踏み躙られた蹄に、女が嗤う1
それは穂摘新が住んでいる場所とは別の都道府県の事。
初夏の夜の公園で、若い男女が大騒ぎをしている。
大きな公園で、園の中央部分で騒ぐ分にはその騒音も周辺の害にはならない程の広さ。
本来子供が使う遊具でおとなげなくはしゃぐ青年達を、長いスカートを履いた美女達が愉快そうに眺めていた。
公園は便利だ。
明かりも椅子もあり、土も均され、木々はありつつも過ごし易いように空間が拓かれている。
そして、管理の仕方を間違えばこの様にあまり好まれない使い方をされてしまう。
だが、園内の街灯は零時を過ぎると消える設定なのかも知れない。
ふっと公園内の全ての街灯が同時に消えた。
「おいおい、マジかよ」
若者の一人が不満を漏らす。
続いて携帯電話で時間を確認した他の青年が、時刻を皆に伝える。
「丁度零時だ。帰れって事じゃね?」
「じゃあ翔んちにでも行くか」
そう言って別の青年が、一人の人物の名前を挙げた。
「そうだなー、それがいい」
「あいつんち、広いし騒いでも何も言われねーし」
どうやら、その翔という人物はこの場に居ないらしい。
連絡をする為に、先程時間を確認した青年がアドレス帳からその人物を選択し、電話を発信する。
程無くして、電話は繋がった。
『もしもし?』
「あー、翔? 今から行っていい?」
『いいけど……お前ら今どこに居るの? 何か雑音酷いんだけど』
翔の言葉に、青年は首を傾げる。
雑音?
今居る場所は公園だ。
街のど真ん中の公園だ。
いくらなんでも電波が遠いわけが無いし、風が強いわけでも無く、むしろ無風で暑いくらいだ。
「お前んちから見える公園だけど? そっちの電波が悪いんじゃねーの」
と答えたが、それに対し翔は不服そうに声を漏らす。
『今自宅だし、ここの電波はいつも良い』
理由は分からないが、電波が悪い事など決して珍しい事では無い。
青年はそれ以上気に留めず、予定だけを伝える事にした。
「まあいいや。とりあえずこれからそっち行くからさー、鍵開けといてよ」
『分かった』
そこで用件は終了し、双方が電話を切ろうと思った時だった。
電話をしていた青年の耳と、携帯電話越しである翔の耳に、劈くような悲鳴が響く。
尋常では無い何かが起こった事だけは分かるが、音だけでは何があったのか分からない。
『どうした、何、今の!?』
勿論、電話を切るどころでは無くなって、翔が焦り叫んだ。
だが、そこからはまともな返答は来なくなる。
「この女、何しやがんだ!」
「ひっ、や、やめ……ッ」
ザ、ザザ、とまた電波が悪くなり、携帯電話は雑音を飛ばす。
それでも翔は必死に状況を問う。
問い続ける。
けれどそれに一切答える余裕も無いらしい青年達は、翔の鼓膜に聞くに堪えない悲鳴を刻みつけ、やがてその音すらも聞こえなくなると、しばらくの静寂の後にあまり普段聞かない足音が響いた。
これは、何の音だろうか。
翔は耳を澄まし、震える手で携帯電話を持ちながら、電波の向こうにある事実を識ろうとする。
カコン、カコン。
ハイヒールの足音に近いが、それよりももっと大きい何かの音。
そこで翔の思考は一つの記憶に辿り着く。
馬……?
乗馬は嗜み程度にさせられていた。
これは、きっと何かの蹄の音だ。
偶蹄類の足音。
けれど動物にしては、足音の間隔が二本足の人間のようである。
その矛盾を解消出来る程の知識は、翔には無かった。
やがて、携帯電話の電波の悪さは無くなり雑音は聞こえなくなるが、電話の先から友人達の声も聞こえなくなる。
何度か呼び掛けたけれど、誰からの反応も無く、諦めて翔は電話を切った。
◇◇◇ ◇◇◇
夏堀椿は、またしても困惑していた。
あんなに夏堀を家に呼ぶ事を嫌がっていた穂摘に、家への直接の呼び出しを受けたからだ。
温泉施設の依頼が終了してから、最初に迎えた日曜日。
夏堀はその指定されたマンションに足を運んでいた。
綺麗な外装のマンション、この五階に彼の住む部屋があるらしい。
届いたメールにはそう書いてある。
恐る恐る、入り口のインターホンで部屋番号を入力し、しばらく待つとすぐに穂摘が出た。
『ロックは解除した、入っていいよ』
「は、はい」
言われるがままにマンションの玄関口を開ける。
一軒家に住む夏堀には、一人暮らしを始めない限り縁の無いシステムである。
そして、隣の芝生は青いもの。
マンションって何だかカッコイイなぁ、なんて思いながらエレベーターに乗り、五階へと上がった。
角部屋が、夏堀の雇用主の部屋。
ノックをすると、カチャとドアが開き、雇用主が顔を出す。
琥珀色の髪と瞳、夏堀よりもやや白い肌。
いつも掛けている線の細い眼鏡のイメージ通り、性格も何だか冷たい気がしてならない二十七歳。
でも、
「いらっしゃい」
そう言って迎えられた瞬間の笑顔は、夏堀には優しい人に見えた。
「お邪魔、します」
夏堀の予想では、彼は一人暮らしだ。
一人暮らしの男性の部屋に上がるなど、初体験だ。
何故今日は呼ばれたのか、と言う疑問そっちのけで、ひたすら強張る夏堀の体。
靴を脱いで上がると、一人暮らし相応の1LDKが覗けた。
