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───安倍満月は十五歳で遣唐留学生になった。
俊才の誉れたかい阿部仲麻呂が唐に渡ったのが十九歳のときであるから、彼がどれほど日本の朝廷に期待されたかがわかる。
満月少年の唐への渡海は、壮絶の極みだった。
難波を出港した遣唐使船は、大陸との中継地である阿古奈波にいたるまでに、大きな嵐に遭遇する。
帆が裂け、柱が砕け、舵を失い、多くの留学生が暗い海にひきずり込まれた。
なんとか阿古奈波島にたどり着き、そこで船を修復した一行は東シナ海に出港───そして、また彼らは不幸に見舞われる。
日本と敵対していた新羅の、半ば海賊化した軍船に拿捕された。
命までは奪われなかったが、朝献品と水と食料を根こそぎ持っていかれてしまう。
遣唐使船は、さながら難民船のようになって明州の望海鎮に流れついた。阿部仲麻呂や吉備真備らの乗った第七回遣唐使船が難破し、漂着した地である。
多くの不幸にあいながらも、唐土を踏んだ満月たちは、京師長安を目指す。
───だか、そこで彼らを待っていたのは、いままで以上の不幸であった。
大規模な武力反乱が起こり、長安は賊軍の有するものとなる。蹂躙され、凌辱され、瓦解され焦土と化していた。皇帝玄宗も遠く南の成都へ遁走する始末。
ほどなく京師は名将郭子儀によって奪還されたものの、満月は復興した都の大学で留学生として学ぶことも、科挙を受けて唐朝に仕官することもしなかった。
彼は、学徒になることも文官になることも拒んだ。
そのようなものは戦乱の中にあっては無力でしかないことを、目のあたりにしたからである。
───満月は長安を飛び出した。「平和」の上にあぐらをかいて生きるのはまっぴらごめんだ、そう悲嘆にくれて……と、いうわけではなかった。
実のところ、彼は大陸の武術にぞっこんほれ込んでしまっていたのである。
武芸を磨くために、五年の歳月をかけ、大陸を放浪した。剣、刀、矛、槍、棒、鉞、戟、弓、弩、盾などなど、いわゆる「武芸十八般」を会得して京師に戻った満月は、表向きは骨董商、そして裏では金を積まれれば、誰でも手にかける暗殺稼業をおこなっていた。
彼の手でその命を絶たれた者は庶民、朝廷の要人問わず数え切れない。
生来感性のつよい彼が、人生においてもっとも多情多感なときに、血反吐を吐くような数多の艱難辛苦を味わった。ゆえに仏教、道教、儒教、景教、回教───どの宗教も彼は信じない。
信仰心などくそ食らえ。加護も天罰もしょせんは人心の作り出すもの。ありがたがったり、恐れ慄いたりするほうが馬鹿げている、とつねづね吐いている。