夢を見る少女
その日の恭子はいつになく気分が良かった。初めて水族館に連れて行ってもらえるのだ。本当は遊園地が良かったのだが、それはダメと言われた。
生まれながら体の弱い恭子は、あまり激しい運動ができない。そのため、遊園地はドクターストップがかかったのである。
恭子は水族館の前に立っている人物を見て手を振った。
「悠李さーん」
恭子に気付いたその人物は、笑顔で手を振りかえした。
「やあ、恭子ちゃん、元気そうだね。智樹君も久しぶり」
「俺はついでですか、先輩」
「いや、君の顔は研究所でよく見ているからね」
そう言って愛嬌たっぷりに悠李は片目をつむった。『悠李さん』こと成原悠李は恭子の兄・智樹の大学での先輩なのだ。
「さて。行こうか、恭子ちゃん」
「はい!」
悠李が手を差し出したので遠慮なくその手を取る。背後で智樹が、「相変わらずの女ったらし……」とつぶやいているが、気にしない。
早速入館した恭子は「わぁ……!」と感動の声をあげた。
「魚! 魚がいます!」
「そりゃ、水族館だからな」
「恭子ちゃんは生きてる魚を見るのは初めて?」
そっけない兄に比べ、悠李は優しい。恭子がうなずくと、「じゃあゆっくり見て歩こうか」と微笑んでくれた。
悠李は美形だ。すらりと背が高く、中性的な顔立ちで、着る服によっては女性にも男性にも見えるだろう。そんな相手に微笑まれれば、赤面してしまっても仕方がないと思う。
兄同伴であるがデート気分の恭子が最も気に入ったのは――ペンギンであった。
「わぁ! 本物! 本物のペンギンです! 本当によちよち歩きなのですねぇ!」
「恭子ちゃん。落ち着いて」
「あんまり騒ぎすぎると、発作を起こすぞ」
悠李と智樹に心配されつつ、加奈子はペンギンを見つめる。できれば赤ちゃんペンギンも見たかったが、そこまで贅沢は言えない。
さらに、海の生物との触れ合いコーナーもあった。ウニやヒトデに触れるのである。期待して悠李の方を見たが、
「ダメだよ」
にっこり笑顔でドクターストップがかかった。恭子はがっかりする。悠李は、正確に言えば医師ではないのだが、恭子の体調管理をしているという面で見れば、恭子の主治医ともいえる。
水族館内のカフェレストランで軽く昼食をとって、午後一番のイルカショーを見に行った。恭子は喜んで一番前に座ろうとしたのだが、真ん中あたりからの方が見やすいと言われて、真ん中あたりの席から見学することにした。
恭子は悠李と智樹に挟まれて座っていたのだ。時々視線を感じるなーと思ってそちらを見れば、恭子ではなく悠李を見ている視線だった。
悠李はどこにいても人目を引く。さすがは美形。ついでに悠李と一緒にいる恭子も睨まれたが、気にしないことにした。ちなみに、智樹は恭子と顔立ちが似ているので、兄弟だと思われていると思う。
たぶん、一番前に座っていたら、イルカがジャンプしたときに水がかかっていた。智樹と悠李が恭子を真ん中あたりの席に座らせたのはそのせいもあるだろう。
しかし、この席からの方がよく見えたのは確かなので、恭子は満足である。
「イルカってすごいですねぇ。ちょっと触ってみたいです」
「それはダメだってば」
「むう」
恭子がむくれると、悠李は彼女の頭をなでた。この手が、恭子は好きだ。智樹も恭子の頭を軽くたたいて言った。
「イルカはすごく頭がいいそうだ。詳しいことはわからんが、人間の次に脳が大きいんだったか?」
「ああ。そう言う話だね」
悠李もうなずいた。この2人が言うのなら事実なのだろう。かわいいのに頭もいいなんて、すごい。
イルカショーの会場から移動し、室内の巨大水槽で大きなサメを見た。こいつはサメと言うらしい。
「世の中にはこんな大きな生き物が……」
「ちなみに、さっきのイルカは哺乳類だが、サメは魚だ」
「それくらいは知ってます」
補足説明をしてくれた智樹だが、あいにくとそれくらいは恭子も知っていた。智樹は「そうか」と顔をひきつらせつつうなずいた。
小さな水槽の中にふよふよしているのはクラゲだ。ライトアップされたクラゲは、とても幻想的だった。クラゲと言うのは癒しの効果があるらしく、たくさんの疲れたサラリーマンらしき人がクラゲの水槽の前でボーっとしていた。その場所でも悠李は人目を引いている。
その先は水中トンネルのようになっていた。魚が泳ぐ中を歩くので、自分も水の中にいるような気持ちになる。
「素敵です。ロマンチック!」
「水族館でここまで感動するのはお前くらいだな」
智樹が呆れた調子で恭子に言った。恭子は少し頬を膨らませる。
「楽しいんですよ。いいじゃないですか!」
そう言いながら、恭子は智樹と悠李の前に立って歩き出す。楽しげな歩調の彼女を付添いの智希と悠李は苦笑気味に追いかける。
分岐点だ。恭子は少し迷って立ち止る。すると、右手の方から名を呼ばれたような気がした。
そちらに向かおうとすると、後ろから肩をつかまれた。
「ダメだよ、恭子ちゃん」
「……悠李さん」
背後には、悠李しかいなかった。もちろん、恭子の肩をつかんでいるのは悠李で、一緒にいたはずの智樹も、ほかの客も見当たらない。
水中トンネルの中には、恭子と悠李しかいなかった。
「ごめんね。楽しい時間は、もう終わりみたいだ。一緒に帰ろうか、恭子ちゃん」
