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二足歩行のラミちゃん

作者: 山崎 あきら

 地球の生物で直立二足歩行をするのは人類だけです。ところが最初の人類がなぜ直立したのかについては決定的な仮説がありません。当たり前ですね。人類の他にはこんな無理な姿勢で歩く動物はいないのですから。そこでタイムマシンがあれば、直立二足歩行が始まる時代に行って見ることができるわけです。

 須藤あゆみは長袖のポロシャツとジーンズの上に源田次郎博士が用意した放射線防御用の鉛入りエプロンを前後に繋いでワンピース状にした物を着せられていた。

 博士が離農した牧場の牛舎で自作したというタイムマシンは過去へ跳ぶためのエネルギー源として反物質と正物質の対消滅を利用するのだが「陽電子と電子が対消滅するとそのすべてがガンマ線に変わるので、特に女性や年少者には被爆させたくない」とのことだった。

「先生、これはどうしても着なくちゃいけないものなんですか」

 長い時間ではないという話なので重いのは我慢するとしても前に回したウエストバッグの上からなので少々太って見えてしまう。かといって、年寄りとはいえ、男性と二人で時間旅行となると痴漢よけの唐辛子スプレーを入れたウエストバッグを手放すわけにもいかないのだった。

「我慢したまえ。中性の騎士の甲冑は何十キロもあったというぞ」

 博士の方はいつものグレーの作業服上下スタイルである。この人は量子力学の博士号持ちなのだが、そういう格好だとどこかの工務店のベテラン作業員にしか見えない。

「ジャンヌ・ダルクになるつもりはないんですけど」

「いやなら・・・」

「だいじょぶです! だいじょぶです! 最近ちょっと体重が増え気味だからちょうどいいです」

「・・・・・・」

 博士としては、本来一人乗りで、しかも短時間とはいえ放射線が発生するような乗り物に他人を乗せたくはなかったのだが、食料などの買い出しを頼んでいたあゆみにタイムマシンがホバリングしているところを見られてしまい、原則として日本の領空を飛ぶすべてのものを管理することになっている航空法に違反する可能性を指摘されて、共犯者になることを許可するしかなくなったのだった。要するに押しかけ共犯者である。

「えー、今回の実験の目的は過去に干渉する事によって未来がどう変化するのか、あるいは変化しないのかを観測することとする。実験の手順は、タイムマシンで30時間前に戻り、発生するはずの万馬券を購入・換金した後、今日に戻ってレース結果や配当金の変化を調査するものとする」

「はい、先生」

 あゆみが元気よく手を上げた。

「それは八百長とか詐欺とかにならないんですか」

「独自の予想に従って馬券を購入するのは正当なギャンブルであり、何ら違法性はない。臨時収入が発生したとしてもタイムマシンの製造にかかった資金を回収できるほどではないしな」

「それと、タイムパトロールに見つかったらどうするんですか」

「わしがやろうとしていることが違法であるのならば、タイムパトロールはわしがタイムマシンを完成させる前に阻止すれば済む。それが行われなかったということは、タイムパトロールは存在しないか、あるいはわしらの行為は容認されているという事じゃ。心配する事はあるまい。もしもタイムパトロールが現れたら『無理矢理乗せられた』と証言しておけばいい」

 それくらいは覚悟している博士であった。

「他に質問は? なければ出発しよう」

 博士は中華鍋を上下に重ねたような形状のタイムマシンの後部パネルに乗った。アルミ板のたわみを気にしながら四つん這いで中央のハッチに向かう。フレームを入れておけば立って歩けるようにできたはずなのだが、どうやってコクピットにたどり着けばいいのかという問題に気が付いたのは機体がほぼ完成してからだったのだ。人間が乗って空を飛ぶものの設計は初めてだった博士である。

 ハッチを開けた博士は、スクラップの軽自動車から外してきたシートの肩の部分、アームレストと足を運んでシートの座面に立つとあゆみに向かって手招きした。

「いいぞ。乗ってくれたまえ」

 博士のまねをしてハッチまでたどり着いたあゆみは困惑してしまった。どう見てもシートは一つしかないのだが、そのシートには博士が座っている。

「先生、どこに座ればいいんですか」

「そこにシートベルトを付けてあるじゃろ」

 シートに腰を下ろしている博士は前を向いたままで肩越しに後ろを指さした。そこにはワゴン車に載せるような濃緑色のコンテナが置かれていて、その上に薄っぺらいクッションが載せられている。その後ろのアルミ板むき出しの壁にはボルト留めされた二点式のシートベルト。

「ここに乗れと?」

「そうじゃ」

「ジュネーブ条約って知ってます?」

「捕虜にした覚えはないわい。いやなら帰りたまえ」

 予想通りの答ではあった。

 あゆみは自分の靴で踏んだクッションにためらいながら腰を下ろした。なるほど「汚れてもいい格好」を要求されるわけである。しかも博士が座っているシートとコンテナの間にはほとんど隙間がないので体ごと斜めに座って前のシートの左側に足を置くしかない。そうでもしないと大股開きでシートの両側に足を伸ばすしかないのだ。

 あゆみがベルトを締めている間に博士はアルミ板製のハッチを閉めた。

「窓、ないんですね」

「ない。ジャンプする時には強い光が発生するんでな。直接見るのは危険だと判断したんじゃ。これも着けたまえ」

 スキー用らしいミラーレンズ付きのゴーグルを肩越しに渡される。

「でも、外が見えなかったら滑走したり飛んだりするのに困るんじゃないですか」

「垂直離陸するから滑走はせん。ここから放牧場までせいぜい100メートルのタキシング程度じゃな。前方120度と後方120度は小型カメラでモニターする」

「・・・120度足りませんけど?」

「左右の60度は見えなくても大きな問題はない。航空機でも戦闘機以外はバックミラーも付いておらん」

 博士が座っているシートの前にはタブレットが3枚貼り付けてあった。上下に並んだ2枚には牛舎の前扉と工作機械や木箱などが映っていて、その左の1枚には記号や数字が並んでいる。この3枚目が計器兼メインの操縦系になる。右手側にあるボタンだらけの空中戦ゲーム用操縦桿は地上を移動する時とマニュアルで飛行する時に使う。

 画面に警告が出ていないのを確認した博士は左腕を伸ばして一番端のトグルスイッチを押し上げた。牛舎に新たに取り付けられた大型扉がガシャンガシャンとアコーディオン状にたたまれていく。

 扉が半分ほど開いたところでタブレットをタップすると前の2輪に内蔵されたモーターでタイムマシンが動き出す。ちなみに地上走行時には戦車やブルドーザーと同じように左右の車輪の回転数を変えることでカーブする。車やモーターサイクルでは一般的なステアリング機構は複雑で重いので付けていない。

 乗り心地はよくない。ゆっくり走っても牧草地のでこぼこでぐらんぐらん揺れる。タイムマシンとしては必要ではないのでサスペンションも軽トラック用のリーフスプリングだし、車輪の間隔も二輪車並みに短いのだ。

 放牧地の予定地点に出た所で一時停止。タブレットに「GO?」と「YES」「NO」のボタンが表示される。

「準備はいいかね」

 あゆみが慌ててゴーグルを下ろすのを確認した博士は自分もゴーグルを下ろして「YES」をタップした。

 4基の小型ジェットエンジンが叫び声を上げてタイムマシンがゆっくり上昇し始める。大気よりも高密度の地面も機体の姿勢もジャンプに影響するので、できるだけ正しい姿勢を維持して上昇し、十分な高度と最適な姿勢になった所でジャンプする必要があるのだが、そうなるともう人間にコントロールできるものではない。

 高度の表示が5メートル、10メートルと変化していく。

 20メートルに達すると強い光に弱いカメラが収納された。それを待っていたかのように右側からけたたましいサイレンが聞こえてくる。

「そこのタイムマシン! 着陸して電源を切りなさい!」

「えっ」

「逃げる!」

 博士は右手でトリガーを引いてマニュアルに切り替えながら操縦桿を左に倒し、同時に左手で操縦用タブレットの画面を素早くスイープした。往路用のトロイダル型常温超伝導コイルを固定していたアクチュエーター群が一斉に作動してプラスに帯電させられた反水素分子が一気に放出される。それが大気中の正物質分子と対消滅を起こしてそれぞれの質量の大部分が光に変わり、誕生直後の宇宙のような光のポタージュスープのゆがんだ球殻が形成される。現在の宇宙ではあり得ない高密度の光の泡はそれがはじける時に泡の内部の大気をタイムマシンごと過去へ弾き飛ばした。横滑りしながら全開にしたのでどこへジャンプするのかわからない。操縦者本人にも分からなければ追尾も難しいだろうという希望的観測に基づくでたらめジャンプだ。

 それはあゆみにとっては完全な不意打ちだった。急加速について行けない血液が脳から流れ出し、あゆみの意識は闇に呑み込まれた。


 博士がゴーグルを引き下ろすのとモニターが復活するのはほぼ同時だった。

 タイムマシンは草原の先に広がっている森に向かって緩い角度で降下しつつあるようだ。博士はトリガーを握り込んだままだった操縦桿を慎重に引いてタイムマシンを水平に戻し、そこからさらに少しだけ引いて、タイムマシンに後ずさりさせた。下のタブレットに細い枯れ木がまばらに生えた草原が映る。少し離れた所に藪もある。ということは、真下も草原である可能性が高い・・・のだろうが、画面外である。

(下方カメラも付けておくべきだったか)

 実際に使用してみたら思わぬ所に欠点があった、というのはよくある話だ。放牧地で、しかも自動操縦で離着陸する分にはほとんど障害物の心配はいらなかったのだ。

 ホバリング用のジェットエンジンに使う燃料の灯油は最低限の量しか搭載していないので急いで左側のタブレットで点滅している「タッチダウン オート」をタップする。マニュアルでの着陸など最初から考えていない。パイロットの訓練など受けていないし、運動神経や反射神経の衰えも自覚しているし。

 レーザー高度計連動の自動着陸でもドスン程度の衝撃はある。着陸時の衝撃が一番問題になるのは本来「超」が付く精密さを要求されるトロイダルコイルだが、理想的な位置からのずれを検知した場合にはアクチュエータを微調整するようにしてある。反物質が漏れるのはしょうがないから漏れる量を常に最小化し続けようという考え方である。古い車のしょっちゅう燃料が漏れるタンクにテープを貼りながら走り続けているようなものだが、売り物ではないのだし、自己責任ならこれで十分なのだ。

 着陸してジェットエンジンを停めた博士はベルトを外し、シートに後ろ向きに膝をついてあゆみの様子を見た。あゆみはアルミ板の壁にもたれて口を半開きにしている。胸はゆっくり上下しているし、手を伸ばして頸動脈に触れても脈拍に異常は感じられない。頭を強く打ったとか、首に無理な力が加えられたとかの可能性もあるが、その影響は目覚めてからでないとわからない。薄いアルミ板に頭をぶつけてもアルミ板の方がへこむだけだろうとは思うのだが。

(しかし、あのタイムパトロールの声は・・・・・・)

 反射的に逃げてしまったが、あれはどこかで聞いたことがあるような声だった。

「う・・・」

 あゆみが身じろぎした。

「おはよう。気分はどうかね」

 それは乱暴な操縦をしたことに対するお詫びといたわりの気持ちからの優しい呼びかけだったが、不幸なことに博士は寝起きの女の子に優しくするということの意味を理解していなかった。

