39 エレとの対話
地上の雨を止めたいと願うロティ。
フロテアが彼女を連れてきたのは、じめじめとした巨大な洞窟だった。
ロティが見たこともない山脈の更に奥地に、まるで怪物の如き洞穴が口を開けている。
「またお籠りなのね」
フロテアが呆れたようにため息をついた。
彼女の体のラインを出すドレスとサンダルという格好は、険しい洞窟を前にあまりにも不釣り合いだ。
「あの、ここで雨を止めることができるんですか?」
思わずロティが尋ねてしまったのも、当然のことだった。
彼女は雨を降らせた根源であるアルケインに、直接止めるよう懇願しに行くつもりだったのだ。
しかし返ってきたのは、フロテアの渋い顔だった。
「あの頑固者が、そう簡単に翻意するとは思えないわ。それよりも、手っ取り早い方法がある。願いが聞き入れてもらえるかは分からないけれど……」
フロテアはそう言ったきり黙り込んでしまって、ロティとしては不気味なものを感じずにはいられなかった。
しかし地上の雨を止ませるなら、どんなことでもしなければならない。
ロティはエインズの悲痛な祈りを思い出す。
自分が母の愛を奪ってしまったあの人に、自分のせいで命まで犠牲にさせるわけにはいかないのだ。
ロティは洞窟に足を踏み入れるフロテアの後に続いた。
しかし歩いても歩いても、洞窟は続いていて一向に目的地にたどり着かない。
途中、ロティは不安になった。
フロテアは臆するでもなくさくさくと先に進んでいくが、この奥にもし怪物でもいたらどうするのか。
彼女は神だからいいとして、ロティは感応力すらない非力な人間だ。
嫌な想像に顔をしかめていると、ふいにフロテアが呟いた。
「今回はよっぽど荒れてるみたいね」
その呟きに、ロティはこれから会いに行く人物が誰なのかを知った。
打たれ弱く、事あるごとに洞窟に閉じこもってしまう神。その感情の強さで洞窟はより深く険しくなる。
蛇神の娘で、フロテアとは血を分けた神。
―――雨の女神エレ。
そう気づいた瞬間、ロティの目の前に広い湖が広がった。
地底湖だ。
ふわふわと不思議な青い光がそこかしこに漂っている。おかげで洞窟の中だというのに視界は鮮明だった。
ぽたんぽたんと土から染み出した水が湖に落ちる音。
そしてその音を遮るように、奥から悲痛な女のすすり泣きが聞こえる。
「誰っ!」
突如空間を切り裂いた声に、ロティは心臓を鷲掴みにされたような心地を味わった。
ざわざわと鳥肌が立つのが分かる。
「私よエレ」
声の主に対して、フロテアがおっとりと返事をした。
「何か悲しいことがあったの? 可哀想な私の妹。あなたには私がいるわ」
「あなたに私の何がわかるの!?」
フロテアが愛情たっぷりに謳った言葉も、エレには逆効果であるようだった。
その証拠に、彼女のヒステリックな声に呼応するように、地面からはにょきにょきと尖った岩が伸びた。
この洞窟はエレの心。
彼女の感情に応じて、刻一刻とその姿を帰るのだ。
かつて幾人もの英雄がこの洞窟を攻略しようとしたが、エレには決して敵わず石にされたという伝承も残されている。
「美しいお姉さまに、私の気持ちなんて分からないわ。醜い蛇の体で、こんなじめじめとした気持ちの悪い女ですもの。だからアルケインさまだってきっと……」
「アルケインさまがどうしたんですか?」
聞き覚えのある名前に、反射的にロティは口を挟んでしまった。
しくしくと泣いていたエレが、蛇の下半身を使って体を持ち上げる。
その形相はひどい怒りを湛えており、彼女はぎろりとフロテアを睨んだ。
「ああ生臭い。この臭いは人間ね。ひどいわお姉さま。私の洞窟に人間の小娘を連れ込むなど……」
「ごめんなさい。この娘があなたに用事があるというものだから」
「用事ですって? 卑小で愚鈍な人間如きが。このエレに何を願うというのでしょう」
「地上に降る雨を、止めていただきたいのですエレさま!」
今がその時だろうと、ロティは声を張りあげた。
エレは目を見開き、ロティをからかうように口からチロチロと長い舌を伸ばす。
「たかが人間一人の願いを聞いて、このエレに雨を止めろというの? ハハハハ! 向こう見ずもここまでくると傑作だわ」
「エレ、ちゃんと聞いてあげて。このまま雨が降り続ければ人間が滅びてしまうわ」
「あら。この娘が今度のお姉さまの恋人? 随分と甘いことを仰る」
「エレ!」
フロテアが窘めるように叫ぶと、エレの顔には残虐な笑みが浮かんだ。
「そういうことだったら、雨を止めるという願い、考えないでもないわ」
「ほんとうですか!?」
叫ぶロティの体に、一瞬にしてエレの下半身が巻き付いた。
「あなたが、この身を私に捧げるというならね。安い取引でしょう? あなたの命で、地上のすべての人の命が助かるのよ?」
「エレ、なんてことを!」
「お姉さまは黙っていて! 地上に雨を降らせているのは、アルケインさまから命じられた大切なお役目。それを曲げるのだもの。何の供物もなしにというわけにはいかないわ」
「ロティ! 応じてはだめ。妹は何か辛いことがあってあなたに八つ当たりしているだけよ。あなたが死んだところで雨を止める保証はないわ!」
「ひどいわお姉さま」
ゆらゆらと、エレはしっぽの先を揺らす。
「さあてどうする? あなたはどちらの言葉を信じる? 誰を信じて、何を差し出す? よーく考えなさい。その末に何を失うのか、そして何を得るのかを」
半人半蛇の女神は、なぶるように細い指先でロティの顎を撫でた。
息苦しさに喘ぎながら、激しく震えながら、ロティはこくりと唾を呑む。