32 女神の恋愛教室
「しっかし、こんなちんちくりんにねえ」
目を眇め、女神はロティを検分する。
彼女の方が背が高いので、自然ロティは上から見下ろされる形になった。
「まったく。人の妹の恋心を、弄んでくれちゃって」
フロテアは呆れたように腕を組んだ。
自分がちんちくりんであることに一切の異論はないロティだったが、恋心を―――というくだりは聞き流すことができなかった。
「あの……」
「なに?」
「妹さんって、雨の女神のエレ様ですか?」
例え神話に詳しくなかろうと、アトルスの天恵の信徒であればそれぐらい知っていて当然だ。
「そうよ。綺麗で可愛い私の妹。なのにあんな堅物のために、いっつも忙しそうで私なんてほったらかし」
苛立たしげに、フロテアは再びカウチに横になった。
フロテアは妹であるエレを溺愛しているが、エレの方は自分とはあまりにも容姿が違う姉に劣等感を抱いて距離を置いている。
ロティの知る神話が本当だとすれば、この姉妹もなかなかに複雑な関係である。
「あの、さっきの靡かないってお話もしかして……」
まさかと思いロティが問いかけると、女神は悪気もなくあっさり言った。
「そうよ。アルケインに幻滅してほしくて粉かけたのに、ちっとも反応しないでなんなのあの男。てっきりトールデンとデキてるんだとばかり思ってたけど、どうやらそれも違ったみたいね」
あまりの内容に処理しきれず、ロティは茫然としてしまった。
確かに神々の世界は自由恋愛が基本だが、だからといってまさかアルケインとトールデンが……と、思わずよからぬ想像をしてしまう。
「だってあいつら、飽きもせず二人で葡萄酒ばっかり飲んでるんだもの。大体、女嫌いってそういうことだと思うじゃない普通?」
(思う……のかな?)
ロティは首を傾げた。
今まで女だらけの神殿で生きてきた純粋培養である。
百戦錬磨のフロテアと、面と向かって話したところで分かり合えるはずがないのだ。
「ええと、すいません。私本当にそういうことよく分からないです」
「みたいね」
女神の対応はにべもない。
「とにかく」
「はい」
フロテアが改めて体を起こしたので、ロティは緊張した。
「アルケインがあんたに夢中になってくれれば、私も失恋したエレを慰めるって名目でいちゃいちゃできるわけ。わかる?」
「は?」
ロティの目が点になる。
(どうしよう。何一つ分からなかった……)
「あーまったく鈍い子ね。だからあなたにはアルケインを夢中にさせといてもらわないと困るの。いい?」
ピシリと厳しく問われ、ロティは反射的に首を横に振った。
「でしょうね。私もあなたのなにがいいのかさっぱりわからないし……」
何気にひどい神様である。
しかし彼女の言う通りだったので、ロティはコクコクと頷いて彼女の言葉に追随した。
「わかった」
「はい?」
「じゃあ私が、モテる女の作法をあんたにレクチャーしてあげるから、あんたはそれでアルケインを夢中にさせるのよ」
「な……」
「わかったわね!?」
あまりにも理不尽な要求だったが、その瞬間ロティの脳裏に、少しだけ邪 な考えがよぎった。
(アルケインさまに夢中になっていただけたら、見捨てられる時を少しでも引き伸ばせる?)
いつも心のどこかで見捨てられることに怯えていた彼女は、そして美しい女神の誘いに乗ってしまったのだ。
***
それからフロテアは、必ず砂時計がひっくり返った時。つまりロティが眠るべき時間帯にやってきては、彼女にモテ女の極意を伝授していくのだった。
「いい? そこでさりげなく胸元を見せるのよ。なによその谷間! 谷どころか坂道にもなってないじゃない!」
生まれてこの方、精進潔斎してきたロティの体は薄っぺらい。
彼女は自分の胸元を覗き込んでから、目の前にある女神のそれに目をやった。
違いは歴然。なだらかな窪みと断崖絶壁ぐらい違いがある。
ロティはしょげかえった。
こんなところで躓いていては、アルケインを夢中にさせるなど夢のまた夢だ。
「あーもー、そんな子犬みたいな顔でこっち見ないでよ。分かった。もしかしたらアルケインは貧乳の方が好みかもしれないわね。あんたを地上から連れてきたぐらいなんだから」
(そうだろうか?)
ロティは首を傾げる。
「とにかくっ、座る時は腰をかがめて自然な流れて胸元をチラ見せよ。わざとらしいのは逆に萎えさせちゃうから要注意! アルケインが来る前に、あらかじめ胸元を少しだけ緩めておくのよ」
びしびしとフロテアの指示が飛ぶ。
ロティは基本真面目な性格なので、こくこくと頷いて彼女の言葉を脳裏に刻み付けた。
「それで隣に座ったら、こう! そっと寄り添って体を預けるの。いい、この時気を付けなきゃいけないのは、間違っても全体重を掛けちゃダメってことよ。そっーっと、羽のような軽さだと思わせるの!」
女神の言葉をロティは半分も理解できなかったが、それでも真面目に取り組んだ。
不真面目にやったらフロテアを怒らせるからではない。決して。
それは見捨てられたくないからで、少しでも長く近くにいたいからだ。
見捨てられれば、もう行き場がない。
神殿で彫刻を磨く日々には、もう戻れない。
しかしたとえ戻れたとしても、ロティはやっぱりアルケインの傍にいることを選択しただろう。
ただ、どうして傍にいたいのかという理由にまでは、頭が回っていなかった。
さりげなく胸を押し付けるという授業の途中で、砂時計がロティのところにやってきた。
朝が来る時間だ。
「ああ、もうそんな時間なのね」
フロテアは来た時と同じく、四角い窓から部屋の外に出ていく。
「いい? アルケインのような男が相手の時は特に、油断は禁物よ。一瞬たりとも気を抜かないで!」
「はい!」
女神の厳しい指示に、ロティは握りこぶしで深く頷いた。
意外に体育会系の二人である。
フロテアも良い意気だといわんばかりに頷いて、霧の向こうへと消えていった。
ロティはどぎまぎとしながら、アルケインの訪れを待つ。
気を抜くと眠ってしまいそうだったが、今寝てしまうとずっと寝こけてしまいそうだったので必死に我慢した。
フロテアからレクチャーされた内容を、すぐにでもアルケインに試してみたかった。
美と愛欲の女神直々の恋愛指南だ。
これでうまくいかないはずがない。




