⑵
城内に入ると、雪山の天辺にあるとは思えないほど穏やかな風景が広がっていた。
魔女は建物の前に僕を案内しては一つずつ丁寧に説明をしてくれる。
城と言うからにはこの国の王が住まう宮殿の様な絢爛豪華な建物を思い浮かべてしまうが、此処はそれよりも質素で堅く、外敵からの守りを主な機能として備えた要塞であるらしい。
使用人はあのジャッカロープだけでは無い様で、城内ではちょこちょこ荷物を抱えて二足歩行で歩き回る猫や、頭を小脇に抱えた首のない騎士、花の周りを飛び回る透明な羽を持った小さな人型の生き物などを見かけた。
そのどれもが人間とは違う形状をしている。けれども、あの“魔女” が僕の隣にいるのだ。これほど非現実的な事も無いのだから、驚きはしても恐れることは無い。
むしろ、あれは何の生き物かと引切り無しに魔女に尋ねてはレポート用紙にびっしりと情報を書き連ねていた。
「随分と楽しそうねぇ」
「ええ、勿論。知らない事を知る事は、僕にとって多額の財産を得ることと一緒です。それもただの知識ではなく、この世界の誰も知り得ることが出来ない“魔女” の知識なんですよ?」
今、この世界でこの存在を知っている人間はきっと僕だけだ。
“魔女” に近づくことすら恐れる者達には一生知ることの出来ない現実なのだから、こんなに興奮するのも当たり前だと言えよう。
「答え合わせ。してみましょうか」
「え?」
「言ったでしょう? 妖精とは何か。目の前にいる彼らは何か。貴方の見解を聞かせて頂戴」
僕の見解。それを語るにはまず、千年もの昔、この国が建国された当初から伝わる御伽噺の話からしなくてはならない。
『――昔むかし、この世界には人間とそうでない者が住んでいました』
この話は僕が父から、父は祖父から、祖父は大祖父から、寝物語と一緒に先祖代々伝わってきた一節だ。
『人間達は賢い生き物ではありましたが、凶暴で強い人間ではない生き物達には常に命を脅かされ、世界の片隅に縮こまって生きるしかありませんでした』
「うんうん。そうね。そうだったわね」
『人間達は願いました。人間だけの世界ならば、私達は自由に、幸せに生きていけるのにと。
やがてその願いを神様が聞き届けて下さったのか、人間達の国に一人の王子様がある日お生まれになったのです。
王子様は人間でない者たちの脅威の中でもすくすくとお育ちになり、立派な青年となりました。
人間達だけの世界を作る。王子様は人々の悲願の為、国中の人間達をまとめ上げ、一つの強固な軍を作りました。
そうして人間でない者達との戦いが始まり、人間達は劣勢でありながらも何とか人間でない者達を世界の片隅に追いやることに成功したのです』
「ふふ。懐かしい話ね」
『人間でない者達は命乞いをしました。どうか命だけは助けて下さい。そうすれば我々はこの世界から消えましょう。
強く、心もお優しかった王子様は人間でない者達を憐れに思い、約束を守るならばと命を助けてあげました。
やがて世界は人間達だけの物になり、人間でない者達はこの世界から姿を消したのでした。
王子様は英雄王と呼ばれるようになり、一つの国を作りました。
それがこの国、“エクシリオ” なのです』
パチパチパチ。よく出来ましたと魔女が拍手を贈ってくれた。
だが、まだ続きがある。
何よりも重要な“魔女” の話だ。
『世界から人間でない者達が消えた時、実は消えていない者達もいました。“それ” は他の者達と比べ、姿形が人間と同じだった為、人間達に紛れてこの世界に残ってしまったのです。
“魔女” は今も我々の中に身を隠し、同じ生活をしているのかも知れません』
「――と、御伽噺ではジャッカロープ含む人ではない者達はこの国、エクシリオが建国される前まではこの世界に存在していたとされています。ただ、まぁ、僕も架空の話だとずっと思っていたわけですが」
「あら、“魔女” がいるのに、妖精達がいないと言うのはおかしな理由ではなくて?」
「“魔女” しか存在を確認されていないのなら、他の存在はいないと断定されてもおかしくはないと思いますが?」
目にしたことがないから、この世界にそれの存在はないと断定できる。
目にしたことがないのなら、この世界に存在していることも確立出来ない。
そのどちらも正解で、不正解でもあるのだろう。
御伽噺や伝承とはそう言うものなのだ。
「ふふ、いいわ。合格よ」
「はぁ、それはありがとうございます。何が合格なのかは知りませんが……」
「貴方、なかなか頭が柔軟でいらっしゃるようね。学者と言う人は皆、自分の考えと違うものは仮説すら受け入れないものだと思っていたわ」
「まぁ、頭の固い古い連中はそうでしょうね」
「私の話すことが信じられないのなら、私が話すモノの価値なんて無いと言うことなのでしょう? なら、私達の存在を信じてくれる貴方には話す価値があるって事よ」
「ああ。なるほど」
「門番! 開けて頂戴!」
パン! と一つ手を打って、高らかな音と共に居住区の中でも一際豪華で大きな屋敷の門を二体の首の無い鎧騎士が左右に開いた。
「この城館が私のお家よ。いらっしゃい。良い物を見せてあげるわ」
堂々たる仕草で厳つい門番の横を通る魔女に続き、僕も恐る恐る門をくぐる。