悠李は、水族館に入るときのように恭子に向かって手を差し出した。恭子はその手を見つめる。
「……悠李さんについて行ったら、わたしは、また、ベッドで寝ているだけの生活になるのですよね」
そう言うと、悠李はちょっと困った表情になった。
「うーん……確かに、よく言われるのだけどね。恭子ちゃんが今いる世界は、君の願望なのだよ。君の願いをかなえるために、私がちょっと力を貸してあげたんだ」
普通の子のように遊びに行って、おいしいものを食べて、笑って。そんな当たり前なことが、『現実の』恭子にはできないのだ。
「だけど、いくら私でも、この世界を現実にすることはできない。私の能力は人の意識を操るものだからね」
「生きていても何もできないのなら、わたしはここにいたいです」
「君は、何もできない現実世界より、自由に動き回れる仮想世界を選ぶと言うことか」
「その通りです」
恭子がうなずくと、悠李は彼女の腕をつかんだ。恭子はつかまれた腕を引くが、悠李の力は強かった。
「確かにこの世界では、君は自由だよ。何だってできるし、何にだってなれる。でも、ここでは君は独りぼっちだ」
「……!」
「この世界は『君の世界』だ。だれにも侵入してくることはできない。ここにいる私だって、単なる君のイメージにすぎないんだよ」
恭子がひるんだのを見て、悠李は彼女の腕を解放した。悠李はいつもの優しげな笑みを浮かべて言った。
「この世界は、私の能力で成り立っているが、ベースは君の願望なんだ。もちろん、私が無理やり君を現実世界に目覚めさせることもできるけど、私は君の意志を尊重したいと思う」
どうする? と悠李は尋ねた。悠李は、この仮想現実と言える世界から、恭子を無理やり連れだすことができる。強制ログアウトのようなものだ。
実際の強制ログアウトと同じで、悠李が無理やり恭子をこの世界から連れ出そうとすれば、恭子に多大な負荷がかかる。恭子だけではない。実行者である悠李にも負荷がかかるだろう。
恭子はため息をついた。
「……わかりました。悠李さんと一緒に行きます」
「うん。恭子ちゃんなら、そう言ってくれると思ったよ」
悠李は小首を傾けて微笑んだ。その優しい笑みにつられ、恭子も微笑んだ。
そして、恭子は病室のベッドの上で目を覚ました。
「やあ、恭子ちゃん。こっちでも会えたね」
ベッドの柵に寄りかかり、恭子の手を握っているのは、恭子の『夢』の中でも会った悠李だ。白衣を着て、ドクターを示すネームプレートを付けていた。
悠李さん、と言おうとして、恭子は咳き込んだ。酸素マスクをしているのに、息が苦しい。
「恭子……」
母が心配そうに覗き込んでくる。悠李が恭子の母に場所を譲り、彼女の視界から消えた。
「とても、楽しい夢を見ました……」
囁くような小さな声だが、母は「どんな夢?」と聞き返した。恭子は微笑む。
「内緒」
そう、残念だわ、と母がどこかさみしげに微笑んだ。
▽
恭子の病室を出たところで、悠李は彼女の父親と兄に呼び止められた。
「悠李君」
「村瀬さん。中にはいられないのですか?」
彼の娘である恭子は重い病気だ。彼女は幼いころから入退院を繰り返しており、この頃は一か月以上入院し続けていることが多い。今度の入院も、そろそろ二ヶ月目に突入する。
そんな娘に、両親と兄は週に一度は会いに来る。恭子の兄・智樹は悠李の大学時代の後輩でもある。まあ、その縁で悠李がこの病院に派遣されてきたわけだが。
「もちろん、後で会いに行く。君に聞いておきたいことがあるんだ」
「なんでしょうか」
恭子の父は少しためらった後、尋ねた。
「あの子は……恭子は。あとどれくらい持つのだろうか」
悠李はその質問にため息をつきそうになって、何とかこらえた。ゆっくりと息を吐き出してから答える。
「私の力で彼女の意識を引き上げるのにも、限界があります。もって三か月、と言ったところでしょうか」
と言っても、悠李の判断だけでは正確なことは言えない。それでも、恭子がもう長くないのは事実だ。
魔法が存在する現代でも、治らない病気というのは存在する。魔法医なども存在するが、そもそも悠李は医者ではない。
人の意識に強く干渉する能力を持っているだけの悠李は、医者ではなく研究者だ。この病院に出向してきているだけだ。役割的にはカウンセラーに近いだろうか。
悠李がこの病院に派遣されたのは、恭子がいるからだ。
悠李は、人の意識が死に向かったとき、その人の意識を無理やり黄泉路から引き上げることができる。つまり、意識のないものを無理やり起こすことができると言うことだ。
しかし、この力も万能ではない。時が来れば、悠李がどれだけ干渉しても意識が戻らなくなる。
恭子は、もうすぐその時を迎えようとしている。それは変えようのない事実だ。
恭子自身もそれをわかっているのではないだろうか。だからこそ、彼女は夢に夢を見る。
でもそれは、かなうことのない、夢のまた夢。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
覚えているかはわかりませんが、『繰り返す、その世界』の原案となります。何をどう廻ったら『繰り返す、その世界』に行きつくのかはさっぱり不明でありますが。