムカイというその若者は、迷わず一頭の馬を選んだ。セウネイエーの目から見ても、気性は荒いが良い馬だった。

 その馬の扱いに手を焼いていた馬番たちは、ほかの馬にするようにと口々に忠告したが、タムカイは忠告を無視して、その馬にひらりと飛び乗った。馬は、怒ったように棹立ちになったが、すぐにおとなしくなり、タムカイに従った。

「見事だ」

 拍手する音に振り向くと、いつのまに来たのか、従者をひとり連れた男が手を叩いている。背が高く、筋骨たくましく、首を覆い隠すほど髭をたっぷりたくわえた男だ。

「巌王殿下」

 石寿按が拝礼し、一瞬遅れて馬番たちがそれに倣う。タムカイが急いで馬を降りて拝礼し、留学生たちも次々にそれに倣った。セウネイエーも最後に頭を下げた。花嫁行列を邪魔した男だとわかって、内心で反抗心が沸き起こったが自制した。

「母の故国の王子が入学したと聞いて、様子を見に来たのだ」

「恐縮です」

 タムカイが答えたので、巌王の母がキオグハンの出身だと、セウネイエーにもわかった。

「巌王殿下の母君、姜夫人は、わたくしの父、キオグハン王の姪にあたると聞いております」

「おお、そうか。では貴公は俺のいとこなのだな」

 タムカイが破顔した。

「さすがに佼虞の王子だけあって、馬の扱いがうまい」

「恐れ入ります」

 タムカイが礼を述べながらも、かすかに顔を曇らせた。巌王が「キオグハン」ではなく「佼虞キョウグ」と洛風の呼び方をしたことで、キオグハンの王族の血を引いていても、やはりキオグハンではなく洛帝国の皇子なのだという落胆を覚えたのだ。

 彼が一瞬見せた落胆の表情に、セウネイエーも石寿按も気づいたが、巌王は気づかなかった。もし気づいたとしても、気に留めなかっただろう。もともと他人の心情を気に留める性格ではなく、ましてタムカイは目下なのだから、なおさらだ。

「わが国の者は、武人や馬番でさえ、馬の扱いがなっていない者が見受けられる」

 巌王が馬番たちをじろりと見渡し、馬番たちが首をすくめた。

「留学生たちだけでなく」と、巌王が石寿按を振り向いた。

「わが国の若者たちにこそ、馬術に習熟してもらわねばな。先日ここに来た時には二学年目の者たちが授業をしていたが、この佼虞の王子の半分も乗れる者はひとりもいなかったぞ。今年の入学生たちはどうなのだ?」

「学生たちは文官を目指して勉強してきた者がほとんどですから、入学後すぐに武術や馬術の才を期待するのは難しゅうございます。学んでいくうちに、おいおい上達してまいりましょう」

「ふん」と、巌王が鼻を鳴らした。

「そこが気にくわんな。武よりも文を重んじるにもほどがあろう」

「帝国学校の学生たちについては仰せの通りでございますが、若者たちの登竜門は帝国学校だけではございません。兵士養成所にも多くの若者たちが集まってまいります。こちらは武術に長けた者たちばかりです」

「だが、兵士養成所を出た者は、帝国学校を出た者よりも低く扱われる。おおかたは歩兵。よくて近衛兵。軍を率いる地位にはめったにつけない」

「兵士養成所の若者でも、軍略の才ありと期待された者は帝国学校でも学びます。帝国学校の若者たちも馬術や武術を学び、そちらの才覚を伸ばす者はいくらもございます。そのようにして文武両道に秀でた者は珍しくございません」

「ふん。文官を目指す者の武術などたいしたことはあるまい。御前試合で目立つぐらいはできても、実戦では役に立つまい。おい、そこの文官」

 巌王がいきなり学生たちのほうを指さして呼びかけた。学生たちは驚いたが、背後の足音に、自分たちの後ろにいた者が呼びかけられたのだと気がついて振り向いた。

 そこにいたのは予想外の人物。董玄焔だった。

「通りすがりのようだが、ここに来るからには馬に興味があるのだろう? きさまは馬に乗れるのか?」

 巌王の問いかけに、セウネイエーは内心で驚いた。巌王は玄焔が沙蘭国への使節団の副使だったことを知らないのだろうか? 遠方に派遣された者が馬に乗れないはずはないだろうに。いや、それ以前に、この皇子は、自国の有能な人材を把握していないのか?

