「こぼれ落ちた稲穂」
初めまして。
初めまして。
初めまして。
始めます。
「」
誰かの叫び声が聞こえるか。
「」
それはさも、子を呼ぶ母の声。
「」
それはさも、悪魔のような嘲り。
「」
それはさも、オスの怒号。
命は移ろいやすく、家は燃えやすい。
その家がたとえ城であったとしても
その命がたとえ鉄人のものであったとしても
炎は一切の躊躇なく、一切合財焼き尽くす。
1526年 ラシーヌ公領主館
厳かに、そして質素に佇む石作の館。
築100年はあろう、その大きな館が今燃えている。
炎は、大きく渦巻いて生きているようだ。
館の外壁は大きく炎上し、倒壊する。
中から人が悲鳴をあげて、そして息を吸うために炎を肺に取り入れる。
その永続的な苦しさから解放したいと願って、外へ身を投げ出す。
死体の山は、累々と積み重なり、地獄のような悲惨さだ。
しかし、館の最上階までには炎は到達しておらず、未だ当主の間は無事だ。
当主の間にて、石作の館の主人が槍を持って威容を持って座っている。
かたや、一人の青年が、主人に対して懇願していた。
「お逃げください!レイアード様。あなたが生きていればラシーヌ家は復興できます。」
鬼気迫る声色で主人に訴える青年。
しかし、主人、レイアードはそれを受け入れない。
眉を動かさず口を開いた。
「いいか、貴様は若いながらも我が家の近衛隊副隊長を務めた。今、その義務を果たすときだ。」
主人は、諭すようにはっきりと言った。
「もし私が逃げようものなら、あの化け物どもが追っ手を飛ばすに違いない。しかし、私がここにいれば、追っ手を飛ばすにもある程度の人数は割けるだろう。」
主人は青年の懇願を聞かない。聞く気もない。
自分の運命をすでに決定している。そこには確かな覚悟があった。
青年はその言葉を、覚悟を、歯を食いしばって、聞くしかなかった。
表の炎は勢いを増して、熱がぞろぞろやってくる。
怪物たちが炎の中を徘徊している音が響く。
低い、羽虫のような音。
蜂のように鋭い殺気が館を取り巻いていた。
そんなことは知らんとばかりに主人は厳かに剣を取り出す。その剣は、銀の装飾で象られ、柄には白い宝石が一つはめられている。
「奥の間に家内もいる。あいつには悪いが私とともにいてもらうが、我が子をお前に託す。」
剣を青年に託す。
青年は、恐る恐るその剣を受け取る。
窓の外は真っ赤に、夕焼けのように燃えている。
熱も階段を登って、頬に伝わってくる。
バケモノが近づいてくるのを肌で直感する。
もはや青年は暑さを覚えず、ただひたすらに冷や汗をかく。
そんな空気を吹き飛ばすかのように、主人は槍を大きく地面を叩いた。
「いいか!モーリスよ。ラシーヌ公は不滅だ、あの子がいればな。」
全てはその言葉に詰められていた。
乾いた、強く響いたその声に、青年はやっと覚悟を決めた。
「・・・はい、今まで本当にお勤めご苦労様でした。」
それは、青年が主人に対する最後の言葉だった。
モーリスは奥の間に駆け込んだ。
勢いよく扉を開けると、そこには慈母のように子供を抱きかかえる女性がいた。
子供は、外のことなんか気にしないで、母の腕の中でただ笑っており、母はその子の頬を、ひたひたと触っている。
しかし、母の目はどこか遠い目をしていた。
遠く、遠く、流れる川を見るかのように。
モーリスは、声をかけるか一瞬だけ躊躇するも、すぐに跪いて重い口を開ける。
「奥様!・・・お時間です。」
その言葉が届いているのかわからないほど、女性は無反応だった。
時が止まったかのように、美しい彫像のように、女性は微動だにしなかった。
しかし、ゆっくりと顔をモーリスへ向ける。
その所作の一つ一つが、モーリスにとって聖母のようだった。
とっさにモーリスは頭を下げる。
「そう、時間なのね。モーリス。最後の最後にあなた頼りになってしまったわね。」
モーリスは顔を伺うと、やはり女性は遠い目をしている。
突然、胸をかき混ぜられたかのような感情になった。
胸の奥から這い上がるこの嫌悪感。拒否したい感情。
全ての欲望が今更になって湧き上がってくる。
モーリスは、かつてないほどに欲望からの呼びかけを聞いたことはなかった。
でもその欲望を聞いてはいけないことは、覚悟が知っていた。
「いえ、この身とこの魂は全てラシーヌ家、並びにあなた様のためにあるのです。」