 あゆみはゴーグルをむしり取ると鉛入りワンピースの隙間から腰に手をやった。大丈夫。下着は脱がされていない。いや、脱がされてからまた着せられたかもしれない。

「先生?」

「なんだね」

「変なことしてないでしょうね」

 その一言で博士は下あごを落っことした。

「し、しとらんわい!」

「ほんとに?」

「しとらん、しとらん。だいたいだな、わしは女が苦手なんじゃあ。まあ、嫌いとまでは言わんが・・・」

「はいはい、分かりました。で、ここはどこなんですか」

 確かにそういうタイプだろうし、この狭さで脱がせたり着せたりは無理だろう。

「・・・・・・時間座標では、おおよそ百万年前から1千万年前の範囲。ジャンプした方向は中国の南部からインド、アフリカ、南アメリカ方面。ちらっと見た感じではアフリカのサバンナかな。そういえば、アフリカへ行く予定だと言っておったか」

 あゆみは大学卒業後、食料増産と人口抑制のためにアフリカへ赴くことにしていたのだった。

「私が行こうと思ってたのは現代のアフリカです! それより、時代も場所もものすごく大ざっぱなんじゃないですか」

「しかたあるまい。時間的にも距離的にも遠くへ行くほど誤差は大きくなるんじゃ。地球の表面から離れないようにはしておいたんじゃが、GPS衛星の電波が受信できないから正確な座標はわからん」

「まさか故障ですか? 帰れるんですか、それ」

 あゆみはこの時代にはGPS衛星そのものが存在しないことに気が付いていないようだった。

「故障はしとらん。トレース機能があるからちゃんと帰れる。ただ、タイムパトロールの目の前に帰るわけにもいかんだろうから二日か三日はここでおとなしくしていて、それから帰還しようと思っておる」

「・・・もう・・・三日もお風呂に入れないなんて・・・・・・」

「わしはちょっと外に出てくる。用があったら呼んでくれたまえ」

 質疑応答の時間は終わったと判断した博士は、シートの下から工具箱を引き出して中の折りたたみ式のこぎりと軍手を取り出すと、ハッチを開けた所であゆみを見下ろした。

「そのコンテナには携帯トイレも入れてあるから自由に使って・・・」

 あゆみに睨まれて、言ってはいけない事を言ったらしいと気付いた博士は静かに外へ出てハッチを閉めた。

 地上に降りてみると、その辺りは膝下ほどの草原だった。ざっと見たところ細長い葉のイネ科らしいものが多いようだ。左側には低い枯れ木が何本も立っていて、その間には小さな藪もある。右は草丈が徐々に高くなって森に繋がっている。どうも降水量の変化によって森がサバンナに変わりつつある境界近くに着陸したようだ。

「さあて・・・」

手近に生えていた椿くらいの高さの枯れ木を根元から切り倒す。これを枝先を外側にしてタイムマシンを囲むように配置すれば大型の獣がやってきても鼻や目に枝が刺さるので侵入したくなくなるだろうという考えである。何日かここに居座るためには砦を造る必要があるのだ。

 4本目を切り倒した所へ鉛入りワンピースを脱いだあゆみがやってきた。

「お手伝いします。これを運べばいいんですね」

「ああ、そうしてもらえると助かる」

「それと水分を補給してください。日差しがきついですよ」

 博士は差し出されたミネラルウォーターのペットボトルを見て、あらためて気温の高さに気がついた。湿度の低さにごまかされていたようだ。

「ありがとう」

 半分ほど飲んで残りはズボンのポケットに入れる。

「・・・ああ、ちょっと待った。素手だと怪我をするからこれを使ってくれたまえ」

 軍手を外してあゆみに差し出す。

「ちょっと汗臭いかも知れんが」

 余計な気遣いで損をするタイプの爺様であった。


 太陽の位置が低くなる頃には砦が完成した。ヘビやサソリなら枝の隙間から侵入できるだろうが、ネコより大きい動物は難儀するだろう。ゴリラなら一本一本排除できるだろうし、ゾウなら踏みつぶされかねないが、そういうのになると見慣れないものは避けて欲しいと願うしかない。

 博士は暗くなる前に空色のワンタッチテントを広げた。その中にロールマットと寝袋、枕の代わりにするための予備の衣類を詰め込んだスタッフバッグを入れる。

「靴はポリ袋に入れてテントの中へ入れておくようにな。晴れているし湿度も低いようだから今夜はかなり冷え込むじゃろう。寒かったらこれも使ってくれたまえ」

 首にかけるタイプの携帯ランプと化学カイロをあゆみに差し出す。テントはあゆみに譲って自分はレジャーシートとシュラフカバーで寝るつもりらしい。

「寒くないんですか」

「中綿入りのジャンパーとオーバーズボンを持って来とる。どうにかなる」

 博士は手のひらサイズの折りたたみストーブにアルミカップに入ったピンク色の固形燃料を置いてライターで火を付けると、水を入れたアルミのクッカーを載せた。

「ほい、晩飯じゃ」

 そう言って渡されたポリ袋には乾パンとカラフルな絵が描かれたチョコレートの円筒型紙容器が入れられていた。

「子供扱いしないでください」

 タイムマシンから出してきたクッションに座ったあゆみが抗議する。博士の方はスタッフバッグに入れたままのレインウェアだ。

「何を言うか。サバイバルフードは乾パンとチョコレートが定番じゃ。シュガーコートされていれば体温でべたべたになることもないしな」

「・・・・・・なんか、遭難する前提で準備してませんか」

「しとったよ」

 当たり前のように応える。

「自分が作ったものは想定外の問題を一切起こさないと思うほど自信家ではないんでな。カフェオレとミルクティーがあるがどっちにするかね」

「カフェオレにしてください。こうなると分かっていればお泊まりセットを持ってきたんですけどね」

「残念じゃったの。ああ、念のために言っておくが、プラスチックや金属の類は確実に持ち帰ってくれたまえよ。生分解されない物が発掘されて「オーパーツだ」などとさわがれては困るんでな」

 紙コップ入りのカフェオレを渡される。

「分かりました。ありがとうございます」

 それをいったん地面に置いて乾パンの袋を破る。乾パンを1個噛み砕いてカフェオレで流し込む。おかずが欲しいと思うのは贅沢なんだろうか。まあ、いいダイエットになりそうではある。

「どうしても肉が食べたければビーフジャーキーも一袋あるよ」

「ありがとうございます。今日はけっこうです」

 固形燃料はブタンガスストーブのように用が済んだらコックを閉めて消火というわけにはいかない。二人とも無言で青白く揺れる炎を見ながら乾パンを噛み砕く。しだいに小さくなっていった炎が消えた時にはカフェオレもほとんど空になっていた。こんなものを水で食べる気にもならないので博士の真似をして袋の口をたたんだ。

「ほい。歯磨き代わりのガムじゃ」

「ありがとうございます。こういうサバイバルのテクニックってどこで身につけたんですか」

「小学生の頃、ボーイスカウトのリーダーに叩き込まれたんじゃ。あゆみ君のゼミの佐々木もいっしょにな」

「そうなんですか? 初めて聞きましたよ」

「自慢するようなことでもないしな。電池がもったいない。寝よう。ああ、どんな肉食獣がいるか分からんからトイレの時もあまり遠くへは行かないようにな」

「・・・はい」

 つくづく余計な気遣いをする爺さまであった。


 翌朝は日の当たったテントの明るさで目が覚めた。テントから出てみると、レジャーシートの上のシュラフカバーはぺちゃんこにつぶれている。30センチほどの木の棒が2本載せられているのは風で飛ばされないようにということだろう。狭い砦の中には爺さまの姿は見当たらない。

「おはよう。よく眠れたかね」

 横合いから声をかけられた。振り向くと枯れ木のバリケードの外に爺さまがいる。

「おはようございます。どこかへ行ってたんですか」

「トイレじゃ。タイムマシンの裏でな」

 ロールペーパーと折りたたみ式シャベルを掲げてみせてくれる。

「それ貸してください。私も行きます」

「え? あー、実はその・・・丸見え・・・なんじゃが・・・」

「平気です。アフリカではそういうのもよくあるって聞いてますから。肌の色が珍しいから一人にしてくれなかったとか、我慢できなくなってズボンを下ろしたら笑いながら逃げてってくれたとか」

「そ、そうかね」

 さっさと枯れ木をどけて通路を作り、目を合わせようとしない爺さまからトイレセットを受け取ってしまう。

「今朝は味噌汁にしようと思うんじゃが、具は何がいいかな?」

「どんなのがあるんですか」

「あー、豆腐とワカメ、油揚げとワカメ、ネギ、納豆じゃ」

「豆腐にとワカメにしてください」

(乾パンに納豆汁って・・・何の罰ゲームよ)


 美味しいのはデザートのチョコレートだけという朝食を終えてしまうとやることがなくなってしまった。

「先生、そこらを探検しませんか。せっかく遭難したんですし」

「やめた方がいい。ライオンやヒョウがいてもおかしくない」

「大丈夫です。この草丈ではライオンは隠れられません。こっちは目の位置が高いですし。ヒョウは木の上で待ち伏せしますから森の方には近づかない方がいいでしょうけど。あと、一番怖いのはゾウらしいですよ。ゾウを見たら距離を置くしかないんだそうです」

 アフリカへ行くというだけのことはある。

「・・・分かった。じゃが、武器を作るからちょっと待ってくれたまえ」

 博士はバリケードの中から細めの枯れ木を選んで根元側の枝を切り落とし始めた。

「それ、役に立つんですか」

「我々には爪も牙も速い足もない。相手が攻撃できる距離に接近させないようにするしかあるまい。ヤマアラシの戦略に近いかな。正直なところ、本当に飢えている奴らとか、ハイエナクラスでも群に囲まれたら効果があるとは思えん。正面以外はがら空きだしな。ほれ、これはあゆみ君の分」

「えーっ。私も持つんですかあ」

「当たり前じゃろうが。肉食獣の群に囲まれたら背中を合わせて牽制しながら砦に戻るんじゃ」

 バリケードの外へ出た二人は枯れ木を担いで砦の周りを半周した。博士は「眼筋が硬くなってきていて近くも遠くもよく見えん」と言って周囲の安全確認をあゆみに任せた。幸いライオンもゾウも近くにはいないようだ。

「で、どこへ行く?」

「向こうに見える木の所へ行ってみましょう。あれ、多分バオバブだと思うんですよね」

 あゆみはちょっとした起伏の先に見える横に広がった藪を指さした。

「ほう? まあ、行ってみようか」

 博士としては見通しの効かない森の中でなければどこでもよかった。

「草が枯れてないって事は雨期の晴れ間か、終わった直後だと思うんですよねー」

 あゆみが赤っぽい土を蹴ると土煙が舞う。

「ということはスコールもありうるのかね」

 博士は空を見回しながら聞いた。幸い青空には雨を降らせるような雲は見当たらない。

「そうですね。地平線に黒い雲がちらっとでも見えたらすぐに屋根の下に避難するようかも」

「うーむ・・・ちょいとまずいか・・・」

「何かあるんですか」

「強い雨だとタイムマシンの中に水が入るかもしれん」

「何ですか、それ! 今時雨漏りするような車なんてありませんよ!」

「ダイムラーが最初に作った自動車も屋根なしじゃい。一応ハッチにゴムパッキンを付けてはあるんじゃが、防水性のテストはしとらんのでな」

「何から何まで不完全じゃないですか。あ、そこの灌木には近づかないでください。サバンナの木にはトゲが生えてるのが多いんだそうです」

「お・・・」

「枯れてても刺さるらしいですよ」

「それは怖いな」

 そんな会話をしながら緩い斜面を上っていくとバオバブの幹が見えてきた。

「なんと・・・一本の木だったのか」

 上空から見た時は藪に見えたのだが、幹はやたら太いのが一本しかなかった。同じように水平方向に枝を広げた木が少し離れた所にもぽつんぽつんと生えていて、その向こうにも森が広がっているらしい。森を陸地に例えれば草原は海で、そこにバオバブの島が点在しているようなものだろう。