「いちおう乗れます」

 玄焔が驚くほど控えめな返答をした。

「ふん。いちおう、か。これだから文官は困る。いくら文官といえども、この佼虞の王子の半分ぐらいは乗れなければな」

「肝に銘じておきます」

 半分どころか、どう見ても多牟加より董玄焔のほうが馬術は上だろう。だが、玄焔は、自分の実力を巌王に認めてもらいたいという気はないようだ。というより、巌王に自分の能力を隠したがっているように見える。

 石寿按が困ったように目を泳がせ、玄焔と視線を交わすのを見て、石寿按もそれをわかっているのだと、セウネイエーは判断した。

「おまえもだぞ、教師」と、巌王は石寿按に向かって言った。

「仮にも教師なら、生徒に恥ずかしくないよう鍛錬しろよ。いかに文官といえどもな」

「肝に銘じておきます」と、石寿按が目を伏せた。

 ここに至って、セウネイエー以外の生徒たちも、何か変だと気がついた。彼らは、玄焔とは初対面なので、彼が馬術にも武術にも優れていることは知らなかったが、石寿按が文武両道に優れた師匠であることはよく知っていたからだ。

 なかでもタムカイは内心で動揺していた。皇子に高く評価されれば有利だと思っていたが、違っただろうか? 巌王は嫌われているのか? キオグハンの血を引いているからか? 巌王に目をかけられることによって、石寿按をはじめ、さまざまな人々に疎まれるということはあり得るだろうか?

 巌王が去って行ったあと、石寿按に質問したいと思ったが、内容が内容だけに、どう尋ねてよいかわからない。

 困っていると、石寿按のほうがタムカイの困惑に気がついた。生徒たちが巌王を見送るときの好意的とは言い難い視線にも。

「誤解のないように言っておけますが、巌王殿下はよいお方です。自分に正直で、裏表がなく、優れた武人でもあられます」

「でも石先生を侮辱しました」

 顔を赤らめて異議を唱えたのは湘梨芳。母国での名はリムファン。南西の山岳地帯の小国、湘の王女である。

「石先生のことを知りもしないのに、文官だからといって馬術や武術が劣っていると決めつけました」

「たしかに巌王殿下は文官に偏見をお持ちです。けれども、文官たちに武を軽んじる者が多いのも事実です。巌王殿下はそれを憂えておられるのです」

「でも、だからといって、反論もせずに言いたい放題言わせておくなんて」

「あー、梨芳姫。皇族の方の言葉には反論しないのが賢明です。まず、それを原則として覚えておきなさい。それと、当人がいない場での批判も避けるように。今は、この場にいる洛の官吏は私と董玄焔殿だけなので心配いりませんが、相手によっては、まずいことになるかもしれません。自分の身を守るためにも、自国の立場を悪くしないためにも、口にはくれぐれも慎重に」

「あ、はい」

 リムファンは、先ほどとはまた別の理由で顔を赤くした。自分の軽率さに気づいたのだ。石寿按には信頼と尊敬の念を抱いており、他の留学生たちには仲間意識を感じていたので、つい気を許して自分の思うままのことを口にしてしまった。が、よく考えてみれば、ここには見知らぬ官吏がひとりいたのだ。石寿按が心配いらないと保証してくれた人物だからよかったものの、そうでなかったらまずかった。

「誤解のないように言っておきますが、巌王殿下はけっして無体な方ではありませんよ。ご自分の言葉に言い返されたぐらいで激高する方でも、怒りに任せて厳しく処罰しようとする方でもありません。もっと器の大きな方であらせられます」