そんな畏まったことをしなくていいのよ、と女性はゆっくりとモーリスに近づく。
なんて美しい顔なんだろうか。それが自分の死を覚悟した者の顔なのか。
ああ、どうしてこんな顔ができるのか。
恐れてほしい、今何が近づいているのか。
せめて命を大切にして欲しかった。なんのために自分はこの家に仕えたのか。
全てが崩れていく感覚がする。耐えきれない。
しかし、そんな心境関係なしに、女性は腕の中で笑う子供をモーリスに預けた。
「この子のことを頼みましたよ。モーリス・ガニエ。あなたが私たちに使えた真の意味を考えなさい。」
モーリスは、ただその言葉に涙を流すしかなかった。
赤ん坊の泣き声がただひたすらにこだまする。
でもきっと、心の声は、赤ん坊だけではなかったはず。
外は表の炎で明るく、あたりに広がる草原は闇に囲まれて恐ろしいよう。
モーリスは、後ろの二人を気にすることはもうしない。
気にしたら死ぬ。そんな予感が漂っていた。
窓に足をかけ、勢いよく飛び出した。
あらゆる感情を窓枠にぶつけた。
最上階から落下し、音が下から上へと登る。
内臓の浮遊感を感じる頃には、地面に着地した。
モーリスは、後ろを振り向こうとするが、ぐっとこらえて目の前にある石垣を越える。
駆ける、駆ける、カラスよりも早く。
どこかで男の怒号が聞こえた。
金属音が軋む音と同時に消えた。
女性の悲鳴が聞こえた。
羽虫の嫌な音が聞こえる。
肉が断たれる音が滲むように響いた。
悲鳴はすでに幽玄の彼方へ。
恐ろしくて胸が張り裂けそうだ。想像力はどうしてこうも優秀なのか。
想像力と戦いながら、モーリスは草原を駆け抜ける。ただひたすら走って、走って、命が燃え尽きるほどに走った。
考えるな、走れ!
その俊足を持ってラシーヌ公に仕え、そして近衛隊副隊長にまで登り着いた彼。
しかし、今はそんな肩書きは意味はなく、ただひたすら走る只人だ。
只人ならば走れ!考えるな!
後ろから、複数の気配を感じる。
それは自分への追っ手だろうか。
羽虫のような音がジリジリと、近づいてくる。
金属音のようなものが、ある周期で軋んでいるのを耳にした。
しかし、それを気にしてはいけない。モーリスはしっかりと前を見据えて走る。
嫌な汗がヒタリヒタリ、背中をつたう。
震えが足から毛の先まで伝導する。
後ろから追いかけるものは、おそらく主人と奥方を殺した怪物たちだ。
でも、復讐心なんか湧いてこなかった。
あるのは、命が削れるような焦燥感。
頭が溶けるような想像力。
周りの音なんて聞こえない、赤ん坊の寝息と、羽虫の音、金属の音。
思い出すのは、悲鳴と肉の音、怒号。
もう遺言なんて覚えていない。
目にはいるのは、暗闇の草原。
草原は、前から後ろに流れていく。
鬱蒼とした草原が、無機物になって冷たい。
いつも走り回るこのあたりが、こうも恐ろしいものだったのか。
現実とは、こうも崩れて、流されていくものだったのだろうか。
「夜明けはまだか、街の光はまだか、一体俺はどこまで走ればいいのだろうか。」
彼はつぶやくことしか知らない。
彼は祈ることしか知らない。
恐ろしい夜は、自分の足で越さねばならない。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
一体どれくらい走ったのだろうか。
モーリスはすっかり力尽きて、ついには倒れてしまった。
右手は化物に持っていかれてしまった。
赤くしたたる線が道を作る。
浅い呼吸が、さらにモーリスの視界を曇らす。
母乳を求める赤ん坊の声があたりに虚しく溶けていく。
気づけば音はなくなり、モーリスは目的地であり、そしてその赤ん坊にとって始まりの場所である「セアモン領」へたどり着いた。
追ってはもういない。
暖かな朝日が登る、
後ろには草原が広く広く続いていた。
モーリスは長い眠りについた。右腕はもうない。
せめて、この子供に幸があらんことを。
「クリス、トフ、坊ちゃん。少し待っててくださいね。お母様が、今あなたに乳をお与えになる、はず、です。」
彼は、残された左腕で、赤ん坊を撫でた。無邪気に笑う子供。美しい女性の子供。
全てはこの溢れた命から、物語は始まる。
その命の名前は「クリストフ」。
終わりまして。
続きます。
続けるかは、わかりませんが。
続きます。