「幹に縦溝があるから多分アフリカバオバブですね。マダガスカルのは幹が丸いままストーンと伸びるんです。『星の王子様』に出てくるのはマダガスカルの方でしょうね」

 日本の広葉樹を何十本も束ねたような太い幹の上に藪一個分の枝が広がっている。

「幹の中に蓄えた水で乾期を乗り切るらしいですよ。あ、実がなってる!」

「おいおい・・・」

 枯れ木を担いだまま走り出したあゆみを博士も追いかける。

 茂った葉の中からひものような茎が何本も下がっていてそれに緑色のいびつなラグビーボールのような実がついていた。

「ちょっ、やめたまえ! 枯れ木は折れやすいんじゃあ」

 博士は慌てて実をたたき落とそうとしているあゆみを止めた。

「これ、果肉を食べられるんですよ。ビタミンCとカルシウムも豊富なんです」

 枯れ木の先は届くのだが、実は少し揺れるだけだ。

「うーん・・・若葉も食用になるということなんですけど・・・」

 無理そうだと判断したあゆみは幹の方に目を向けた。

「そこはサルでもなければ登れまい」

 いったん砦に戻って適当な道具を作ってやろうかと考えたのだが、あゆみは博士ほどあきらめがよくはなかった。

「先生、肩に乗せていただいてもいいですか」

「あ? 肩車でも届かんじゃろうが」

「いえ、チアリーダーみたいに肩の上に立たせてもらえれば」

「・・・やめた方がいい。その高さから落ちたら怪我をする」

「大丈夫ですよ。私は若いし、下は土です」

「怪我をしないというのもサバイバルの基本なんじゃがなあ・・・」

 何を言ったところで無駄だろう。博士は枯れ木を置いてバオバブの幹を一周した。いくつもぶら下がっている実の中から一番手の届きやすそうな物を選ぶと幹に両手を置いて腰を落とした。正直なところ、肩に乗ってもぎりぎりで手が届くとは思えなかったが。

「ほれ、来たまえ。ああ、靴は脱がないように。トゲが刺さったりするとまずい」

 汚れた服は帰ってから洗えばいいが、歩くのが遅くなったりするのは命に関わる可能性もある。

「しっつれーしまーす」

 あゆみは博士の両肩に手を置いて腰に飛び乗ると、手を幹に移して肩の上に移動した。

「いいかー、立つぞー」

「はーい」

 いかにジーンズを履いているとはいえ、女性の足の間から見上げるわけにはいかない。声だけで確認し合ってから立ち上がる。

「どうじゃあ?」

「ええと・・・すいませーん。横向きになってもらっていいですかあ」

「ああ、すまん」

 幹の方に向いているということはぶら下がっている実に背を向けているということだ。右手だけを幹に残して少しずつ体を開いていく。あゆみも同じ体勢を取っているはずだ。

「もうちょっと・・・」

 肩に掛かる荷重から懸命に手を伸ばしている様子が伝わってくる。が、やはり届かないようだ。

「博士ー」

「ほーい」

(気が済んだか)

「しっかり支えててくださーい。跳びまーす」

「な・・・」

 両肩に掛かっていた重さが一瞬軽くなってからぐっと重くなる。

(腰を落としよった!)

 もう制止する時間はない。博士は全身に力を入れて備えた。

 肩にズンと来た荷重が消える。急いで顔を向けると緑色のラグビーボールを胸に抱え込んだあゆみが落ちてきた。横向きに着地しながら体をひねって尻餅をつくように受け身を取る。バオバブの実をしっかり抱えたままなのは立派なのか、意地汚いと言うべきか。

(ラグビーなら反則で相手ボールのスクラムじゃな)

「取れましたー」

 いかにも「どうだ」と言いたげに見上げるあゆみに右手を差し出す。よくやったとは思うが、年長者の立場では褒めるわけにもいかない。

「ばかもの! 怪我をするなと言ったろうが!」

 立ち上がったあゆみの両肩をつかんで後ろを向かせ、背中の赤っぽい土を必要以上に力を入れて払い落としてやる。悪い子にはおしりペンペンである。


 いったん砦に戻ろうということになった。バオバブの実は手で割れるような硬さではなかったのだ。あゆみは幹に叩きつけようという素振りも見せたのだが、博士がやめさせた。破片を集めて砦まで運ぶのは大変だし、中身のにおいが危険な動物を呼び寄せる可能性もあるのだ。タイムマシンにはナイフ付きのマルチツールやハンマーもあることだし。

 枯れ木を担いだ上にバオバブの実まで抱えながらどんどん先へ歩いていたあゆみが砦のすぐ近くで立ち止まった。何か騒がしい。タイムマシンの背後にある森の中から複数の吠え声やうなり声が聞こえてくる。そして叫び声・・・悲鳴?

 森の中から誰かが駆け出してきた。黒い服を着た小柄なおばあさんらしい。それに続いて7頭ほどのイヌ科らしい獣の群。

 おばあさんは立ち止まるとイヌの群に向き直り、獣のような悲鳴をあげながら片腕を振り回した。その肩口に大きなおびえた目が見える。子供連れだ。

「くぬぁ!」

 あゆみは枯れ木とバオバブの実を投げ出して走った。

「こっち! 早く!」

 呼びかけに気が付いたおばあさんが駆け寄ってくる。あゆみも走りながらウエストバッグの中の唐辛子スプレーを取り出した。安全装置のレバーを親指で押し上げる。

 お互いに接近するにつれて遠近感がおかしいことに気が付いた。駆け寄ってくる相手は小学校高学年くらいの身長しかない。

(この時代、人類はまだ生まれてない?)

 おばあさんどころか人間ですらなかった。黒い服に見えたのは毛皮だ。全体に後ろに角度がついている顔、前向きに開いている鼻の穴、眉のあるべきところには骨の庇(眼窩上隆起)がある。チンパンジーのような顔だ。背中を少し丸めていたのでおばあさんに見えたのだろう。しかし、もう乗りかかったどころか乗ってしまった船である。母子とすれ違いざまに両手を広げてイヌの群れの前に立ちはだかる。

 イヌたちは尖った鼻面とピンと立った耳、体毛は背中側が黒地に白い斑で腹側は黄色っぽい白色と、シェパードに似ていたが体格ははるかに大きかった。アフリカのオオカミであるジャッカルかもしれない。

 彼らはとまどっていた。突然目の前に現れたそいつは背が高く、その上逃げようとしない。こういうタイプは通常狩りの対象にはしない。だが、あと一歩という所まで追い詰めた獲物をそう簡単に横取りされるわけにもいかない。リーダーを中心に扇形にそいつを取り囲んでうなり声を上げ、獲物に対する優先権を主張する。

 一方、イヌ科動物の弱点を知っているあゆみはあまりにも狙い通りの展開に思わず唇の両端をつり上げた。警戒させないようにゆっくりと右手のスプレーを前に向けていく。狙いは体半分ほど前に踏み出して唸っている大きめのやつの鼻先だ。口と鼻を左手で覆って引き金を絞る。

「ギャーン!」

 リーダーが飛び跳ねた。デタラメに走ってつまづいて転び、そのままうずくまって鼻面を前足で掻く。それでも楽にならないと分かるとまた駆け出してまた転ぶ。

 イヌ科動物の鼻は特に敏感だ。そこに唐辛子エキスを吹き付けられるのは嗅覚細胞の一つ一つにキリを揉み込まれるようなものだったろう。文字通りこけつまろびつの体で逃げていった。

 残された他のメンバーは困ってしまった。リーダーが「逃げろ」とも言わずにのたうち回って駆け去ってしまったのでどうしていいかわからなくなってしまったのだ。下位のメンバーはみな耳を後ろ向きにして「逃げたい」という意思表示をしているのだが、ナンバー2やナンバー3はここで弱い所を見せると群れの中での順位が下がる場合があるので自分から「逃げよう」と言うわけにはいかない。

 そしてあゆみも困惑していた。リーダーをやっつければ群ごと逃げ出すはずという目算が狂ってしまったのだ。スプレー缶はそれほど大きくない。一頭ずつ撃退していくほどの容量はないだろう。

「議によって助太刀いたあすっ」

 均衡を破ったのは博士だった。あゆみの前に進み出た博士は両手で持った枯れ木を振り回した。リーチの長い攻撃をよけるためにジャッカルたちは全員後ろへ一歩下がる。この瞬間群れの意思は統一された。一斉にリーダーが走り去った方へ駆けだしていく。

「ええと・・・かたじけ・・・ない?」

 対になる台詞をやっと思い出したあゆみは振り向いておびえた目をしている類人猿の母子に向かって少し腰を落とした。

「もうだいじょうぶだよー。安心してねー」

 努めてゆっくり優しく語りかける。言葉が通じないのは当たり前だから敵意がないことを伝えるのが大事だ。

 口を少し開いて肩で息をしていた母猿はそれを聞いて安心したようにまぶたを半分下ろして・・・膝から崩れた。

「え? ちょっと・・・きゃあ!」

 地面が迫ってくる事に気が付いてパニクった小猿は近くにあった木に飛び移って駆け登った。彼らにとって地上に棲む捕食獣が追って来られない樹上こそが安全な場所だ。だからこそ森に棲む類人猿はほとんどの場合樹上に寝床を作る。例外は体重が重すぎるゴリラの雄くらいだ。

 たいして高くなかった木のてっぺんにたどり着いた小猿は、手触りと匂いでそれが実は木ではなく、母親に近い存在だと気が付いたらしい。体毛の代わりに布に覆われた体にとまどいながら胸に手を伸ばしておっぱいを探し始めた。強いストレスから逃れるための代償行為だろうが、やられる方はたまったものではない。

「ちょちょちょ、待って待って。私のはまだ出ないんだってば!」

 引きはがして放り出せば済むものを、胸に向かって伸びてくる小猿の右手と熾烈な戦いを始めたあゆみを放っておいて博士は母猿の方に近づいた。これで少しは懲りるだろう。

 目を閉じたままの母猿は浅く速い呼吸をしていた。緊張が解けただけとは思えない。頸動脈を探ると脈拍も速い。だが、それが正常なのか異常なのかを判断できない。

「あゆみ君、類人猿の体温についての知識はあるかね?」

 赤い顔の額に手の甲を置いて質問する。

「え? えーと、人間の大人よりは高めなんじゃないかと思いますけど・・・」

 根拠は体格が小さめだからというだけだが。

 小猿の両手を封じているあゆみは母猿の頭側に膝をつくと直接額をくっつけた。この体勢でも子猿はあゆみのポロシャツの肩をしっかり両足で(!)つかんでいるので落ちはしない。

「熱っ。これってまずいんじゃ・・・」

「やはり熱中症か」

 それを狙うのがイヌの群れの得意技だ。彼らは舌を出して速い呼吸パンティングをすることで体温を下げることができる。この長距離向きの能力を活かして獲物を追い続け、体温の上昇で逃げる事も反撃することも満足にできなくなったところでとどめを刺す。それが彼らの狩りのやり方なのだ。忍び寄ったり待ち伏せしたりして距離を詰め、瞬発力を活かして一気に襲いかかるネコ科の狩りを一撃必殺を理想とする空手に例えるなら、イヌの仲間のそれは手数で削っていくボクシングのようなものだろう。