「では、なぜ……」

 リムファンがどう尋ねたものかと迷い、石寿按がどう答えたものかと迷っているようなのを見て取って、セウネイエーが口を挟んだ。

「巌王殿下は、文官が自分より強いとわかれば、気を悪くなされるお方なのでしょうか」

「いいえ。武官にはそういうお方もおられますが、巌王殿下はそのような器の小さなお方ではありません」

「では、巌王殿下に能力を認められれば不利益となるような、そういうことはございますか?」

 タムカイが思わず身を乗り出し、内心でセウネイエーに感謝した。石寿按と董玄焔が巌王に自分の能力を見せようとしないので、巌王に馬術を褒められたことが心配になってきていたのだ。

 皇子に認められれば有利だろうと思っていたが、違うのかもしれない。巌王に認められることが不利益となるようなことがあるのかもしれない。派閥争いのようなことがあって、別の誰かの不興を買うとか、そういったことがあるのかもしれない。

 そんな危惧を抱いたのだが、どう尋ねたものかわからず、困っていたのだ。そんなタムカイの様子には、石寿按も気がついた。

「不利益というのが、派閥争いに巻き込まれるとか、別の誰かに睨まれるとか、洛帝国の宮廷内で立場がまずくなるということなら、そういうことはありません。巌王殿下はそういった政争とほとんど無縁のお方です。ただ……」

 石寿按は少し考え込んで言葉を続けた。

「わたしが自分の能力を巌王殿下に伏せておこうとしているようだというので、そういうふうに思われたのかもしれませんね。巌王殿下は裏表のないまっすぐなご気性のお方ですが、やんごとない身分のお方だけに、あー……、ご自分の好意が相手の負担になるかもしれないとか、迷惑かもしれないとはお考えになられません。そういう微妙で私的な感情の問題であって、政治や権力争いが関わるようなことはいっさいありません」

 生徒たちは頷いた。皇子という身分なればそういうこともあろうかと思えたし、先ほどのタムカイに対する褒め方を思い出せば、納得がいったのだ。石寿按や董玄焔を見下すときに引き合いに出されて、タムカイが困惑していることに、生徒たちは気がついていたが、巌王は気づいていなかったようだ。悪意がなかったのなら鈍感なのだろう、と。

「これはここだけの話です。他言しないでください。へたをするとわたしの首が飛びますから」

 そう言いながら、石寿按は、何か言い足りないと思っているような表情をした。少なくともセウネイエーにはそう見えた。

「あー、多牟加殿、もしも巌王殿下に気に入られたために困った事態になったら、遠慮なくわたしに相談してください。もちろん、多牟加殿に限らず、どなたでも、人間関係などで困ったことがあれば、遠慮なく相談してください。内密のことでも、わたしもいっしょに解決策を考えますから」

 石寿按の言葉は、セウネイエーには奇妙に思えた。生徒たち、とくにタムカイを心配して言っているのだというのはわかったが、巌王が政争と無縁の人物だというなら、いったい何を案じているのだろうか?

 その疑問を口にする前に、石寿按が董玄焔を振り向いて尋ねた。

「ところで、董殿は何をしにこちらに?」

「たんなる通りすがりです。非番なので、後宮勤めを始めた妹がちゃんとやれているかどうか、ちょっと様子を見てみたいと思いまして」

 もちろん皇帝と宦官以外の成人男子が後宮に入ることはできないが、面会を申し込んで許可されれば、後宮のすぐ外に設けられた面会室で会うことができる。

「お会いになれましたか」

「今は無理でした」

「女官ですか?」

「いえ、侍女です」

「侍女の兄となると、なかなか難しいかもしれませんね。変に勘繰られるかもしれませんから」

「うーん。文官章を見せたのですがね」

 文官の身分証明となる文官章には、氏名が刻印されている。それを見て記録と照合すれば、新しく入った侍女の兄だとわかるだろうと思ったのだ。

「面会希望者として記名して来ましたから、日を替えてまた行ってみますよ」

 意外に妹思いなのだなと、セウネイエーは思った。油断ならない人物と警戒していたが、妹には甘くて心配性なのだろう。そんな玄焔の一面には好感を覚えたので、セウネイエーは思わず口を挟んだ。