鎧騎士は本来頭があるべき場所から青い炎を立ち上らせて、僕の背中をじっと見送ると、また果たすべき使命に戻った。
城館は赤茶色を貴重とした壁に金の装飾が下品にならない程度で施され、下からでも見える大きなバルコニーからは、ティーパーティー用のセットだろうか、パラソルやテーブルなどが備え付けられているのが窺える。
さて、館の中へと入った。
床には赤いビロードの肌触りの良い絨毯が敷き詰められ、物の価値が分からない素人でもこれは高いだろうと理解できるシャンデリアが等間隔にぶら下がっている。
インテリアには詳しくないが、棚や壁に飾られている物も貴族の方々が見ると唸るものばかりなのだろう。
とにかく、魔女は僕のような庶民の暮しとは掛け離れた、華やかで上品な貴族に近い暮しをしているようだった。
「ああ、そうそう」
きょろきょろと忙しなく館の内装にいちいち驚嘆の声を上げる僕に魔女は思い出したように振り返ると、その手をパチン、と打ってみせる。
「さっきの貴方の疑問に答えてあげなくちゃね」
「は? え? 何でしたっけ?」
「あら、やだ。忘れているの?」
「……?」
何か僕は魔女に質問をしただろうか。いや、尋ねたい事は山ほどあるが、ここに来るまでに驚くことの方が優先されてしまって、まだ質問を口に出来てはいない筈だ。
「貴方、思ったでしょう? 私のこの“支払い名簿” に載っている全ページの使用回数が無くなったら……私はただのか弱い女に成り下がるのではないか? ってね」
「え? あ? ああ! か、か弱くなるかは分かりませんが……まぁ、そうですね。思いました」
「うふふ、そうよね。そう思っちゃうわよね! でもね! これを御覧になって!」
バァーン! この魔女は僕の心を読んでいたのかと言う疑問はこの際置いておいて、魔女は突如興奮した様子で館の階段を駆け上ると、その先にある書庫室と刻まれた扉を勢い良く開いた。
言葉を失う。
僕の家よりもこの部屋だけで十分広い。そこにギッチリと敷きつめられた本棚に、更にギッチリと嵌め込まれた蔵書の数々は個人が持つにしては物々しい程だ。
「素晴らしい……」
「ふふん? まだまだ驚いて頂かなくてはね。さぁ、これを見て頂戴!」
呆然と本棚を見上げる僕に満足げな魔女だったが、まだ驚かせ足りないのか、僕の手を引き書庫室の奥へと連れていく。
文学、歴史、生物、鉱物、建築、音楽、哲学、雑学。
様々なジャンルの本がきっちりとカテゴライズされて、それぞれの本棚に美しく並べられている。
埃など見当たらない。保存の状態がいい。
僕が知っている限りの古い稀少本も何冊か目に留まった。
「こ、これ! これは! トイフェル博士の『流浪の民における女神信仰について』じゃないですか! ここここれ、 “魔女” について書かれているからって発禁になった、幻の著書ですよ! どこでこれを!?」
「んふ。んふふふふ! さぁねぇ。どこだったかしらぁ?」
「ジャボール=シェイタン! あの稀代の芸術家シェイタン伯が“魔女” をモデルに描いたと噂されていた画集! これもすぐに発禁になって誰も手に出来なかった幻の画集ですよ!」
他にも“魔女” が起こした凄惨な事件を記録した『魔女実録事件史』や千年前の“魔女” の伝説が書かれた『エクシリオ建国記』など、“魔女” に関わる発禁書がずらりと本棚に並んでいた。
「現存する“魔女” について記されている本なんて無いと思っていました。今の学者達は“魔女” 自身も恐れていますが、発禁書と共に国に処刑されることも恐れているんです」
「危険な事には関わらない。とても賢明で、勿体無い生き方だわ」
「あのぉ、これを読む事は?」
「んもう、私が貴方に見せたいのはこれではなくてよ。さぁさぁ、これを見て頂戴な」
興奮冷めやらぬ僕に自慢げな笑みを見せていた魔女の表情が子供っぽい拗ねたものに変わる。
彼女が僕に見せたかったのはこの発禁書の棚ではなく、その向こう、部屋の一番奥に置かれた黒塗りで重厚な本棚であるらしい。
「これ、は」
“支払い名簿Ⅰ” “支払い名簿Ⅱ”
“支払い名簿Ⅲ” “支払い名簿Ⅳ”
“支払い名簿” と書かれた本が何列にも渡って収まっている。
「んふ。ちなみに、私が今もっている“支払い名簿” は……」
「“支払い名簿XCIX”」
「まだ未完成なのだけれど」
くらり。僕はその数字に眩暈を起こした。
魔女の“支払い名簿” は、現在九十九冊目に突入したらしい。
「あら」
書庫室に三回、ノックの音が響き渡る。
扉が開き、ジャッカロープの声が魔女を呼ぶ。
「御主人様。お茶の用意が出来ました」
「ええ。今行くわ」
絶望的な数字だ。一冊につき何ページあるのかは分からないが、この本の分厚さなら最低でも三百ページはあると思う。
それが九十九冊もあるとなれば、少なくとも彼女の力は僕が生きている間は絶対に無くならないだろう。
最初から僕の仮説は無駄だったようだ。
「ふう。自慢も出来たし、次は貴方の質問に答えてあげましょうか。お茶がてらね」
来た。ここからは僕の時間だ。
どこまで訊けるか分からないが、これが僕の最期の時間ならば尋ねられるだけ尋ねてやる。
御機嫌な魔女の背を追いながら僕は持てるだけの知識をフル回転させて、この魔女から世界の真実を一つでも多く聞き出そうと企むのだった。