 博士は母猿を引き起こして担ぎ上げた。昔と比べれば腕力も落ちたが、この体格ならファイヤーマンズキャリーでいける。ノミやシラミを介して病原体に感染する危険を考えれば必要以上の接触は避けるべきだが、この時代の細菌になら抗生物質もちゃんと効くだろう。


 母猿をタイムマシンの下の日陰に移したレジャーシートに横たえた博士はタイムマシンに積んできた救急箱から使えそうなものを取り出した。

 まず、ヒヤロンに拳を振り下ろしてからタオルに包んで脇の下に挟み込む。それからペットボトルの水で濡らしたタオルを胸から腹にかけて載せてやる。熱中症の場合はとにかく体温を下げるのが基本だ。ただし、これは体温調節ができなくなっている状態なので冷やしすぎにも注意する必要がある。

 そこまで処置を済ませた博士はズボンのポケットに入れていたゼリー飲料を取り出した。外したキャップはポケットに戻して手のひらに少しだけ絞り出す。それを「なんでおっぱいをくれないんじゃあ」とばかりにギャーギャー喚いている子猿の鼻先に持って行く。グレープの香りに鼻をひくつかせた子猿は慎重に舌先を伸ばして甘いと分かると一舐めにした。

「やはりな」

 母子の体格差から離乳期に入っていてもおかしくないだろうという判断であった。

「ほい、お姉さん。後は任せる」

 ゼリーを受け取ったあゆみは子猿の手の届かない所で手のひらに絞り出して与えた。チューブを噛み破られたりしたらいろいろな面でまずい事になる。

 子猿とあゆみの方はこれでいいと判断した博士は母猿の側に戻った。呼吸も落ちついてきているようだし、体温も少しは下がったかもしれない。人間よりも小柄な分体温も下がりやすいだろうから冷やしすぎにも気を付けなければならない。もう少ししたらヒヤロンを外した方がいいだろう。

(・・・何かおかしい)

 安心したせいか意識の片隅に追いやられていたかすかな違和感が存在を主張し始めていた。

(人間・・・らしさ?)

 理系の観察力で自分の心の中を観察した結果、行き着いたのはそれだった。だが、このどう見ても毛むくじゃらの類人猿のどこに人間らしさがあるというのか?

(頭か?)顔はチンパンジーそのものだ。チンパンジーの耳はもう少し大きかったような気もするが・・・。

(腕か?)長い。木の枝にぶら下がって移動するのに適応した腕だろう。手首から先が特に大きい。子供の体に大人の腕を付けたようなアンバランスさを感じる。

(胴?)ウエストのくびれはない。なぜ化石人類の復元図は寸胴なのか? そこには肋骨がないのだから細くしてもいいはずだが・・・。セクシー過ぎるから? わざと猿に似せて復元しているのか。・・・どうでもいいか。

(足?)チンパンジーより長いかもしれない。そして足首から先はそこだけ見れば完全に猿だ。土踏まずがない。長い親指が横向きに突き出している。手と同じように枝をつかめる足だ。・・・足? この足は・・・・・・。

「足かっ」

「ここはサバンナです。アシカもオットセイもいませんよ」

 冷蔵庫を開けた時のような冷たい声が降ってきた。

(失敗したか)

 夢中になると周りが見えなくなるのは自分の欠点だということは自覚していたのだが。意識を失った全裸の女性(雌猿だが)が横たわっているところにしゃがみ込んで、なめ回すように観察しているというのは完全に通報ものである。こういう場合にいいわけをするのは、あゆみに対してはおそらく逆効果だ。論理で圧倒するのが正解だろう。何でもないようにゆっくり立ち上がる。

「ありがとうございます。もうごちそうさまですって」

 差し出されたゼリー飲料のパックを受け取ってみると半分も減っていないようだった。やはり空腹だったわけではなかったのだろう。とりあえずキャップを戻す。

 あゆみの肩に乗った子猿は髪の毛を引っ張っておもちゃにしていた。彼らの種族が持っていない長い髪の毛が珍しかったのか、あるいはグルーミングをしているつもりなのかもしれない。

「さて、もういいかな」

 わざとらしいのを承知の上でつぶやいてヒヤロンとタオルを抜き取る。胸の動きもだいぶゆっくりになったし、額も「熱い」というほどではなくなっていた。

 ここからは慎重に話を進めなくてはならない。立ち上がってしっかりとあゆみの目を見ながら口を開く。

「あゆみ君、人類はなぜ直立二足歩行という形質を獲得したのか、ということについてどの程度の知識を持っているかな?」

「ええと・・・森が消えてサバンナで生きていかなくてはならなくなった時に直立姿勢の方が遠くまで見渡せた、という説がありましたよね」

「いや、最近では人類の祖先が直立二足歩行を始めた時代にはまだ森が残っていた、つまりここのような環境じゃな。そういう説が主流になっておる。森から追い出されてサバンナで生きていかざるを得なくなった群がいたという可能性もあるじゃろうが、その場合でも周囲を警戒する時だけ直立すればいい。逃げる時は四足の方が速いはずじゃ。実際にそういう生き方をしているのがミーアキャットやプレーリードッグじゃな。そして現代のサバンナや岩場で生きているゲラダヒヒは四足歩行じゃ」

「枝からぶら下がって移動しているうちに直立する準備ができた、というのもありましたよね」

「ブラキエーションをする場合にも膝を持ち上げてモーメントアームを短くした方が楽になるじゃろう。それに木に登る時には手足をすべて使えた方が速い。したがって四足歩行の方が有利じゃ」

「後は・・・一番新しいのは、食べ物を両手に抱えて樹上で待っている雌と子供の元へ持ち帰ったというのですね。個人的にはなんとなく好きじゃないんですけど」

「ああ、わしもあれは大っ嫌いじゃ。あんなものは男尊女卑主義者の寝言じゃ! 女は家で子供を育てていればいい、とな。類人猿は雄も雌も自分が食べる物は自分で採取するのが基本じゃい。だいたい、あの説では雌は直立する必要がない。いや、むしろ四足歩行の方が有利なままじゃ」

「・・・あと何かありましたっけ?」

「水棲人類説というのもある。水中で立っているうちに直立できるようになったというやつじゃな。化石が残っていないという理由で無視されているそうじゃが、それ以前にアフリカでは淡水であれ海であれワニがおる。ワニがいない所で進化したという仮定を採用しても乳幼児を水に入れると低体温症になりかねん」

 そろそろあゆみにもこの議論の行き着く先が見えてきた。

「二足歩行を説明できる仮説がないということですか」

「ない。いや、ついさっきまでなかったと言うべきかな」

「今はある、と?」

「その疑問の答がまさにここにある!」

 博士の指先をたどったあゆみはゆっくりと視線を戻してから口を開いた。

「スケベ」

「え?」

 おそるおそる自分の指に目をやった博士はその位置がほんの少しだけずれていたことに気が付いた。

「いやいや、違う違う。股間ではない! 股関節の問題だと言いたかったんじゃあ」

「はいはい。そういうことでいいですよ。あ、目が覚めたみたい」

 母猿は目を開けるといきなり上体を起こして丸っこい目であゆみと博士を交互に見比べた。それを見た子猿が素早くあゆみから駆け下りて母親の懐に跳び込んでいく。手足を順にぷるぷるさせているのは博士が濡らした毛皮がまだ乾いていないせいだろう。

 博士はクッカーに水を入れて母猿の前に差し出した。最初はそれが何なのかわかっていない様子だったが、クッカーを揺すってみせると波紋で水だと認識できたらしくクッカーに口を突っ込んで飲み始める。

(ふむ。水を持ち運べるとは思わなかったか)

「では、これはどうかの」

 空になったクッカーにゼリー飲料の残りを絞り出す。この匂いには乳首をくわえていた小猿の方が先に反応した。が、母猿はクッカーに顔を突っ込もうとした小猿の首根っこを捕まえて押しのける。「何をするんだ!」とばかりに喚く小猿に「ギャッ!」と歯を剥いて黙らせると、慎重に匂いを嗅ぎ、一なめ二なめしてしばらく思案する様子を見せた後、小猿に向かって「ホゥ」と言った。母親の許しをもらった小猿はさっそくゼリーをなめ始めたが、満腹だったのか、ほとんど食べられない。残ったゼリーは母猿がきれいになめ取った。

「うんうん。多分匂いと甘さがきつかったんじゃろうな。毒味をしてみて安全そうだと判断してから『食べてもいいよ』か」

「いいお母さんですよね」

 しばらくして小猿は母猿から離れてあゆみに向かって歩いてきた。あゆみが両手を差し出したが、小猿はその手をすり抜けるとジーンズをよじ登って肩の上に落ち着いた。あゆみは背が高いので、そこにいると木の上にいるような安心感があるのかもしれない。そして今度はあゆみが着ているポロシャツの襟に興味を持ったらしく裏返してみたり引っ張ったりし始める。

 そんな小猿の様子をしばらく見ていた母猿は後ろを向くとバリケードの枯れ木をパキパキと踏んで森に向かって歩き出した。博士はその後ろ姿をいつまでも見つめている。

「先生、そういう時はちゃんと『ダメ』って言ってあげないと」

 さすがに気になったあゆみが声をかける。

「彼女の歩き方をよく見たまえ」

 博士はあゆみの方を向きもしない。

「え? 何です? 普通に歩いてるじゃないですか。ちょっと猫背ですけど」

「そう。人間としては普通の歩き方なんじゃ。しかし、だ。チンパンジーやゴリラが後肢だけで立って歩いている所を見たことはないかね」

「あ・・・チンパンジーってがに股でひょっこひょっこって歩き方しますね」「うむ。なぜそうなるかというと股関節が四足歩行型だからじゃ。彼らが上体を立てた時でも彼らの大腿骨は真下を向かない。空気椅子のような無理な体勢になっているということじゃな。その状態で歩こうとするから左右に揺れてしまうんじゃ」

「なるほど、だから先生は股間を気にしてたんですね」

「股関節だとゆーとろーがっ。・・・年代と環境から見て彼女はアルディピテクス・ラミダスと呼ばれている初期の猿人に近い存在だと思うんじゃが、おそらく彼女の股関節の構造はチンパンジーのそれよりもヒトのそれに近い二足歩行型なんじゃろう。あ、しまった! 骨盤の形もチェックしておけばよかったか」

(それは忘れていて正解ですよ)

 あゆみは声に出さずに呼びかけた。いかに猿とはいえ、お母さんのお尻をなで回したりしたらアフリカ生活のために教えてもらっている護身術の実験台にしていたかもしれない。

「一方、上半身は未だに類人猿なんじゃろう。大後頭孔、つまり頭蓋骨にある頸椎に接続するための穴じゃが、これは人間の場合頭蓋骨の下にある。それによってほぼ垂直になった背骨の上に頭蓋骨が載った時に顔が前を向く。だからこそ人類は大きな重い脳を無理なく支えていられるわけじゃが、彼女の場合は四足歩行型で頭蓋骨の後ろ寄りに穴があるんじゃろう。したがって彼女が直立すると顔は斜め上を向いてしまう。それを前に向けるためには頸椎をある程度前方に曲げねばならんので、ああいう姿勢になるんじゃな。というわけで彼女は肩こりがひどい可能性がある。その子に肩を揉むことを教えてあげれば喜ばれるかもしれんよ」