「今日の授業が終わったあと姉を訪ねるつもりですから、同行してはいかが? まちがいなく侍女の兄だと証言できますよ」

「だめです!」

「とんでもない!」

 石寿按と玄焔が同時に叫んだ。

「え? なぜ?」

「未婚の姫君が身内でも宦官でもない男を連れて外出するなど、よくない噂が立ちます」

「よくない噂?」

 つかのま考え込んでから、セウネイエーは怒りで顔を赤くした。

「ひょっとして、身元保証のために後宮の入口まで同行するという、ただそれだけのことで、わたしと董殿の仲をいやらしく勘繰って噂する者がいるということですか?」

「それが最もありそうな噂ですね。後宮というのはそういうところです」

 石寿按が穏やかに説明した。

「あきれた。で、『最もありそうな噂』ということは、それ以外の噂も出るかもしれないということですか」

「後宮は政治と無縁ではありませんからね。今のお話からすると、董殿の妹御が麗蓮妃様付きの侍女に上がっているということなのですよね? そこから、董殿が麗蓮妃様に取り入ろうとしていると勘繰る者がいるかもしれませんね。董殿が沙蘭国に派遣された使節団の副使だったと知っている者ならなおさらでしょう」

 そちらのほうが、セウネイエーには理解しやすい勘繰りだった。姉が董春華を侍女としたのは、彼女に共感し、その人柄を気に入ったからではあったが、彼女を介して董玄焔を味方にしようという意図もないわけではない。接近をはかっているのは玄焔ではなく自分たちのほうではあるが、両者の癒着を勘繰るのは、まあ妥当だろう。

「妹に会えないこと自体は、べつによいのです」と、玄焔が口を挟んだ。

「ただ、とんでもないお転婆なので、皇妃様にご迷惑がかかることをしないよう、釘を刺しておきたいと思いまして。道中で注意はしておいたのですが、後宮のような場所では、いっそう何かしでかさないか心配で」

「どうして? 春華はいい侍女ですよ。よく働くし、姉もカウリンも気に入っています」

「あ、いや、まあ、働き者だろうとは思いますが。ただ、高貴な方の侍女を務められるようなしつけをまったくしておりませんのが心配なのです。そういう想定をせず、つい護身術など教えて、男の子のように育ててしまったもので」

「そのおかげで彼女は無事だったのですよ。いやな男に押し倒されそうになったら、股間を蹴飛ばして逃げるぐらいあたりまえでしょう? それのどこが悪いの? 女は無体な真似をされても無抵抗でいなければならないとでも言うつもり? 妹がかわいくはないの?」

 都に着いてから人前では上品な話し方をするよう気をつけていたが、怒った勢いで、気の強さが言葉に出る。

「いや、あの件については、護身術を教えておいてよかったと思っていますが」

「では、何が心配?」

 そう言ってから、セウネイエーは、はたと思い当たった。

「ひょっとして、皇帝陛下に押し倒されそうになって股間を蹴飛ばすとか、そういうことを心配しています?」

「恐ろしいことを言わないでください!」

 いつもは冷静沈着な玄焔だが、さすがにそれは想像するだけでも恐ろしい。石寿按や留学生たちも目を丸くし、吹き出しそうになるのを懸命にこらえている者もいる。

「そういうことは考えてもいませんでしたよ」

「そうなの?」

「あれほどの絶世の美女を前にして、そばにいる侍女が陛下の目に留まるなど、まずあり得ないでしょう?」

「あ、それもそうね」

「わたしが心配しているのはそっち方面の護身術ではなく、あの気の強さから、後宮の女官とか宦官とか、他の妃嬪方の侍女などと悶着を起こさないかということです。意地の悪いふるまいなどに対したとき、粗暴な言動に及ばないか心配なのです」

 皇帝の妃嬪の全員が皇帝の寵愛を競うのに積極的というわけでもなかろうが、それでも、皇妃に次ぐ地位にある夫人たちのなかには、皇妃への昇格を期待していたのに、新入りの麗蓮妃が皇妃として迎えられて心穏やかでない者が何人もいるだろう。本人以上に実家からついてきた侍女たちが麗蓮妃に競争心を抱き、春華のような宮仕えに慣れていなさそうな侍女に意地悪をするということはじゅうぶん考えられる。

