影と少女
人間が落ちてきた。そこは、影の中だった。
真っ暗な世界に突如として現れた人間は、少女と呼ぶ年齢の女だった。
業火のように真っ赤な紅い髪と、程よく焼けた発色の良い肌色。所々に傷はあるものの、纏ったマントの下から覗く柔肌は美しく、微かに開いた唇からは熟れた舌が覗いていた。
息はある。だが目は閉じたままで、どうやら眠っているようだった。
「…………」
少女は異端だった。影は異端を嫌った。
しかし影は何もしない。何もせずとも、人間がこの世界で生きていけないことを、影は知っていたからだ。
時期にこの少女の呼吸も止まる。そうすれば骸は闇に呑まれ、また何もない空間が出来上がる。影はそれだけを、ただジッと待った。
「……誰か、いるの……?」
少女が声を発する、その時までは。
影は驚いた。何故この世界で人間が生きていられるのか。そして、目を開けた人間は自身の存在を捉えるようにまっすぐにこちらを見つめた。暗い海の中に同化した、影である自身を。
だからこそ、湧き上がる興味に影は逆らえなかった。影は少女を異端から興味の対象に変え、その手を伸ばし、掴む。
刹那。影の冷たく黒い手は人間の温かな肌へと変色し、身体も侵されるように人に似た姿に形を変える。これが俗にいう干渉だと影は悟ると、素早く手を離し、少女を見つめた。
まだ干渉された手に残る魔力の感度。長い間人間との付き合いを断ってきた影には懐かしくも深い繋がりのあるその存在に、影は声をかける。
「……お前、魔法使いか?」
もう何十年ぶりかに発した言葉は、意外にも昔と変わらぬものだった。昔と変わらぬ、人間でいうところの男の声で、影はその落ち着いた声で少女に問いかけた。
問いかけられた少女は闇の中から伸びてきた手に驚くこともなければ、問いかけに目を丸くすることもない。ただ開いた瞼を一度伏せて考え込むと、時間をあけてようやく持ち上げた。
「多分、そうだと思う」
しかし返ってきた答えは曖昧なもので、影は追及する。
「多分、とはどういう意味だ」
「私にも分からないの。自分が何者か」
少女は暗闇を一望すると、仰向けになっていた身体を横に倒し、虚無の世界で笑った。「冷たいね」などと頬に触れる何かの感触を口にしながら、彼女は言葉を続ける。
「私は人間じゃない。人間とは異なる力がある。でもね、それがなんの為に存在し、どうやって使うかが分からないの。だからこの力はアナタが言う魔法使いのものなのかもしれないし、化け物の力なのかもしれない。……分からないの、昔から、ずっと……」
少女は最後にそう言い残すと、影に背を向けて身体を縮こませた。小刻みに震えている姿を見るに、この場所は人間が――いや、魔法使いがいるにはやはり人知を超えた世界なのだろう。身体の限界が震えとなって彼女に現れているのだろう。
しかし少女はこの場を去ろうとはせず、ただ横たわり、眠るようにこの場に身を置いた。
それが何故かは影には理解できなかったが、少女がこの場に留まり始めた頃から、辺りが騒めき始めたのを、影はなき肌で感じる。
『……喰ッテモイイカ?』
『呑ンデモイイカ?』
この暗闇の海の中で、闇が蠢き始める。長い間得ることの出来なかった生気に欲望が堪え切れず、騒めきは大きくなる一方だった。
しかし、それを察知出来ない少女は逃げることなくその場に留まり、闇の欲望を身体の重さで感じ取るだけだった。
『喰ウ! 呑ム! 奪エ! 奪エ!!』
欲望に耐えかねた闇が暴れ出し、少女めがけて侵食しようとした時だ。
「――やめろ」
『……ッ!?』
ドスの利いた影の声が闇を制止させ、漆黒の海の中へ闇を引きずり戻す。
気に食わないと言いたげな闇の心が空間を通じて脳内に響こうとも、影は立ち振る舞いを変えなかった。闇を深淵に押さえつけ、今度は自身が少女に近づいていった。
影自身も不思議に思った。何故少女を生かそうと思ったのか。