「聞いた、アルちゃん? ラミちゃんの肩をもみもみしてあげるとラミちゃん気持ちいいんだって。ほらこうやって・・・」

 さっそく名前を付けてしまったあゆみは肩をつかんでいる小猿の足に手を被せてもみ方を教え始めた。だが、小猿は何を思ったか、あゆみのポロシャツの襟をつかんで後ろに引っ張った。

「ちょ、首っ、締まる締まる」

「ギャッ!」

 博士に一喝された小猿はあゆみの肩に戻ってまた髪の毛をいじり始めた。グルーミングをしながらチラチラと博士の方を見ている。

「ホゥ」

 そう言ってやると明らかにほっとした様子だった。

「けほっ・・・ありがとうございます」

「いや、すまん。余計なことを言ってしまったな。可愛く見えても野生動物だということを忘れておった」

「いえ、私も軽率でした。・・・それで、ラミちゃんが二足歩行ってことはラミちゃんは私たちのご先祖様なんでしょうか」

「・・・その可能性はゼロではない、としか言えんな。個人的な考えじゃが、二足歩行型の股関節を持つ類人猿はある一定の確率で生まれてくるのではないかと思う。わしが子供の頃にも人間との混血だというのが売り文句のオリバー君というチンパンジーがいたしな。しかし、木に登る時や草原を駆ける時には二足歩行というのはハンディキャップでしかあるまい。わしには彼女が生き延びて、二足歩行の類人猿の個体数が増えていけるような環境をイメージすることはできん。ジャッカルの群に追われていたのも逃げ遅れてしまった可能性が高いと言えるじゃろう」

「何とかなりませんか。たまにここへ来てサポートしてあげるとか・・・」

(感情移入しすぎじゃな)

 それはあゆみもわかっているらしい。微妙に視線をそらしている」

「定期的にここに来るといってもわしらがここにいない間は無防備ではないかね」

「そうですよね・・・・・・あ、帰ってきた」

 博士が振り向くと森の方から母猿が早足で歩いてくる所だった。

 母猿は親指の先くらいの楕円球形の実が2・3個ついた茎を何本か持っていた。その中の一本をあゆみに差し出す。

「くれるの? ありがとう」

「ギャッ」

 あゆみの肩から手を伸ばしてきた小猿は叱られてあわてて手を引っ込めた。

「それは食べても大丈夫なのかね?」

 ためらう様子もなく囓り始めるあゆみに博士が声をかける。

「食べられない物をを持ってくるわけがないじゃないですか。ナツメヤシはビタミンCが豊富でカロリーも高いんです。種が大きいのがちょっと、ですけど」

「お、わしにもかね。ありがとう」

 博士もナツメヤシを差し出されたので一応受け取るが、食べていいものか迷う。

「食べてあげてください。これって多分『群れに加えてください』というメッセージなんですよ」

「うーん・・・」

「先生のことだから下痢止めくらいは持ってきてるんでしょ。心配なら飲んでおけばいいんですよ」

「そういうもん・・・」

 博士はいきなり目を見開いた。

「そうか! そうだったのか! 二足歩行すべきだったのは雄ではなく、母親だったんじゃ。母親が食料を持ち帰ってくるまで今のあゆみ君のように子供の面倒を見ていてくれる個体がいれば二足歩行のハンディを緩和できる」

 興奮した様子でまくし立てる。

「逆だったんじゃよ。まず、二足歩行型の股関節で成長してしまった類人猿の雌がいたんじゃ。その程度のハンディキャップなら運の良さや努力で生き延びていくこともできるじゃろう。だが、彼女が母親になった場合には成長していく子供は文字通り重荷になっていく。この二重のハンディキャップは致命的であったかもしれん。しかし、その時に子供というハンディキャップを引き受けてくれる乳母役がいたとしたら・・・この二つの条件が揃えば直立二足歩行という生存に不利な形質が定着していく可能性がある。そうじゃ! 乳母は繁殖能力を失った個体でも足腰が弱って逃げ足が遅くなった個体でもいい。マンツーマンである必要もない。一人で二・三人の子供たちの世話ができればいい。そして、それに対する報酬として持ってきた食料を分けてやるというシステムを獲得すれば社会性もコミュニケーション能力も向上するじゃろう。平均寿命も延びるな。そう、これこそが人類へと繋がる道だったのかもしれん。そしてその道は過去たった一度しか繋がらなかったんじゃろう。うむうむ、名付けて『おばあちゃんの託児所仮説』というところか」

「おばあちゃんて私のことですか?」

「あ・・・いや、それは・・・特定の個人を指すものではなくて、繁殖に関わらないという意味の接頭語じゃ」

 うっかり口を滑らせてしまった博士はうろたえながらナツメヤシを囓った。

 お土産を食べてもらえるまで待っていたらしい母猿は小猿の方を向いた。

「ホ、ホ、ホ」

 呼ばれた小猿は素早くあゆみから駆け下りて母猿の元へ駆けていく。母猿からナツメヤシをもらってうれしそうだったが、小猿の口の中にはすでにあゆみからもらったのが1個入っていたのだった。


 人類組もお昼にしようということになった。ただ、コーヒーや紅茶、チョコレートは彼らにとって有害かもしれないということで味噌汁にする。

 お湯を沸かし始めると、それに興味を持ったらしい小猿が探検していたタイムマシンの上から降りてきた。ストーブに手を出そうとしたので博士が「ギャッ!」と一喝する。

 叱られた小猿はあゆみに駆け登った。あゆみのジーンズの裾をいじっていた母猿を通り越してあゆみを頼ったのは、ここにいるメンバーで小猿を叱ったことがないのはあゆみだけだったからだろう。

「はいはい。おじいちゃんは怖いよね-」

 肩の上の小猿の膝をなでてやる。

「先生、あんまりダメダメ言ってると嫌われちゃいますよ」

「かまわん。その分あゆみ君が好かれるじゃろう」

 それを聞いたあゆみはクスッと笑った。

 あゆみが乾パンの袋の輪ゴムを外すとまた子猿が反応した。しかし、ここで小猿に乾パンを与えても母猿からダメ出しされそうなので、まず1個自分で噛み砕いてみせる。食べられる物だと認識させた上で母猿に与えてみる。母猿は加熱した小麦粉の匂いや味にとまどっているようだったが、食べられる物だと判断したようだ。そこで小猿に与えてみる。が、これは失敗だった。小猿はナツメヤシの種のようなものだと思ったらしく吐きだしてしまったのだ。それを見た母猿は小猿の腕をつかんで引き寄せると噛み砕いた乾パンを口移しで食べさせた。小猿はもともと丸い目をさらに見開いて手を振り回すのだった。

(やったあ)

 心の中で叫んだあゆみだったが、母子の視線が地面に転がっている唾液と赤土にまみれた乾パンに向いた途端に慌てた。彼らの世界ではそれでもいいのかもしれないが、きれい好きの日本人には許せるものではない。急いで袋に手を突っ込んで乾パンをひとつかみ取り出すと母猿に手渡す。母子の視線がそれたところで素早く汚れた乾パンを拾って砦の外に放り投げた。母子の視界にも入ったはずだが抗議はなかった。一度は所有権を放棄したのだから取られてもしょうがないということなのか、上位者には逆らわないのかまではわからない。振り向くと博士が笑いをこらえながら視線をそらすところだった。

 しかし、問題はそれだけでは終わらない。カップ味噌汁にお湯を注いで味噌の香りが漂ってくると母猿は子猿の手を引いて後ずさったのだ。

「え? どうかしたの?」

「ああ、なるほど」

「何かわかったんですか」

 博士はあゆみに向かって立てた人差し指を左右に振ってみせた。

「これはごく簡単なことだったんじゃよ、ワトソン君」

「・・・・・・」

「論理的考察から導き出される合理的仮説は一つしかない。犯人は味噌じゃ!」

「ええっ。まさか」

「そう。まさにそう思わせる事が犯人の狙いだったんじゃよ」

「味噌がどんな犯罪を?」

 そこで言葉に詰まった博士はそれ以上の名探偵ごっこを諦めた。遊びのアドリブで若者の頭の回転にかなうわけがない。

「あー、まず第一に考えなければならないことは、彼ら類人猿にとって最も食べたくない物は何かということじゃ」

「・・・食べられない物?」

「今一歩じゃな。有毒な物じゃ。ああ、そこで当たり前だなどと思ってはいかんよ。例えば肉。殺したての獲物の肉は食べても安全じゃろう。しかし、ここのように暑い環境に十日間放置しておいた肉はどうじゃ?」

「腐ってるでしょうね。でも、味噌は腐敗じゃなくて発酵じゃないですか」

「微生物の働きによって変質するという点では同じなんじゃ。変質して毒素が生じるのが腐敗、うま味が増したり保存性がよくなったりするのが発酵。彼らはその変質した臭いに反応したんじゃろう。我々が味噌汁を飲むということは彼らから見れば腐った豆の汁を飲むようなものなのかもしれん。ああ、夕食に納豆汁を出して見せれば追試ができるな」

「やめてください!」

 それが本当なら腐った豆の入った腐った豆の汁である。そんなものを見せたら決定的に嫌われてしまうかもしれない。

「冗談はともかくとして、これはどうしようか」

 カップを掲げてみせる。

「そこらに捨ててしまうと野生動物を呼び寄せるでしょうね」

「となると・・・飲んでしまうしかないか、彼らの見えないところで」

「うーん。臭いでバレそう・・・でも、それが一番ですかね」

 クッションを脇に挟んで乾パンとカップを手に腰を上げる。

「ちょっと出てくるわ。バイバイ」

 あゆみは博士がバリケードに出入り口を開けている間に母子に声をかけた。手を振って見せると振り返してくれる。猿まねにすぎないのかもしれないが、応えてくれるのはやっぱりうれしい。

 枯れ木のバリケードはスカスカなので、母子から見えないようにというとタイムマシンの陰になるトイレの方向しかない。土を被せてあるとはいえ、その近くで食事はしたくないので、やや離れた所に背中合わせに腰を下ろして食べようということになった。周囲の草原をそれぞれ180度ずつ警戒しながらの食事になる。

「あゆみ君」

 1個目の乾パンを飲み下した博士が呼びかけた。

「ふあい」

 乾パンがまだ口の中に残っていたあゆみは少々迷惑げに返事する。

「サバイバルフードが乾パンというのは間違いだったんじゃろうかなあ。ラミちゃんたちの前では味噌汁がだめ、多分コーヒーや紅茶も、ビーフジャーキーも古くておかしな臭いの肉だろうからだめ。食えるのは乾パンとお湯とゼリー飲料・・・だけか。想定外の事態とはいえ、これはつらいな。賞味期限が短くなってもバランス栄養食とかにするべきだったんじゃろうか」

「そうですね。これでは多分体重を維持できませんよ。空腹なんだけど食べたくないって不思議ですよね」

 あゆみは現代に戻ったらまず体重計に乗ろうと思った。ここで減らしてしまった体重の分美味しいものを食べまくるのだ。

「サバイバルフードも進化せねば滅びるか」

「先生って妙に生物や進化に詳しいんですね。確か専門は物理学関係でしょう?」

「子供の頃から古生物が好きだったんじゃ。化石人類学に興味を持ったのは高校に入ってからじゃったな」

 小学生時代は恐竜博士と呼ばれ、中学生になってからは原生代から新生代まで興味の範囲を広げ、将来は古生物の研究者を目指していたのだった。

「まあ、いろいろあって大学は物理学科を選んだんじゃが、な・・・」

 高校の担任だった生物の教諭に言われたのだ。「古生物学でまともに食べていけるのはほんの一握りの連中だけだ。やめておけ」と。

 ニュートン力学が通用しない、不確定性やゆらぎやもつれに支配された量子力学の世界は面白かったし、いろいろ新しい発見もした。無我夢中で駆け抜けたような研究者人生に悔いはないが、最近は「もしもあの時、我を通していたら」と思うこともたまにはあるのだった。

