20 ハートの真実
「あれ、でも―――」
「でもなんだ?」
「手首をつかまれたということは、実体でこちらにいらしていたんですか?」
地上に降りるのは意識体でなければいけないという話を、つい先日聞いたばかりだ。
すると途端に、アルケインは難しい顔になった。
気分を害したのだろうかとロティは青くなったが、アルケインはすぐに気まずそうな顔になった。
「あ――……、新種の葡萄が異国からきたというので、それを買い求めようと思ったのだ。それで葡萄酒を作りたくてな」
アルケインがうっすらと頬を染めたので、ロティは彼が照れているのだと気が付いた。
彼の難しい顔は、別にいつも怒っているというわけではなかったのだ。
あまりにも意外な理由に、ロティは思わず吹き出してしまった。
「ふ、はははっ、それでわざわざ、おこしだったのですね!」
「笑うな! 神殿に備えられた物以外、地上の物をそう簡単に手に入れることはできんのだ! しかもその職人が苗を買ってくれるというから、私は仕方なく―――」
そこまで言って自分の失言に気付いたのか、アルケインは言葉を切った。
しかし時すでに遅しで、驚いたロティは笑うのを止め更に目を丸くしている。
「じゃ、じゃあ苗のためにモデルをお引き受けになったのですか? 精霊王さまが?」
思わず尋ねると、アルケインはふいと顔を逸らしてしまった。
どうやらモデルを引き受けたのはその職人がしつこかったからというだけではないようだが、これ以上追及するのは可哀想なので、ロティは話を変えることにした。
「それで、どうしてここに連れてきてくださったんです?」
「それは、だな」
答えるアルケインは、まだロティから顔を逸らしたままだ。
「……ここならば、好きなだけ彫刻が磨けるだろう?」
思いもよらない返答に、ロティは呆気に取られてしまった。
次の瞬間、彼女の顔は真っ赤に染まる。
まさか酔ってトールデンにぶちまけた言葉を、アルケインにまで聞かれているなど思いもしなかったのだ。
というか、その後の出来事が強烈すぎて自分がそんなことを言ったことすら忘れかけていた。
「あ、ありがとうございます……」
自らも顔を伏せたロティは、それでも小声で懸命にお礼を言った。
何か物を貰ったわけでもないのに、すごく貴重な宝物を受け取ったような気持ちだった。
これはアルケインが、ロティのことを考えて彼女が望むものを与えようとしてくれた証拠だ。
誰かにそんなことをしてもらったことなどなくて、だから嬉しさで胸が弾けて今にも溢れ出しそうだった。
その感情を誤魔化すように、ロティはアルケインから離れて彼を象った彫刻に近づく。
天窓から入る月明りに照らされて、白い彫刻は淡い光を纏っていた。まるでそれ自体が発光しているかのような神々しさだ。
ロティは持っていた手巾を取り出し、その表面をゆっくりと拭った。
掃除したばかりなので汚れたりはしていないが、そうしているだけで絡まっていた精神がほどけていくのを感じた。
アルケインは黙って、そんなロティを見守っている。
その時ふと、ロティは以前疑問に思ったことをアルケインに尋ねてみる気になった。
「そういえば、アルケイン様」
「なんだ?」
「この彫刻の、目に入っているハートは、一体どういう意味なのですか? その職人さんはなにか、おっしゃっていましたか?」
「なんだと?」
ロティの言葉に、アルケインは驚いて像の目を見上げた。
地上からは見えにくいが、確かにそこにはハート形の小さな穴が象嵌されている。
「なんだあれは!?」
アルケインの様子からして、どうやらモデルには何も知らされずに彫られたものらしい。
(やっぱり)
ロティは妙に納得してしまった。
気難しく女嫌いとして知られるアルケインが、自らの像それも要ともいえる目にハートを彫り込まれて、嬉しいわけがないのだ。
(でも、だとしたらどうして……?)
職人の意図に首を傾げていると、アルケインが何かに気付いたように声を上げた。
「ああ、これは……」
そう言うと、彼の体は軽々と宙に浮かび上がり、大きな像の顔にまで一気に迫った。
彼は瞳に象嵌されたハート形をまじまじと見つめ、そして腕組をした。
「驚かせるんじゃない。これはハートなんかじゃないぞ」
「え? でも……」
ロティだって、以前掃除した時にすぐそばで見たのだ。
彫り込まれていたのは確かに、愛情を示すハートマークだった。友愛や親愛。そして情愛をも表す。
そこまで考えて、ロティは少し嫌な気分になった。
このアルケインの目に情愛が映っているなんて、似合わないしなんとなく居心地が悪い。
ところがそんなロティの様子などどこ吹く風で、アルケインは興味深げに像の表面をなぞっていた。
彼はロティを振り向くと、少し得意げに言った。
「これが作られた頃には、ハートマークなんてなかったんだ」
ロティははっとした。
この像が作られたのは五百年も前だ。
ロティは神話こそ詳しいが、歴史はそれほど知らない。
けれどそれほどの昔ならば、マークの意味や形が違うというのは当然考えられることだった。
「じゃあ、これは……」
「ああ。おそらくは、目に映った光を表現して彫ったんだろうな。下から見た時に、ちょうど像が生きているように見せるために」
だからこの像からはこんなにも躍動感を感じるのかと、ロティは納得した。
やはりこの像を彫った職人は、天才的な芸術家であったに違いない。
そして目に掘られていたのがハートマークではないと知り、ロティはなぜかほっと胸を撫でおろした。
どうしてほっとしたのか、それはロティ自身にも分からないことだった。




