29 不器用な二人
さて、残されたロティはといえば、やることもなくぼんやりとしていた。
どうやら寝すぎなほどに眠ってしまったらしく、全く眠気がやってこないのだ。
しばらくベッドの中でぼんやりとしていたが、部屋から出なければいいだろうと結局はベッドを降りた。
アルケインには体を休めていろと言われただけで、別に寝ていろと言われたわけではない。
裸足でそっと床に足を降ろすと、どこからか布でできた柔らかいクツが飛んできた。
全く不思議なことだが、不思議に慣れ始めているロティはそれをありがたく使わせてもらうことにする。
といっても、床は幾何学模様のタイルで埋め尽くされており、地面を歩く時のように石を踏み抜いてしまう危険はなさそうだった。
神殿ではずっと裸足でいたので、クツをはくのはむしろ違和感を感じる。
布でできたクツは、歩くたびにペタペタと音がした。
部屋の中は静まり返っているので、嫌にその音が耳につく。
改めて周囲を見回すと、目につくのは白い石の壁と出入り口用の四角い穴。そしてその対面側の小さな四角い窓のみだ。
この窓はただ壁をくりぬいているだけで、窓枠などははめられていない。
ロティはまず窓から外をのぞいてみたが、残念なことに外は厚い霧に覆われ何も見通すことはできなかった。
「一体ここはどこなのかしらね?」
尋ねる相手は誰もいないと分かっていたが、静寂が寂しくてついそう呟いてしまった。
するとまるでその声に反応したかのように、再び部屋にテーブルがやってくる。
今度はいすではなく布を張ったカウチが一緒だ。
カウチの下には絨毯まで敷かれ、一気に部屋の中が鮮やかになる。
あまりの早業に、ロティは目を丸くするばかり。
そしてやってきた荷物たちの中で、最期に運ばれてきたのは革張りの分厚い本たちだった。
「わあ」
ロティは思わず、驚きの声を上げる。
本という存在を知ってはいたが、こんなに間近で見たのは初めてだ。
一冊一冊手書きする本は、とても貴重で神殿でも鍵付きの書庫に仕舞い込まれていた。
大神女がもっているのを見たことはあるが、ロティ自身が手にしたりましてや開いてみたことなんて一度もない。
「すごい……」
恐る恐る、ロティはテーブルの上に積まれた本に近づく。
いつ誰に怒られるかと怯えていたが、どれだけ本に近づいても誰もロティを怒るようなことはなかった。
それどころか、これを見てと言わんばかりに本の方が勝手に開いてロティに近づいてくる。
彼女はその内容を理解しようと目を凝らしたが、残念ながらその紙面からは何の情報も得ることができなかった。
ただ不規則に、奇妙な模様が並んでいる。そういう風にしか理解することができない。
「ごめんなさい……。私にはこの文字は読めないわ」
心底申し訳なく思い、ロティは肩を落とした。
ロティは、女にしては珍しく文字を読むことができる。
それは大神女に教えてもらったり、神話を読むため必死で覚えたからだ。
しかし今見せられている文字たちは、全てロティに見覚えのないものだった。
「あ、でもこれ……」
その時ふと、彼女は文字の中に見覚えのある模様を見つけた。
形は微妙に違っているが、神殿の壁に彫り込まれていた模様によく似ている。
神殿中の彫刻を熟知している彼女でなければ、きっと気付けなかったことだ。
「もしかして、あの模様は古い文字だったの?」
ロティが尋ねても、誰も答えてくれる相手はいない。
しかしロティは、俄然興味を持ってその本に飛びついた。
その模様がどこの礼拝堂にあったか。どのような配置だったか。それは克明に覚えている。
それを本の内容と照らし合わせていけば、神殿の壁に彫られた文字の意味も分かるかもしれない。
幼い頃から神話に親しんできたロティは、その内容が気になって仕方なかった。
彼女は用意されたカウチにどすんと腰を下ろし、静かにそのページをめくり始めたのだった。
***
「寝ていなかったのか?」
不機嫌に話しかけられ、ロティはようやく我に返った。
まだ解読まで入っていないが、本の内容がなんとなく分かりかけてきたところである。
「一体いつからこんなことをしていたんだ?」
アルケインの声には明らかな苛立ちが混じっていた。
やはりこの高価な本に触れてはいけなかったのだと、ロティは震えあがる。
「申し訳ありません。でも手を触れたのはこの一冊だけで……」
見えない誰かが本を持ってきてくれたからだと言えば、その誰かが咎められるような気がした。
しかしアルケインが怒っているのは、そんなことではなかった。
「違う! 本を読んだことを怒っているのではない。こんなもの体調がよくなればいくらでもくれてやる」
「そんな。高価なものなのに……」
「そうではなくて、俺はちゃんと体を休めておけと言っているんだ! アトルスの水を飲んだとはいえ、お前は一度死にかけたんだぞ? それを分かっているのか?」
分かっているのかと尋ねられ、ロティは困惑した。
確かに水に突き落とされたところまでは覚えているが、その後は気を失ってしまったので記憶がない。
「分かってはいるつもりですが、あまり記憶がはっきりとしなくて……」
ロティは頭に手を当てた。
思い出そうとすると、不思議と頭が痛む。
人々の怒号。水に突き落とされる恐怖。自分が感じていた諦観。
その瞬間の絶望が、今にも蘇ってくるようだった。気付けば周囲から音が消え、どんどん呼吸が浅くなっていく。
はあはあはあ。
耳鳴りがして、周囲の世界が突然遠ざかったような気がした。
何も考えられなくなって、ただ息苦しさだけが思考を埋め尽くしてしまう。手足がしびれて、指先一つ動かせない。