「そうだ! ラミちゃんにナツメヤシを分けてもらいましょう。あ、バオバブの実もありますよ。ラミちゃんならあの木にも登れるんじゃないですか」

「頼ってばかりじゃなあ」

「私たちはラミちゃんたちに安全な場所を提供しているんです。ウインウインの関係ですよ」

「乾パンと物々交換・・・してもらえるかのう」

「さっきも言ってたじゃないですか。私はアルちゃんの保母さんなんですから労働に対する正当な報酬をもらう権利があります」

「・・・そういうもんか」

 そもそも「労働に対する報酬」という考え方が通用するのかを始めとしていろいろ問題がありそうな気はするのだが、サバイバル生活では前向きな考え方が大事なのも事実ではあった。


 残った乾パンと空きカップをあゆみに任せて、枯れ木2本とバオバブの実を回収した博士が砦に戻ると母子とあゆみはグルーミングの最中だった。

「お帰りなさーい」

 あゆみは母猿の後ろに座ってグルーミング(所詮まねごと程度だろうが)をしてやっている。そして、あゆみの肩に乗っている子猿もあゆみの髪のグルーミング。実にほのぼのした光景である。

(まあ、覚悟ができているのならそれも良かろう)

 なんとなく見ていると母猿が左手を差し出した。

「ホ、ホ、ホ」

「『こっちへ来なさい。毛づくろいしたげるから』だと思います」

 一瞬「あなたは人間よ。人間なのよ!」というサリバン先生の台詞が心をよぎったが、集団生活では妥協が必要な時もあるだろうと思い直す。

「お世話になります」

 通じるはずのない言葉をかけて母猿の前に置いたレインウェア入りのスタッフバッグに腰を下ろす。

(しまった)

 背中をさまよう手の感触で失敗を悟った。作業服の背中には毛が生えていないのだ。急いでスタッフバッグの向きを90度変え、それを枕にして地面に横になる。

 母猿はさすがにプロ(?)らしく決して爪を立てずに、少しずつ丁寧に髪の毛をかき分け始めた。たまに洗うだけで整髪料の類を使っていなかったことも良かったかもしれない。不自然なきつい臭いやべたべたする油が付いていたら高い確率で突き放されていただろう。

(それにしてもこの心地よさは・・・)

 心の表面の波が徐々に凪いでいくような、と表現できるかもしれない。この波が消え、心がどんどん透明になっていけば、その水底に悟りが見えてくるような気がする、と言ったら坊さんたちが怒るだろうか・・・・・・。


 博士は背後で何かが動く気配で目が覚めた。頭だけを起こしてみると母猿が立ち上がった所だった。そのまま見ていると森の側のバリケードに通路を開けて出て行く。枯れ木を元に戻す所を見ると知能はチンパンジーよりも上かもしれない。

「どうでした、毛づくろい初体験は?」

 振り向くと、体育座りのあゆみがニヤニヤしながら見下ろしている。

「気持ちよかった。何かひどく平和な夢を見ていたような気がする」

「よかったですね」

「アルちゃんはどうした?」

「聞くまでもなかった。頭上でパタパタと音がしてタイムマシンの上から子猿が顔を出す。

(もしかして「アルちゃん」という一繋がりの声が自分を表すものだと認識しとるのか?)

「アルちゃん、ホ、ホ、ホ」

 博士は呼んでみたが、子猿は一瞬迷うような様子を見せてからあゆみの肩に降りた。言葉は通じているようだが・・・第一印象が悪かったせいか、それともただの女好きなのかもしれない。股間にはかわいらしいものがちゃんと付いているし。

 母猿が戻るまでに何回か「ホ、ホ、ホ」を試してみた博士だったが、ついに肩には乗ってもらえなかった。一番効果があったのでもあゆみの肩と自分の肩をくっつけた時にあゆみの肩に乗ったまま片手を伸ばしてちょいちょいとグルーミングしてくれたくらいだ。


 母猿はまた見たこともない黄色い果実を両手に1個ずつ持ってきた。

「キワノですね。ツノニガウリとも呼ばれますがキュウリの仲間です」

「ああ、なるほど」

 言われてみれば納得できる。黄色くなるまで熟したキュウリをさらに太短くし、数が少なくてその分大きいトゲを丸く囲むように白っぽい模様を付ければできあがりだ。

 子猿を呼んだ母猿はキワノの片方を人間組から見えないように体の陰に隠して、もう一方のトゲを囓リ取っては吐き出すということを始めた。さすがにトゲは食べられないらしい。そして人間組にお裾分けする気もないようだ。手に入った食べ物の量が十分ではなかったので分配できるほどではなかった、ということかもしれない。群に加えてもらう儀礼も済んだことだし。

「これは作戦Bかな」

「そうですね」

 小声で話し合う。大きな声を出しても理解できないだろうとは思うが、そこは気分である。

 博士は釘抜き付きのハンマーを手に取った。バオバブの実をわざと母子に見える所に置いて、あらかじめ沸騰したお湯に浸けてからよく拭いて油を抜いておいたハンマーの二股になっている釘抜き側をバオバブの実に打ち込む。これを縦に一周するように続けていく。ちらっと横目で見ると母子は食事も忘れて見入っている。好奇心も強いようだ。

 点線状の穴が一周したら真ん中辺りの穴にハンマーの先を差し込んでこじる。それで実は二つに割れた。中には白い塊がびっしり詰まっている。

「これを食べるのかね」

「ええと、確か種の周りに果肉が付いてるはずですけど・・・」

「どれどれ」

 塊を一つつまんで口に入れた博士は目をあちこちに動かしながらそれを口の中で転がしてから黒っぽい大きな種を吐き出した。

「これは・・・あれじゃな。饅頭。饅頭のあんこの部分を種にしたようなもんじゃ」

「味は?」

「味? 味は・・・何というか・・・薄めたスポーツドリンクかな? とにかく食べられる部分は多くはないぞ」

「あ、ごめんなさい。どうぞ、食べてみて。ホゥ」

 あゆみはとうとう近くに寄ってきた母猿に半割にした実を与えた。それを受け取った母猿はバリケードのそばに戻って前回のように毒味を始める。

 果実のせいか今回は早かった。すぐに種を吐き出して子猿に許可を出す。そして子猿と一緒に果肉を口に入れては種を吐き出す、というのを始めた。

「ほんとに薄い・・・スポーツドリンクというか、ハーブティーにこんなのがありそうかも・・・」

 あゆみも小首を傾げている。

「ホーッ」「グゥ」「ギャギャッ」「ホッ」

 一方、母子はどんどんテンションが上がっていくようだった。特に子猿は上を向いたり手を振り回したりと忙しい。母猿は声を出しながらも着実に食べ進めているようだ。

「何と言っとるんじゃろうか」

「わかりません。スワヒリ語でもなさそうだし」

 当たり前だ。

「でも、美味しそう・・・てか、興奮してる?」

 そう言ったあゆみは博士の方に顔を向けた。

「先生?」

「何かな」

「なんかムラムラとか、私を押し倒したいとか、そういう気分になってます?」

 博士の開いた口がふさがるのにはしばらくかかった。

「・・・・・・あくまでも仮定の話としてだな、そういう気分になったとしたら何だというんじゃ?」

 かすかに怒りを込めた口調で言葉を絞り出す。

「ネコにマタタビみたいな成分が含まれていたかな、と」

「あゆみ君自身はどうなんじゃ」

「先生になら純潔を捧げても・・・という気持ちには全っ然なれません!」

 力を込めて言い切ってくれる。

「・・・それは何より。しかし、そうすると彼らだけに効く興奮剤か? 日本人にはアルコール分解酵素を造れない人が多いようなものなのか」

 そこへ母猿がやってきてキワノを差し出した。バオバブの実はもう食べ終えてしまったらしい。

「あら? くれるの?」

 だが、母猿の視線はあゆみとバオバブの実の残り半分を行ったり来たりしている。実にわかりやすい。

「物々交換ね。どうぞ。ホゥ」

 バオバブの実を受け取った母子は騒がしい食事を再開した。

「あ、痛い。これ、トゲがチクチクじゃなくてグリッグリッですね」

「あゆみ君」

 博士は母子の方を見たまま呼びかけた。

「はい?」

「バオバブの実は栄養豊かなのだね?」

「ええ。雨期の間、バオバブの実を食べて健康を維持する部族もいるみたいです。あとゾウが食べたり、落ちた実を食べる動物たちもいるとか」

「ふむ。検証はできんが、我々は味の良い物、濃い物かもしれんが、そういう食べ物を好むのに対して彼らは栄養が豊かな物を求めている可能性がある。きつい言い方をすれば現生人類の味覚は退化、つまり栄養を無視する方向へ進化して、彼らとは味覚がずれてしまったのかもしれん。わさびや唐辛子やたばこはともかくとして、カフェインとか、味噌や醤油・漬け物のような発酵食品、肉も腐りかけにうま味を感じるとか、な。乾パンを喜んでもらえたのも栄養が豊かだとわかったからだと考えると無理がない。・・・ところでそれはどうやって食べるんじゃ? ラミちゃんのようにトゲを切り落として皮ごとか?」

「いえ、二つに割って中の果肉を・・・スプーンあります?」

「ああ、ナイフもいるな」

 指で押してみて皮の硬さはバオバブほどではないのを確認した博士はマルチツールとスプーンを出すためにタイムマシンに登った。

 二つ割りにしてみると、それは確かにキュウリだった。透明な袋に液体と一緒に包まれた細長い種がずらりと並んでいる。

「これは種も食べられます」

 あゆみはスプーンでひとすくいした果肉を口に運んだ。

「・・・味がないですね」

 わずかな酸味程度だ。

「砂糖・・・いや、これは塩がいいかな」

「私はお醤油ですね。こんなのばっかり食べてたら健康になっちゃいそう」

「健康になって何の不都合がある」

「それはそうなんですけど・・・。あ、乾パンが合うかも」

 あゆみもタイムマシンから乾パンの袋を持ち出した。母子が見ていたのでひとつかみ分けてあげる。とにかく乾パンはなかなか減っていかないのだ。一度に食べられる量が少ないので一日中食べ続けているような状態なのだが、当初の予想以上に残ることになるのは間違いなさそうだった。

(帰る時にアルちゃんやラミちゃんに残していけるといいんだけど)

 袋を残すわけにはいかないから手のひらに載るくらいが限度だろうか。とりあえず乾パンのガリガリゴリゴリの食感とキワノのみずみずしい果肉はよく合った。


 食事が終わるとまたグルーミングだった。どうも彼らは空腹でなければ食べ物を探しに行くつもりがないらしい。あゆみが食べ物を分け与えるせいもあるのだろうが、そもそもここでは一度に食べきれないほどの食べ物があっても腐らせるだけだし、熱帯の森には一年を通して何かしらの食べ物があるのだろう。