 夫人たち以上に気にかかるのは蓉妃だ。玄焔は彼なりの情報網を持っているので、第二皇子の暁王やその生母の蓉妃が野心家であることは掴んでいる。蓉妃にとって、麗蓮妃は、皇帝の寵愛や後宮での勢力を争う競争相手。蓉妃や彼女の侍女などが麗蓮妃に敵愾心を示したとき、春華がへたに言い返したりすれば、攻撃目標にされ、まずい立場に立たされるかもしれない。春華本人だけでなく、麗蓮妃も困るかもしれない。

 蓉妃については、セウネイエー姫に警告することも考えたが、すぐに思い直した。セウネイエー姫は春華以上に気が強いから、うかつなことを言うと、蓉妃に敵愾心を持って、まずい行動をとるかもしれない。

 そう思っていると、セウネイエー姫が口を開いた。

「後宮に、意地の悪いことをする人がいるだろうというのね。それぐらいは想定内だわ。春華が腹を立てる前に、ねえさまやカウリンがうまくあしらうでしょう。心配することはないわ」

 虚を突かれて、玄焔はセウネイエーを凝視した。

「失礼しました」

 サラライナでこの王女たちを敵かもしれないと思って警戒していたときには、彼女たちの能力を見くびることなどなかったのに、レアウレナエー姫が命の恩人かもしれないと知り、さらに妹を助けてもらって警戒心が薄れると、自分が守るべき姫君たちという気がして、つい過小評価してしまった。

 レアウレナエー姫は、諜報活動の経験もある玄焔を出し抜けるほど、演技力のある女性だ。セウネイエー姫は気が強いし、若いだけに直情的なところもあるが、大国の平和な村で生きてきた世間知らずの春華とはまったく違う。後宮の女性たちのいやがらせを想定内のこととして切り抜けるだけの冷静さも判断力もある。

 洛帝国とキオグハンという二大強国をはじめ、その影響を否応なく受けた多くの国々に囲まれた小国サラライナを守り抜いてきた王女たちなのだ。よけいな心配は僭越だろう。

 それでも、蓉妃の動向は気にかかったし、春華がよけいなことをしないかという心配がなくなったわけではないが、これ以上の口出しはするまいと、玄焔は思った。

「妹のこと、お任せいたします。迷惑なことをすれば、遠慮なく叱りつけてください」

「わかりました。姉にも伝えておきます」

 セウネイエーは微笑んだ。互いに敵かもしれないと思い、警戒していた時には見せなかった柔らかな笑みだった。


 玄焔が立ち去った後、留学生たちがざわざわして落ち着かないので、石寿按は、馬房での授業を終了して、教室に戻ることにした。

 董玄焔には授業を邪魔されたような形になってしまったが、その一方で、生徒たちの緊張をほぐしてくれたとも思う。留学生たちは人質でもあるので、状況によっては殺されることもあり得るという不安と恐怖で神経を尖らせていたのだが、星寧姫と董玄焔の会話に意表を突かれ、驚いたり面白がったりしているうちに、その不安や恐怖をしばし忘れているようだった。

 女子生徒たちは痛快と感じたらしく、おもしろがったり喜んだりしているようだが、男子生徒たちは、おもしろがっている者もいるようながら、たじろぐ気持ちのほうが強そうだ。めったにない星寧姫の美貌に見とれていたところ、とんでもなく気の強い少女だとわかって愕然としたのだろう。

 それに石寿按は、玄焔の言動にも少なからず驚いていた。彼の知っている玄焔は、諜報活動を伴うような仕事でも能力を発揮してきた能吏である。つねに冷静沈着で、縁談を持ち掛けられても断り、仕事ひとすじに生きているという印象が強い。

