30 罪の重さ
「やめろ!」
すぐそばにいるはずの、アルケインの声が遠くに聞こえた。
そして次の瞬間、冷たいぬくもりに包まれる。
熱くも冷たくもない、神様の肌。
一瞬ロティは何が起こったのか分からなかった。
ただアルケインの美しい顔が間近にあって、その手のひらが荒く息を吐き出す己の口元に翳されている。
いたわるように背中を撫でられ、そうすると目に見えて呼吸が楽になった。
はふはふと、ロティは忘れてしまった息の仕方を思い出そうと奮闘する。
その間、アルケインは辛抱強くロティの背中を撫で続けていた。
「あの……ありがとうございます」
どうにか平静を取り戻すと、ロティは息も絶え絶えに礼を言う。
アルケインは気まずそうな顔を体を離した。彼が離れていくことが、少し寂しいとロティは思った。
「いや……俺が悪かった。無理に思い出さずともいい。だから今はしっかり休んでくれ。お前は疲れているんだ」
そう言われ、確かにその通りだと納得する。
万全の状態だったならば、きっと今のような状態にはならなかったはずだ。
アルケインの手を煩わせないためにも、ロティは安静にしていようと心に決める。
「ほら」
すると精霊王が両手を差し出してくるので、どういう意味だろうかとロティは首を傾げた。
「運んでやるから、乗れ」
どうやら、抱っこしてベッドにまで連れて行ってくれるということらしい。
ロティは飛び上がりそうになった。
「じ、自分で歩けます!」
「その足でか?」
反論してみるが、確かに足は先ほどの発作の反動でがくがくと震えている。しばらくは使い物にならなそうだ。
「これは……」
「いいから」
そう言うと、アルケインは問答無用でロティを抱え上げてしまった。
血の気の引いていたロティの顔が、今度は真っ赤に染まる。
(こんな、子供みたいに抱っこされるなんて、子供の頃お母さんにしてもらって以来だわ)
それは遠い遠い記憶。
きっとロティが拾われて間もない頃だ。
ぎゃあぎゃあと泣くしかできなかったロティを、養い親は辛抱強くあやしてくれた。
見上げたその顔が何かを思い出すように少し切なげにしていたことすら、昨日のように思い出せる。
しかし今見上げた先にあるのは、恐い顔をした精霊王の顔だ。
(こんなにお手を煩わせてしまっては、もう面倒だと会いに来てはくださらなくなるかも)
不意に、そんな不安がロティの中に湧き上がってきた。
死にかけたところを助けてもらって、なおかつ今は安静にしていろと怒られている。ついさっきなど不安のせいで発作まで起こしてしまった。
(面倒な娘だと、放り出されるかもしれない)
神話に精通するロティは、神々が気まぐれに囲った人間を無慈悲に放り出す例を、山ほど知っている。
神の宝を盗もうとしたから。その言いつけを守らなかったから。飲んではいけないと言われた水を飲んでしまったから。他に愛する者ができたから。
理由は様々だったが、その全てに共通しているのは神が飽きっぽく無慈悲だということだ。
今目の前にいるアルケインもそうだとは限らないが、彼だっていつかロティを助けたことを後悔し、この鳥かごのような部屋から追い出そうと考えるかもしれない。
「赤くなったり青くなったり、忙しいやつだ」
そんな顔色を、どうやら逐一観察されていたらしい。
気付けば雲のベッドに横たえられていたロティは、逆光になっているアルケインの顔を見上げた。
「天界には夜がないから、この部屋に砂時計を持ってこさせよう。それが空になれば眠り、ひっくり返してもう一度空になるまでなら本を読んでいても構わない。分かったか?」
その言いつけに、ロティは神妙に頷いた。
いつか放り出されるかもしれないが、できればそばにいる時間を、少しでも引き伸ばしたいと思った。
本当に分かっているのかとアルケインは疑わしそうにしつつ、彼は部屋を出て行った。
ロティは緩やかな眠りに身をまかせながら、決してアルケインの不興を買わないようにしようと決意していた。
***
それからしばらくの間、ロティはアルケインの言いつけを守って生活した。
彼の言う通り、本当にこの世界には夜がない。
その証拠に窓の外はいつも白い霧で、そこが闇に閉ざされることはないのだ。
あの日アルケインと約束させられた後、眠って目が覚めると本当に部屋の中に大きな砂時計があった。
ロティの身長ほどもある、大きな大きな砂時計だ。
それは支柱もないのに空中に立ち、砂がなくなるとそれをロティに知らせるかのように近づいてくる。
その頃には不思議にももう慣れっこになっていたので、ロティはふっと手を触れてそれをひっくり返してやるのだ。
するとまた砂が落ち始めて、夜が始まる。
ひっくり返すと昼。ひっくり返すと夜。
それをきっと、何度か繰り返した。
どれくらいの時間が過ぎたのか、ロティは最初から数えたりしなかった。
どうせ地上に待っている人もいないのだし、そんなことをしても無駄だと思ったからだ。
アルケインは昼の間に必ず一度、ロティを見舞いにくる。
いつも固い表情ではあるが、約束さえ守っていれば彼は怒ったりしなかった。
それどころか、気が向けばロティに例の本の内容を教えてくれることすらあった。
彼の協力を得て、ロティは古い書物の内容をどんどん理解していった。
そこに書かれていたのは、人間が今までに犯してきた罪の記録だ。
神の領域を犯した者。神の持ち物を盗んだ者。
罪状と共に、そこにはその人間に下された罰も併記されていた。
生きたまま永遠に、鳥に内臓を啄まれる続けるという罰。
自らの父と許されざる恋に落ち、絶望のあまり樹木に姿を変えた者もいるという。
おそらく地上では、権力者に都合が悪いため消された歴史なのだろう。
その証拠に、罪人に名を連ねる者の多くが王族か神女だった。
神の存在に近いからこそ、罪を犯してしまう。
今まで何度も繰り返されてきたであろう歴史に、ロティは胸が痛くなった。