 だいぶ日が傾いた頃、母猿はまた森へ出かけていった。

 今回母猿が持ってきたのは一抱えの緑の葉が付いた枝だった。それを見た博士が血相を変える。

「まずい!」

 博士はタイムマシンの前に立った。

「彼女は寝床を作るつもりじゃろう。ハッチの上に寝床を作られると中に入れん。あゆみ君、悪いがそっちのテントで寝るように説得してくれんか」

 無茶なことを言う。あゆみが使える言葉は「ギャッ」と「ホ、ホ、ホ」と「ホゥ」だけだ。「この中で寝ましょう」などという構文が作れるわけがない。

 博士の両手を広げて「ギャッ」は通じたらしい。これまでにも雄の類人猿から「ギャッ」(ここは俺の寝床だ。他へ行け!)と言われたことがあったのかもしれない。

「ほーい。ラミちゃーん、ホ、ホ、ホ」

 母猿はテントの入り口からのあゆみの声にわずかな間迷った。森の中では地面から離れた木の上で寝ていた。その方が安全だったからだ。しかし、ここにはそれほど高い木はない。丸い銀色の木は大きな雄に取られたし、大きな雌は地面近くの寝床から呼んでいる。

 複雑な声を出す背の高い巨人たち、味わったことのない食べ物、銀色の大きな木、並べられた枯れ木。いままで暮らしてきた森の中とは何もかも違う。だが、この巨人の雌は子供の面倒を見てくれるし、美味しいものも分けてくれる。しかもこの雌はジャッカルを撃退するほどの強さを持っている。だからこそ低い場所を寝床にすることができるのかもしれない。ならばこの群れのやり方に従っておいた方がいいだろう。「出て行け」と言われても困るし。

 決心した母猿が寝床用の枝葉を持ってあゆみのテントに近寄って行くとマットごと寝袋を寄せたあゆみの横で子猿が面白そうにテントの布をつついていた。母猿にしてもこれほど薄くて広い葉っぱは初めてだっただろう。

「ほい、これも使うといい」

 気がとがめたのか、博士がフリースの毛布を持ってきてくれた。

「ありがとうございます。はい、ラミちゃん。これは温かいよ」

 枝葉の上にしゃがんだ母子にそれをかけてやると子猿はそれを被ったり顔を出したりという遊びを始めた。母猿は匂いを嗅いだり、グルーミングのようにフリースをかき分けたりしている。もともと毛皮に似せて作られた素材なのでグルーミングしたくなってしまうのかもしれない。

 落ち着いたところで夕食にしようということになった。

「ほれ、乾パンとお湯だけでは辛かろう。半分こしよう。

 差し出されたマグカップにはゼリー飲料が少し入っている。

「先生の分は?」

「ここにある」

 そう言って掲げたゼリー飲料のパックに子猿が反応した。素早く博士の肩に駆け登り、パックに手を伸ばしてくる。

「おっとっと」

 パックをここに残していくわけにはいかないので子猿に奪われないように腕を伸ばす。それを見た子猿は驚くべき行動に出た。なんと、博士の髪の毛をグルーミングし始めたのだ。

「そうか! そうだったのか! 謎はすべて解けたぞ。ありがとう、アルちゃん」

 要するに食べ物をくれる相手に懐いていただけだったのだ。最初にゼリー飲料を与えたのは博士だが、あゆみによって上書きされてしまったのだろう。

「江戸っ子だってねえ。寿司食いねえ。わはははは」

 博士はパックの口から少しだけゼリーを絞り出して子猿の口まで持っていった。子猿が食いつくのを待って手に力を入れてやる。自分で持ちたいらしく手を出してくるのだがそれは許さない。

 それを見ていたあゆみは重いため息をついた。この爺さまは入浴中に新発見をしたら裸のまま町に駆け出すタイプではなかろうか。


 テントに朝日が当たると目が覚めてしまう。寝袋のジッパーを引き開けるとその音で体育座りの姿勢のままで眠っていたらしい母猿も目を開けた。

「おはよ」

 母猿の胸でまだ眠っている子猿に遠慮して小声でご挨拶。

 テントから出ると博士もイモムシの中から出てくるところだった。

 博士とあゆみが朝食の支度を始めると、母子は乾パンの袋の音を聞きつけてのそのそと這い出してきたが、乾パンを差し出しても二つ三つ手にとってまた寝床に戻ると毛布を被ってしまった。「まったくもう、こんな朝早くから起き出して・・・しょうがないからつきあってあげるけどさあ」とでも言いたげな態度である。人間組は早く寝た分早く目覚めてしまって朝食を食べるのが当たり前のような気がしているのだが、彼らは本来もっとルーズな生活をしているのかもしれない。あるいは人間組が食べ物を与え過ぎているのか。

(そういえば直接的な利益もないのに食べ物を分け与える、そんな利他的行動は野生動物の世界では珍しいのではなかったか)

 博士は生態学の知識の引き出しをひっくり返してみたが、その中身はほとんど空っぽだった。求愛行動としてなら吐き戻しを雌に与える小鳥もいるし、獲物を雌に捧げて交尾させてもらう昆虫もいる。チンパンジーやボノボではもの欲しそうにしている相手に分け与える行動も報告されていたはずだ。だが、仲間だというだけで見返りを求めずに景気よく、積極的に、ほとんど挨拶代わりに分け与える、つまり「餌付け」をする類人猿はいただろうか?

(我々の祖先はいつそういう性質を獲得したのだろう?)


 交代でトイレを済ませ、博士はバリケードの補修用の木を伐りに行き、あゆみは猿たちの未来のためにトイレの脇にバオバブの種をいくつか埋めて一休みしているとようやく母子が起き出してきた。

「ホ、ホ、ホ」

 博士が食べ物を探しに行こうとしていたらしい母猿を呼び止めた。赤土がむき出しになっている所に呼んで枯れ木の先で線を一本引く。そこからデフォルメされた富士山のような曲線を2本、その上に雲・・・ではない! これはバオバブの木だ。幼稚園児並みの絵だが。

 雲から線を引き下ろして小さなラグビーボールを左右に2本ずつ。そこまで描いてからバリケードの中に投げ込んであったバオバブの実の皮を持ってきて、それと絵の中のラグビーボールを交互に指さす。要するに「あそこに美味しい物があるよ」である。

「あゆみ君、留守番を頼むよ」

 博士は護身用の枯れ木を持って母猿と一緒に砦を出て行った。

(ただのお湯よりはバオバブの果肉の方がマシだものね)

「ホ、ホ、ホ」

 あゆみは母親について行きたそうな素振りを見せている子猿を呼んだ。


 その雄の類人猿はバオバブの枝を両足でつかんで座っていた。その体勢で膝に載せたバオバブの実の果肉を食べている。

 彼には悩みがあった。群れの仲間とうまくつきあえないのだ。というよりも他の雄から一方的に嫌われてしまうのだ。生まれ育った群れを出てから二つの群れを渡り歩いたが、どちらの群れでも上位の雄たちに攻撃されて群れから出て行かざるを得なかった。彼自身もうすうす感じていたことだが、その原因は彼の骨格にあった。彼も母猿ほどではないが直立寄りの股関節を持っていたのだ。しかも大後頭孔は頭蓋骨の下にある。これだと上体を直立させた方が楽になる。その結果、見下ろされることになる他の雄たちからは「新入りのくせに生意気だ!」と言われてしまうのだった。

 しかし、悪いことばかりでもなかった。群から追い出されて森を出た彼は草原にあったバオバブの木にたどり着いてゾウが食べ残した果肉を見つけたのだ。枝からぶら下がっていた実を地上に落としてから幹に叩きつけて割ってみると、そこにはうまい果肉が詰まっていた。彼は森から出ようとしない他のメンバーには知らせずにバオバブの実を独占することにしたのだった。

 彼は次のバオバブの木とその向こうの森の間にある銀色の平たくて丸い木を見ていた。それまではなかったのに今日ここに来てみたら生えていたのだ。

 その銀色の木の辺りから動くものが二つ現れ、それを見た彼は思わず体を乗り出した。二人はどちらも彼と同じような直立の姿勢を取っていた。片方は雌らしかったが、もう一人は彼よりもはるかに背が高かった。

(あの群れなら受け入れてもらえるかもしれない)

 直立型の二人組はこちらへ向かって歩いてくる。長身の方は頭以外はグレーだが、雌が一緒にいるということは自分たちの仲間であるはずだ。

(あの二人がここまで来たらこの果肉を手みやげに群に加えてもらおう)

 だが、その二人は次のバオバブの木の所にしばらく留まった後、バオバブの実を抱えて元来た方へ帰っていってしまった。

 彼はバオバブの種を吐き出すと実の残りを抱えて木を降り始めた。


 類人猿の母子は今日も賑やかにバオバブの果肉を食べている。実を割ってあげた人間組もお裾分けをいただいているが、バオバブや乾パンをおいしいとする味覚にはあきれていいのか、それともうらやむべきか悩ましい所だ。

 母子にとっては多分朝食、人間組にはおやつが終わるとまたくつろぎタイムだ。横になったあゆみの髪を母猿がグルーミングしていると、その後ろにいた子猿が明らかに雑なグルーミングの真似をする。軽くため息をついた博士は子猿の後ろに腰を下ろした。「郷に入らばなんとやら」である。

 子猿にとっては気持ちいいっというよりもくすぐったかったのかもしれない。すぐに博士の肩に登ってしまったので、前に出て母猿のグルーミングをする。前回のお返しである。

「ギャッ!」

 突然母猿が叫んだ。素早く子猿をひったくって反対側のバリケード際まで跳びのく。

 あゆみと博士が振り向くとバリケードの外に類人猿が一人立っていた。母猿より一回り大きながっちりした体つきをしている。ややがに股の足の付け根に立派なものをぶら下げているので雄だとわかる。母猿ほど猫背には見えないから首より上の骨格は彼女よりも人間寄りなのかもしれない。そして叩き割られたらしいバオバブの実を抱えている。その雄猿はバリケードの外をうろうろした後、枯れ木をどけて中に入ってきた。

「ギャギャーッ!」

 母猿がまた叫んだ。彼女は若い同族の雄は子供にとって危険な存在だということがわかっていた。だから警戒の叫びをあげた。叫べば群で一番強い雌が助けてくれると思ったのだ。だが、あてにしていた雌は呆然と突っ立っているだけだった。

 雄猿は四人を順に見回した後、もう一度博士を上から下まで観察した。この頭以外はグレーの背の高い雄がリーダーだろうと判断してバオバブの果肉を差し出す。

「「や、これはご丁寧にどうも」

 その台詞は雄猿には理解不能だったが「拒否しない」という意思は感じられた。次は小猿を抱いた母猿だ。彼の基準では群の中の順位はまずリーダーの雄、その下に子持ちの雌、その他だったのだ。

「ギャーッ!」

 子猿を抱きしめた母猿は唇をめくりあげて意外に長い犬歯を剥き出しにした。近づいてくる雄猿に威嚇しながら後ずさりする。背中を見せて逃げるタイミングを失った格好だ。

 あゆみは子持ちの雌が若い雄を嫌う理由を思い出したが、それはライオンの場合であり、類人猿でもそういう例があるのかどうかわからない。

「ギャッ!」

 母猿に牙を剥いて威嚇されるが、こういうのには慣れている雄猿は果肉を受け取ってもらえるか、雌に逃げられるまで諦める気はなかった。この果肉にはナツメヤシと同じくらいの価値がある。それは口にしてもらえばわかる。気にしていない素振りで果肉を差し出したまま母子に向かってもう一歩踏み出した。

 それに素早く手を出したのは食いしん坊の子猿だった。あっけにとられている母猿の胸元で果肉を口に入れる。

 思考停止していたのは雄猿も同じだったが、我に帰るのは彼の方が早かった。もう一度今度は母猿の方へ果肉を差し出す。諦めがついたのか母猿もしぶしぶという様子でそれを受け取った。