 その彼が妹にいささか過保護なのも意外だったが、麗蓮妃と星寧姫に対して深い敬意を持ち、親身に心配しているようなのにも驚いた。

 麗蓮妃のことを「あれほどの絶世の美女」と言っていたが、女性の美貌に関心を示さなかった男にそう言わせるほどの美女なのだろうか? 後宮の美女など皇帝以外の男が目にする機会はめったにないが、玄焔は使節団の副使だったのだから、間近に対面する機会もあったのかもしれない。それほどの美女ならひとめ見たいものだという好奇心をそそられる。

 それと同時に、玄焔が麗蓮妃と星寧姫に一目置いているのは、美貌のためでも後宮内の地位によるものではなかろうという点にも興味を引かれた。玄焔が敬意を払っているのは彼女たちの才覚だ。先ほどの星寧姫の言動からも、彼女がだいじに育てられた姫君とは違うのだとよくわかった。彼女を指導してきたと思われる麗蓮妃は、さらに器の大きな女性だろう。

 その面でも、本来なら女王となる運命だったはずの麗蓮妃に興味が湧いた。


 セウネイエーは、その日、姉を訪ねた際、カウリンさえいないふたりきりのときを見計らって、馬房でのできごとを詳しく姉に話した。石寿按は他言しないようにと言っていたので、侍女たちのいるところで話すのは避けたが、姉だけは特別だ。

 セウネイエーが話し終わるのを待って、レアウレナエーが口を開いた。

「董殿が気にしているのは、蓉妃様のことでしょうね」

 そう言って、レアウレナエーは、皇后の茶会に招かれたときの話をした。

「蓉妃様は油断ならない方という印象を受けました。董殿も、そういう情報を掴んで警戒しているのでしょう。もっとも、単純に、わたしが皇妃となったことによって昇格しそびれたと感じている夫人やその侍女が、わたしの侍女に意地悪するかもしれないという心配かもしれませんが。たぶん、その両方でしょう」

「春華やサムピナは、そういう人に狙われやすそうですね。年が若いし、後宮勤めのようなことに慣れていなさそうだし」

「ええ。できるだけ、ひとりで出歩かせないようにしましょう」

「それにしても」と、セウネイエーは話題を変えた。

「巌王のことは、どうも腑に落ちません。石先生も董殿も巌王に自分の能力を隠したがっているように見えました。敵だと思って警戒しているのならそれもわかるのですが、そういうわけではなさそうなのです。タムカイが巌王に目をかけられたことも心配しているようでしたし」

 レアウレナエーは少し考えてから言った。

「巌王は、輿入れ行列を止めたとき、『女に興味がない』と何度も言っていましたね」

「そういえば、そういうことを言っていましたね」

「つまり、そういうことなのでは?」

「え?」

 セウネイエーはつかのま姉の言う意味をはかりかねたが、しばらくおいて気がついた。

「あ、そういうこと?」

 それなら、石寿按や董玄焔が巌王に関心を持たれたくないというのも、石寿按がタムカイを心配するのも合点がいく。

「問題は、それが巌王の生来の性癖なのか、それとも文化と思い込みによるものなのかということね」

「どういうことですか?」

「洛帝国での女性の地位は低く、とくに上流階級の女性は、か弱くてしとやかで、男に従順であらねばならないとされていますね。巌王は、文官はみんな武術が劣っていると思い込むほど偏見の激しい人のようですから、女性はみんなか弱くて劣っていると思い込んでいるでしょう。しかも武術に重きを置いている人だというなら、女性は弱くて劣っているから興味が湧かず、恋の対象にもならない。そう思い込んでいる可能性がありますね」

 セウネイエーは頷いた。たしかに巌王は、そういう人物にも思える。

「だとすれば、武術に長けた女性を目にすれば、それまでの反動で強い関心を持つかもしれません。巌王が留学生たちの様子を見に来ることがまたあるかどうかはわかりませんが、もしもまた来て、女性を見下すような発言をしても、自分の武術の腕を見せてやろうなどと考えてはいけませんよ。迷惑な好かれ方をしたくなければ」

 セウネイエーは激しく頷いた。巌王にそんな好かれ方をするのは絶対にいやだ。彼に自分の実力を隠そうとする石寿按や董玄焔の気持ちがよくわかった。

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