13 乾杯
アルケインが去った後、ロティはなかなか寝付くことができなかった。それは軽率な行動をとってしまった後悔のせいだ。
(どうしよう。怒ったりしないで、シェスカさまの顔の傷を治してほしいとお願いすればよかった。すっかり頭に血が上って、そんなこと考えられなくて……)
気付けば夜が明けている。
彼女はベッドの上に丸くなることをやめ、その柔らかな寝台に腰かけて必死に考えた。
ロティの知る神話や昔話の中で、神々は気まぐれで無慈悲な存在だ。
人がこのようになってほしいと願っても、叶うことはごくわずか。彼らは戯れに、願いとはまったく逆の現象を引き起こしたりもする。
なのでもし再びアルケインが現れたとして、ロティが先ほどの態度を詫びてシェスカの傷を治すよう頼んでも、願いが聞き入れられるどころか事態は更にひどくなるかもしれない。
もう泣いている場合ではないと、ロティはどうするべきなのか必死に考えていた。
シェスカは苦手な相手だが、だからといって不幸になってほしかったわけじゃない。若い女性が顔に傷を負って、それがこれからの人生にどれほどの重荷になるのか。
それを思うと、ロティはぎゅっと心臓を握りこまれたような気持ちになるのだ。
考え事の最中にやってきた神女たちにそっとしておいてほしいと伝え、彼女は頭を悩ませ続けた。
ロティは寝台から降りると、跪いて胸の前で両手を組む。
祈るのはアルケインに対してではない。優しかった養い親に対してだ。
(大神女さまどうか、シェスカの傷が元に戻りますように)
感応力を全く持たないロティは、神の存在も精霊の存在も全く身近に感じられない。
だからこそ、祈る相手は唯一心を許せる養い親だけなのだ。
朝から食事もとらず、昼を過ぎて夜になるまで。
一心に祈りを捧げていると、突如として雷鳴が響いた。
思わず目を開ける。
つい先ほどまで静かだった窓の外が、ピカピカと不規則に光っている。
紫を帯びた白い光。
そのすぐ後に、もう一度空が割れたかのような轟音。
まるであの、地下墓地で聞いた雷のようだ。
ロティがアルケインに憑依された時のことを思い出したのと、それは同時だった。
特に激しい稲妻が、ロティのいる部屋の硝子を白く染める。
そのあまりの眩しさに、彼女は目を閉じる。
轟音が済むと、次にやってきたのは完全なる静寂だった。
おそるおそる目を開くと、そこにはさっきまでいたはずの部屋ではなく、ただ真っ白な光景が広がっていた。何もない、奥行きもないただの白。
突然の雷に誰かが騒ぎ始めるはずなのに、物音は一切しない。
(もしかして、私死んだの?)
ロティがそう思ったのも、無理からぬことだった。
誰だって雷のあとに視覚と聴覚を奪われていれば、雷が自分に当ったのかと思うだろう。
『残念ながら、君はまだ生きてるよ。神殿の娘ロティ』
聞き覚えのない声で呼ばれ、ロティは左右を見回した。
するといつからそこにいたのか、目の前に男が一人立っているではないか。
強烈な黄みの強い金髪に、同色の猫のように吊り上がった目。
全身に革でできた防具を纏っているその男を、ロティは知っていた。
「トールデン、さま……?」
トールデンは雷の神だ。
大の酒好きで、そしてアルケインの友人でもある神。
そんな人知を超えた存在がなにをしにやってきたのかと、思わずロティは身構えた。
トールデンの方はといえば、麦の穂にじゃれつく猫のように楽し気だ。
『そう警戒するな。別にアルケインの代わりに君を罰しに来たわけじゃない。ただ話が聞きたくてね』
「話……ですか?」
思ってもみない頼みごとに、ロティは目を丸くした。
自分の話を聞きたいなどという相手を、ロティは一人しか知らない。
そしてその一人は既に死んでしまったから、もうロティの話を聞きたがる人なんてどこにもいないはずだった。