あのまま闇に喰わせても、何も問題はなかった。また静かな世界が生まれ、自身はそこで眠るだけだったのに、何故自分は少女を救ったのか。――否、救おうとしているのか。
『……分からないの……』
影の脳内に、少女の言葉が響く。
少女がこの世界に落ちてきた時、分からなかった理由が今なら分かる。
彼女は落ちてきたのではない。引きずり込まれたのだ。自身の存在が分からず、その力の意味も理解できない孤独と不安から、闇に呑まれたのだ。そして分からないが故に、その闇に抗う術を持ち合わせておらず、こうして震えて蹲るしかか出来ないのだ。
見えない答えを、探すことに疲れ切って……――。
(光を求める影、か……。俺と同じだな)
心の中は深い影に覆われても、その奥底では光を求めている。自身を照らしてくれる、眩いほど光を。己という輪郭を露にするためにも。彼女は、光を求めていた。
「……そろそろ、出るか」
「え?」
影は少女の真横まで忍び寄ると、姿なき身体を少女に纏わせる。
瞬間。少女の魔力によって干渉された身体は擬人の肉体を作り出し、影に形を与える。人でいうところの青年と言ったところか。
少女よりも一頭身以上大きな背丈に、程よく筋肉のついた肉体。このイスカーヴに古くから生き長らえるコミンの民族衣装に包まれた身体は、小さな少女の体を背後から簡単に抱え込み、影は彼女の頭上から顔を覗き込む。少女の瞳に映る切れ長の目をした黒髪の男が自分なのだと理解したが、この姿になるのはもう何百年と昔のせいか、懐かしさから藍色の瞳が丸くなる。しかしそれは肉体を得た影を映す少女の琥珀色の瞳も同じようで、影は自分の姿がよく見えたことに納得した。
「受肉に問題はない、か……。後は力をかけ合わせ安定させれば維持は可能だな」
「……え、あ、あの……」
「ん? どうした」
「えっと……誰?」
不思議そうな顔で自身を見つめる少女に、状況に脳の整理が追い付けないことを影は同情した。確かに急に見ず知らずの男が現れれば驚くのも無理はないが、この少女は先程まで姿なき影と会話していたのだ。その際は一片の驚きも見せずに対応していたのに、今は人間らしく表情を驚きの色に染め、困惑している。
だが、その人間らしさが先程の屍のような表情よりは好感が持て、影は少女の頭を撫でた。
「影の精霊。名前はない。人は影と呼ぶからな」
「影……?」
「俺は名乗った。それで、お前の名は?」
「私の、名前?」
人間の世界では、名乗ったら名乗り返す風習があったことを思い出し、影は少女に尋ねたが、少女は顔を曇らせ、俯いた。背後から抱えているせいか、その表情をうかがうことは出来なかった。だが、彼女が露にした雰囲気で影は納得し、しばし考え、口を開いた。
「ティナ」
「ティナ……?」
「今日からはそう名乗れ。それが、お前の名前だ」
「私は……ティナ?」
「そうだ。――ティナ」
「は、はい!」
まだ馴染まない名前だろうが、それでも少女――ティナは返事を返し、影を見上げた。
その目は淀みがなく、生気が徐々にだが溢れつつある。影はその光景に目を細めたが、この暗闇の世界では程よい光だった。
「じゃあ、決めないとね」
「何をだ?」
「貴方の名前も。私も名前を貰ったから、今度は貴方にあげる番」
「俺は別になくてもいい。――が……そうだな。せっかく受肉した身だ。名前ももらっておくか。どんな名をくれるんだ?」
影は思った。面白い、と。
最初の無関心が嘘のように、今、この状況は影の心を躍らせ、ティナが紡ぐ言葉を期待させる。
影の腕の中のティナは絞り出すように唸り、考え、やがて一つの名を挙げる。
聞いた当初はあまりひねりのない名だと思ったが、何度もティナが口にしたことにより、影の中にその名が浸透する。
そして染み渡った頃には、二人は闇の海を上がり、月夜の下で星空を仰いでいた。
「――よろしくね。クロエ」
この出会いこそが、後の光を見つけるスタート地点となった……――。