星の小瓶
月明りが照らす影の中。ティナとの出会いがあったことを、クロエはふと思い出す。
偶然にも似た必然。思えばあの出会いはそう呼べるであろう。
コミンの地にある集落の外れに建てられた古い小屋の中。天窓付きの屋根裏部屋に置かれたベッドの中に、クロエという影の精と契約を結んだ魔法使い――少女・ティナは眠っていた。シーツの海に溺れ、温かな毛布を身に纏わせた彼女は、何か楽しい夢でも見ているのか、嬉しそうに笑っていた。
あの出会いからもう数年という月日が経ち、この土地での生活もようやく確立でき、ティナにとって安定した日々を送ることが出来る時間が過ぎるようになった。クロエはそれまでの長い月日と苦労を思い浮かべながらも、こうして今、ティナの安らかな寝顔を見ることが出来、安堵の息を吐いた。
「……お前の、おかげだ」
今こうして自分がここにいられること。それは全て、ティナという魔法使いが契約を交わし、居場所を与えてくれたからだとクロエはしみじみ思った。
精霊と魔法使い。自分たちは成り行きでの契約だったが、今思えばそれはとても有意義なものであったと思う。クロエは今の関係に満足し、そしてティナもまた満たされていると感じていた。
「……互いに必要な存在、なのか?」
人と魔法使いと精霊。様々な生物が存在するこの世界で、魔法使いと精霊は近い関係にある。主な精霊はイスカーヴの地にそびえ立つ霊峰・キクリ山の神によって生み出され、人間に信仰されながら生き、自然の力を与える。
しかし、普通の人間に精霊の力を与えることは不可能であり、それ以前に精霊の声を聞くことすらできない。だが、そんな精霊の声を聞き、力を魔法という形に変換する者たちがいる。それこそが――魔法使い。
魔法使いは精霊から与えられる呪文を独自の魔力と方法で文字と化し、瓶に詰めることでどんな者でも――特殊な力を持たない人間でも使えるように転換する。それが魔法使いという、この世界には欠かせない存在だ。
(影とは違う、人々に必要とされている存在……)
人を闇に落とす危険性がある自分とは違う、人に求められる存在。それが魔法使い。ティナの本質。
しかし、ティナは出会ったあの日から自身の側に居る道を選び、そしてその未来が続くように今も行動し続けている。
時折、ティナには他の精霊と契約し生きる道があったのではないかと思い、何気ない話題に織り交ぜて聞くことがあったが、その度にティナはいつも笑って答える。
『私は、クロエの側が居場所なんだと思うよ』
影の自分から見れば眩しいほどのその笑顔に、次の瞬間には彼女を手放せない自分が姿を見せる。
必要とされなかった自分を必要としてくれる。その事の重さを噛みしめながら、この幸福に満たされたいという尽きない願望に忠実に生き、そして今に至る。
(ありがとう。ティナ……)
眠り続ける少女の頬に、手を伸ばそうとした時だった。
「んっ……クロエ」
「どうした? 寒いのか?」
ふいにかけられた声に、クロエは一瞬、顔を見すぎたことによってティナが起きたのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
彼女は毛布を首元まで寄せると、ベッドに腰かけるクロエを見上げ、シーツに沈ませていた手に自身の手をソッと重ねた。
「……ティナ?」
先程まで気持ちよさそうに夢を見ていたように思えたが、今のティナは不安そうに眉を顰め、クロエを見上げた。
「夢が、変わった……」
「え?」
「とても、幸せな夢だったの。満たされて、温かくて。……でも、突然変わってしまった。闇に呑まれて、奪われた……」
ティナの説明を聞いて、クロエは思った。
(それは、俺のせいだな……)
と。