「何を、お知りになりたいのですか?」
注意深く、ロティは尋ねた。
アルケインと違いトールデンは、逸話の少ない神だ。
彼は昔、人間だった。
しかしどのような方法で、どうして神になったのか。その方法も理由も、後世には伝えられていない。
この神が何を嫌い何を喜ぶのか、ロティは知らないのだ。
彼女はごくりと息を呑んだ。
そんなロティとは対照的に、トールデンは真っ白の空間に胡坐をかいて、完全に寛ぐ構えだ。
どこから取り出したのか葡萄酒の瓶を取り出し、ごくごくとおいしそうに喉を鳴らしている。
『そんなに毛を逆立てるなよ、子猫ちゃん。せっかくの酒がまずくなる』
トールデンはそう言うと、口の端から零れそうになる葡萄酒を乱暴に拭った。
神というだけあって整った顔立ちをしているが、トールデンと比べると粗野な印象が拭えない。
『とりあえず、こっちに来て座りなって。ほら、旨いぞ。アルケインが手ずから造った豊穣の酒だ』
祈りの姿勢のまま膝をついていたロティに、トールデンは自分の前に座るよう促した。そして自分が口を付けたばかりの瓶を、大儀そうに差し出す。
逆らうわけにもいかず、ロティはためらいがちに近づき瓶を受け取った。
ずっしりと重い瓶の口から、葡萄酒の強い香りが鼻孔をくすぐる。
アトルスの天恵には葡萄酒が欠かせない。なのでロティも、何度かそれを口にしたことがった。
しかしトールデンが差し出してきたのは、今まで接したどの葡萄酒より香り高いものだ。
思い切って口をつけると、喉が焼けた。
しかし神に命じられたのだから、吐き出すわけにもいかない。
酒は儀式で一口口に含んだのがせいぜいというロティは、気合でどうにかその液体を嚥下した。
瓶から口を離して咳き込むと、トールデンが腹を抱えて笑っている。
『アルケインの葡萄酒をイッキとか、人間が見事なもんじゃねえか。気に入った』
気をよくしたのか、トールデンは改めてコップを二つ持ち出し、ロティから瓶を奪って中の葡萄酒を注いだ。
『さあて乾杯しようじゃないか。俺たちの記念すべき出会いに!』
高くコップを掲げたトールデンに習って、ロティも咳き込みながら乾杯を交わす。
ガチンと大きな音がした。
陶製だが分厚いコップは、重く多少のことではびくともしなそうだ。
トールデンはそこからおいしそうに葡萄酒をあおり、ロティは先ほどの轍は踏まないとばかりにコップの縁をぺろぺろと舐めている。
それを見て、神はおかしそうに笑った。
『なんだよ。本当に子猫ちゃんなのか?』
トールデンの揶揄に、少し酔いのまわったロティは目を吊り上げる。
「さっきから、なんなんですかその子猫ちゃんって」
『おっと』
まさか言い返されるとは思っていなかったトールデンは、目を悪くして目の前の少女を見返した。
「わたし、は、子猫ちゃんなんかじゃないです。ロティってちゃんと、名前が……」
葡萄酒を一口二口。
しかしロティの呂律は確実に怪しくなっていた。
見れば彼女の白い頬は赤く染まり、目はいくらか涙目になっている。
『おいおいどれだけ弱いんだよ……』
トールデンが呆れていると、それが癪に障ったのかロティは自分のコップに入っていた葡萄酒を、一気に飲み干してしまった。
目を剥く雷神。
彼が呆気にとられていると、明らかに目の据わったロティがコップを突き出す。
「おかわり……くらはい」
『おい、これ以上は止めた方が……』
「くらはいって言ってるでしょ! あなたがさきに飲ませたんらないれすか」
すっかり酔っ払いになってしまった少女に、トールデンは従うより他なかった。
神の持つ酒瓶は、いくら飲んでも尽きることがないようだ。
トールデンとロティは、その後三回ほど乾杯をやり直したが、酒が尽きることはなかった。