「ホゥ」

 最後にされたあゆみはお礼に乾パンを3個渡してあげた。

 それは雄猿にとっては「見たこともないガサガサと音を立てる大きな果実から取り出された種」のようなものだっただろう。妙な匂いなのでためらっていると、目の前の背の高い雌はバオバブの種を吐き出して代わりにその種を口に入れ、噛み砕いて見せてくれた。彼もそれを真似てみる。

(うまい)

 彼にとっては初めての食べ物だったが、高いカロリーと栄養バランスはそれを良い物だと感じさせた。

 彼は唇を少し上げて歯を見せた。すると背の高いおかしな色の雌も微笑みで応える。

(この雌は俺に好意を抱いている)

 不幸な誤解の始まりだった。異種間のコミュニケーションは難しいのだ。


 バオバブの果肉がなくなるとグルーミング大会が始まった。これもまたよそ者が群に受け入れられるための儀礼なのだろう。まずは母猿が雄猿にグルーミングを始めた。一度は拒否したのを気にしての仲直りのグルーミングなのだろう。それが一通り済んだら今度は雄猿が母猿にしてあげる。その間、子猿は雄猿の肩に乗っていた。時々頭の毛をいじることまでしている。雄猿はそういう事をされるのは初めてだったが、母猿に嫌われたくないので邪険にもできない。人間で言えば苦労人なので雌の子供にも寛容なのである。一方、子猿は食いしん坊なので食べ物をくれる相手には無条件で懐いてしまうのだった。

(おかしな群だ)

 リーダーと若い雌は背が高くて葉っぱのような薄いものを身につけている。森ではなく草原で暮らしているようだし、新入りに食べ物までくれるのだ。「くれ」と言ったわけでもないのに。

 雄猿はリーダーにもグルーミングしようとして途方に暮れてしまった。リーダーの灰色の背中には毛が生えていない。これはどうやってグルーミングすればいいのか?

 博士の方もこの雄猿の前に寝転がってまでグルーミングさせてやる気にもなれなかったので少し背中を探られた程度で切り上げさせ、お返しのグルーミングもさっさと終わらせた。

 最後はあゆみだが、あゆみもあまり積極的にグルーミングされたい気分ではなかった。母猿があれほど嫌がる相手だし。というわけで、雄猿はまたしてもグルーミングしたくてもできないという問題に直面することになった。この小さな群には子持ちでない雌は他にいないようなので、ここはどうにかして仲良くなりたくて、どこかに毛が生えていないかとポロシャツの背中を探るのだが、リーダーの背中と同じように毛が生えていない。

「好かれておるなあ」

「え?」

 あゆみは博士の言葉に振り向いた。

「そこまで熱心なグルーミングは求愛行動だと思うぞ」

「あっ」

 ポロシャツなのに妙にしつこいグルーミングだとは思っていたのだ。あゆみはグルーミングされるのもマナーの内だと思っていた。だから雄猿が納得いくまでさせておくつもりだったのだが、それだと少々事情が変わる。

「ごめんなさい。私、毛深い人はだめなの」

 雄猿に向き直って軽く腕を押す。

 お返しのグルーミングもしないことで意思は通じたようだ。雄猿は引き下がってくれた。これでさらに砦から出ていくようなら完全に諦めたということになるのだろうが、砦の反対側でチラチラと送ってくる視線が雄猿の心理を伝えてくる。

(パワハラになっちゃうかなあ)

 気の毒だとは思うが、種の違いはどうにもならない。通じるとは思えないが「あなたにふさわしい娘を探してよ」と言いたいところである。


 少々ぎくしゃくした雰囲気のまま時が過ぎていった。雄猿に懐いているのは子猿だけという状況だ。第一印象が良くなかった事だし、出て行ってもらった方がありがたいくらいなのだが、もう手遅れだろう。

 そのうちに人間組にとってのお昼の時間になった。

 お湯を沸かし始めると雄猿の肩から子猿が降りてきた。あゆみから乾パンをもらうと母猿の側に行って食べ始める。

「ホ、ホ、ホ」

 博士が雄猿に呼びかける。寄ってくる所を見ると言葉は通じているようだ。

 雄猿にバオバブの実の殻を見せて、それから木の方を指さす。「取ってきてもらえないか」らしい。その動作を母猿に対しても繰り返す。グルーミング程度では完全な和解はできないだろうから共同作業させてやろうということらしい。

「ホ、ホ、ホ」

「ホゥ」

 雄猿の呼びかけに母猿が応えた。うまくいきそうだ。

 博士の気遣いは予想外の効果をもたらした。バリケードを開けて出かけようとしていた二人に子猿が駆け寄ると雄猿の肩に駆け登ったのだ。

 雄猿は驚いたが、これがこの群のやり方なのだろうと思った。母猿から「ダメ」と言われることもないので、そのまま三人でバオバブの木に向かって歩き出す。

 三人を見送った博士はクッカーを持ち上げると湯気が出始めた水をストーブにかけて火を消した。

「帰ろう。タイムマシンに乗って鉛エプロンを着たまえ」

 立ち上がった博士はあっけにとられているあゆみに向かって告げた。

「ちょっ・・・まだ一日半しか経ってませんよ」

「多分大丈夫じゃろう」

 くっついて歩いているあゆみに丸めたシュラフカバーとたたんだレジャーシートを手渡す。

「でも私、アルちゃんやラミちゃんにさよならしてませんよ」

「わしらが未来へ帰るということをどうやって説明するんだね?」

 正論だった。「危険だから離れていてくれ」と言っても理解してもらえないだろう。

「・・・さよなら」

 あゆみは三人の背中に向かって小声で告げてからタイムマシンによじ登った。

 博士は寝袋、ロールマット、たたんだワンタッチテント、折りたたみシャベルと次々に荷物をハッチから手渡してきた。重いワンピースを着たあゆみはそれらを片っ端からコンテナに押し込んでいく。最後にストーブやクッカーの入ったポリ袋をシートの下に押し込んだ博士はハッチを閉めた。シートベルトを締めて、操縦桿に引っかけてあったゴーグルを着ける。

「先生、私のゴーグルはコンテナの底の方なんですけど」

「そう長い時間ではない。目をつぶっていてくれれば良かろう」

「唇を奪ったりしないでくださいね」

 博士の手は一瞬止まったが振り向きはしなかった。

「アリクイじゃあるまいし、そこまで届くほど長い唇は持っとらんわい」

 四基のジェットエンジンが順に始動していく。

「チェック終了。オールグリーン。行くぞ」

 あゆみは慌ててベルトを締めて目を閉じた。


 ジェットエンジンの甲高い叫びに振り向いた三人の類人猿は銀色の木が上昇していくのを見た。その動きが止まった途端に木は球形の光に包まれる。その光が消えた跡には木はなかった。

 急いで引き返した彼らが砦だった場所に戻った時、そこにあったのは吹き散らされた枯れ木と噴射で灼かれた草だけだった。


 タイムマシンが着陸して牛舎の中までタキシングしてもタイムパトロールの待ち伏せはなかった。

「先生・・・」

 あゆみは電源ケーブルを接続している博士の背中に呼びかけた。

「あの雄猿はアルちゃんを殺すでしょうか」

 それを聞いた博士が振り向く。

「知っておったか」

 ライオンの群れは一夫多妻制なのだが、ボスの交代が起こった場合、新しいボスは群れにいた子供たちを皆殺しにしてしまう。確実に自分のではない子を生かしておく理由はないし、子供がいなくなった雌は発情するからだ。チンパンジーでも群の中で生まれた子が雄に殺される例があるらしい。母親が新たに現れた雄猿を拒否する態度を見せたのはそういう事情だったのかもしれない。

「大丈夫じゃろう。アルちゃんは雄猿の差し出した食べ物を受け取った。例えは悪いが、あれは親分子分の杯を交わしたようなものだと思う。あの雄猿に親分としての意識があるなら子分に手を出すような事はしないはずじゃ。一人前になったら群れから追い出すくらいのことはするかもしれんが・・・」

 そこで博士は首を傾げた。

「はて? ラミちゃんはわしを拒否しなかったぞ。なぜじゃ?

「それは簡単なことですよ、ワトソンさん」

 あゆみはちょっと悪い笑みを浮かべながら言った。

「先生がお年寄りだからです。ラミちゃんは先生のことを『現役の雄じゃない』と判断したんですよ」

「むう・・・・・・」

 実際は、あゆみというジャッカルを撃退するほどの強い雌がいたからなのだが。

「じゃ私、帰りますね」

「ああ、ちょっと待ってくれたまえ。一つ頼みたい事がある。人類史の記述に変化が生じていないかをざっと調べて欲しいんじゃ」

「過去に干渉したことによって未来が変化した可能性ですか? でも私、人類学なんて専門外ですよ」

「かまわん。余計な先入観がない方が見えやすいものがあるかもしれんじゃろう。なんとなくとか、違和感があるとか、そういうものでもいい。専門的な領域についてはわしの方でチェックする。起源はひとまず二週間としよう。ああ、もちろん報酬は払うよ」

 そういうことなら断る理由はもうない。

「うちの図書館で調べられる範囲でいいんですね」

「ああ、学業に影響しない範囲でな」


 実際には一週間もしないうちに当面調べられる範囲は調べ尽くしてしまったのでお茶を飲みながら中間報告会をしましょうということになった。

「特に変わったとか、気になったとかいうのはありませんでした。アルディピテクス・ラミドゥスは約440万年前のエチオピアに生息していたそうです。

 あゆみは簡潔に報告するとマグカップのカフェオレを口に運んだ。

「うむ。ウェブでも記憶と一致しないような記述は見つかっておらん」

 博士はミルクティーだ。

「この調査、無駄だったんですか」

「いや『ない』というのもりっぱな情報じゃ。『ない』というデータを蓄積していけば『ないのかもしれない』という仮説の確度が高くなっていく。『ある』というデータ一発で破綻するがね。さて、第一にラミちゃんたちが直立二足歩行の類人猿、つまりホモ属の祖先であると仮定する。第二に人類史が変化していないとするとおもしろい事になる」

 博士はミルクティーを一口飲んで続けた。

「時間のゆらぎ・・・時間の流れが川のように蛇行する事によって未来が変化する可能性が生じたとすると、正しい未来にするためには蛇行を修正する必要がある。今回の場合でいえばラミちゃんがジャッカルの群に殺されてしまったとすると人類の歴史がそこで終わってしまう可能性がある」

「でも、私たちはここにいるじゃないですか」

「そう、正しい未来、というか我々が存在する未来にならない。だからあゆみ君はラミちゃんたちを助けなくてはならなかった。そのためにはあの場所にあゆみ君がいなければならなかった。そのためにはタイムマシンが作られなければならなかったんじゃ。すべては正しい歴史になるために必要なことだったということじゃな。時間の神様の手のひらの上で踊らされていたと言ってもいいかもしれん」

「・・・それって・・・私が人類を救ってしまったってことになるんですか?」

「あまり気にする事はあるまい。あゆみ君がやらなければ他の誰かがやることになったはずじゃ。アフリカの人たちのためにアフリカへ行こうという気持ちが時間の神様に注目された可能性はあるが、ね。さて、わしらのやったことのすべてが正しい歴史のためだったとすると、歴史の改変を防止するためのタイムパトロールは存在する理由も必要もないということになる。というわけで、わしは、あの日のわしに向かって『そこのタイムマシン! 着陸して電源を切りなさい!』と呼びかけなければならないんじゃが、いっしょに来るかね?」

 それは確かに、あの日のタイムパトロールの声だった。


            完


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