影の精であるクロエは闇を引き付けやすい。自身が何もしなくとも闇はクロエに集まり、側にいるティナにまで忍び寄る。加え、ティナはかつて闇の中に身を落とし、干渉しやすくなっている。気を付けているつもりではいたが、やはり詰めが甘かったとクロエは深い溜息を吐き、己を責めた。
「……星の小瓶、まだ作り置きがあったよな」
「星を、見るの?」
「今日は月が明るすぎる。……部屋の中を満たせば、またいい夢が見られるだろ」
クロエはそれだけ言い残すとベッドから腰を上げ、戸棚に仕舞われていた手のひらサイズの小瓶を手にティナの元に戻る。
黄色の半透明の小瓶の中で漂う、いくつもの黒い文字。ティナの影を切って綴られたその文字は、瓶が動くたびに中で優雅に揺れて、クロエは小瓶の栓に手をかけた。
「――っと、そうだ。その前に……」
小瓶の栓を抜く直前。天窓の月明りが部屋を照らすことを思い出したクロエは、視線を窓に向ける。
刹那。月明りによって生み出されていた無数の影が大きな集合体となし、動き始める。クロエは目線だけで窓を示すと、巨大な影は天窓の月明りを遮る幕となり、室内は漆黒の闇に包まれる。
その時、ティナの手がクロエの民族衣装の裾を掴んだため、クロエは一度だけティナの手に自身の手を添え、偽りの温もりを伝えた。
そしてティナの手の力が抜けるのを確認すると、クロエは再度小瓶の栓に手をかけ、そして抜いた。
「……わぁっ」
次の瞬間。ティナの口から漏れたのは感嘆の声だった。
闇夜に浮かぶ数多の輝き。無数の小さな灯りが部屋中に散りばめられ、月明りとは異なる明るさが部屋の中を満たす。手を伸ばせば届く距離。しかし実際に触れてしまえば漂ってしまう光の粒。
ティナは幻想的な光景に目を輝かせ、そんなティナの瞳に映る幻想の星をクロエは見つめた。
「綺麗だね、クロエ」
「綺麗、だとは思うがこれもティナの魔法だろ? 見飽きたんじゃないか?」
「確かに星の小瓶は子供のいる家庭には人気があって売れる商品だけど、自分でこうやって使うのは最初の頃の試作品だけだよ」
「あぁ、そう言えばそうだったな」
確かに記憶を遡れば、星の小瓶を私用で開けたことはなかったことを、クロエは思い出す。
初めて文字を綴り、魔法にした時。試作として栓を抜いたことはあったが、それ以外は魔力の温存という意味で商品として売り出す分だけを作り、大切に保管してきた。
その一本を、今日は特別に使う。かけがえのない存在が、悪夢にうなされない様に……。
「……もう一度、眠れそうか」
「うん。でも――」
「でも?」
そこで言葉を区切ったティナは、上半身を起こすと、ベッドに座り、クロエの側にすり寄った。
突然の行動に首を傾けるしか出来なかったクロエだったが、隣ではティナが毛布で体を包み直しながらもクロエの肩に頭を乗せ、星のような数多の光が漂う天井を見上げた。
「もう少し、一緒に見てていい?」
「俺は別に構わないが、今日も仕事をしすぎただろ? 魔力を回復しなくてもいいのか?」
「大丈夫。もう少しなら平気」
「けどな……」
「……だって、それ以上に見ていたいんだ」
ティナは天井の光をその琥珀色の瞳に映し終えると、クロエの方を向いて微笑んだ。
「クロエと初めて作った魔法。さっき夢に見てた、思い出の魔法だから」
日の下でなくとも分かる。微かに赤らんだティナの頬の色を、クロエは見逃さなかった。
それに、彼女にそこまで言わせてしまえば、もう自分は何も言えなくなってしまう。クロエは「そうか」と短く返事を返すと、ティナの赤毛を優しく撫でて、微かに乱した。
「無理だけはするなよ」
「うん。……分かってる」
そう返事を言いながら、重たくなる瞼に逆らうティナに苦笑しながら、二人はしばしの間造られた星空を見つめ、クロエは傍らで眠ってしまった魔法使いをベッドへと横たえた。