入ってみたならそこまで広くはないが、キッチンや窓辺の造りがとても丁寧で品質の高いマンションである事は分かる。
ベッド、テレビ、食卓、パソコンデスク、必要最低限の物だけが置かれていてシンプルだけど凄く穂摘のイメージに合っている、と夏堀は思った。
清潔感のある男性の部屋にどきどきしつつ、夏堀は先にその部屋に座っていた女性にも挨拶をする。
「アリアさん、こんにちは」
「おおツバキ、よく来たな! ゆっくりしていくといい!」
「お前が言うな」
黒いローブにすっぽり包まれた、人間ではない女性。
耳当て帽子を被る事で長い耳を隠してはいるが、その金髪翠瞳は天然ならではの輝きを放ち、日本人の夏堀にとってはそれがそこにあるだけで眩しい。
緊張し過ぎていた為か、夏堀は促されたわけでも無いのにアリアの正面にある椅子を引き、机を挟んだ対面に着席する。
勝手に座るなど図々しいようだが穂摘は気を害した風でも無く、彼は彼でパソコンデスクの椅子に座った。
話をする環境が整った、と言うわけだ。
「本当は君を部屋に入れるのは凄く嫌だったんだが、もうどうしようも無いから我慢する事にした。これは僕の本意では無い事をまず念頭に置いて欲しい」
「いきなり傷つく事を言わないでください!」
早々に毒舌を放つ穂摘だったが、彼の表情は「凄く嫌」とは一致しないもので、ツッコんだ夏堀も特段傷ついた様子は無い。
むしろツッコまされたお陰で、彼女は先程までの緊張が一瞬にして吹き飛ばされていた。
穂摘と夏堀の戯れを聞いて高らかに笑うのはアリア。
「ははははっ」
「笑うな! お前のせいなんだからな、この状況はッッ」
「ああ、すまぬな」
どうやら夏堀が呼ばれたのは、アリア絡みの用事らしい。
先日の買い物の事と言い、夏堀のバイトはアリアが居てこそ成り立っている気がしないでも無い。
それに、夏堀は少しだがこの時点で予想が出来てきた。
温泉施設で仕事をしていたアリアを見ていて、気になった事が一つあったからである。
相変わらず黒いローブをすっぽり被ったままの、彼女。
「もしかして……アリアさん、私が選んであげた下着を着てくれていないんですか?」
「正解だよ。下着を着ていないから服も着てくれない。相変わらずこのローブの下は全裸らしい」
「うわぁ……」
既に一度見ている彼女の裸。
夏堀は同じ女なので驚きはすれど、そこまで耐性が無い事も無かった。
けれど、穂摘の心中を思えば溜め息も出てしまう。
曲りなりにも綺麗な女性が、全裸でローブを羽織って、自分の部屋に滞在しているのだから。
そういえばこの二人は実は一緒に暮らしているのか? と思ったが、何だか怖いので夏堀はその疑問は飲み込んでおく。
夏堀が先日選んだ下着は、とある有名ブランドの上下セットの下着だ。
以前見た所、アリアの胸は程よくある。
フルカップにしようかどうか最後まで悩んだが結局、可愛らしさを優先した四分の三カップの中で、比較的着け心地が良さそうな物を選んでいた。
パステルグリーンとレースの切り替えが綺麗で、悪くない物だったはずだ。
値段は確か上下で一万円に届かない程度だったと記憶している。
アレが不満だと言うのなら、サイズが合えば夏堀が欲しいくらいだった。
当のアリアは、不満の理由を述べる。
「アラタならまだしもツバキまであんな物を買ってくるとは! 何なんだあの素材は! 針金は!」
「もしかして、ワイヤー入りが苦手なんですか?」
なるほど、人間ではなく妖精らしい意見である。
夏堀は既に慣れてしまっているが、妖精のアリアにとってはワイヤーは確かに気になる物かも知れない。
しかし、ワイヤーが無いようなブラジャーはどちらかと言えばスポーティーな物が多い。
大きめのアリアの胸を支えるには心許無いと思われる。
この妖精は本当にそれでいいのだろうか。
疑問が募る夏堀に、穂摘がぼそりと声を掛けた。
「今日の君の仕事は、アリアの好みを念入りに聞き出してくれる事だ。女同士ならきちんとサイズも確かめられるだろう」
「そう! 先日のは少し小さかったぞ!」
「って、またそんな仕事なんですかーーー!!」
以前同様、夏堀の高い声がよく響いた。
ただし、場所は賑やかな商業施設ではなく、閑静な住宅地なのだが。
そして、
「僕は今日、予定がある。部屋は好きに使っていいからアリアの相手を頼む」
そう言って穂摘は、アリアと夏堀を残して出かけて行ってしまう。
穂摘から受け取ったメジャーを指でもてあそびながら、夏堀は肩を落としてアリアに向き直った。
「まずは、サイズ測る所から始めましょうか」
「ああ、よろしく頼む! アラタは嫌がるものでな!」
この妖精は、彼にそんな事までさせようとしていたのか。
衝撃の事実に、夏堀はもう雇い主に対して同情の念しか湧いてこなかった。
この女性は人間にしか見えないのに人間では無い、その価値観はあまりに違い過ぎる。
どうでもいい意味で。
「ローブ、脱いで貰っていいですか? 上半身だけでいいです。きっとボトムのほうはMサイズで十分でしょうし」
「あい分かった」
アリアがローブを上半分だけ脱ぐ。
肩を出し、胸を出し、そこまで。
恥ずかしがる事無く堂々と晒された彼女の半身は、人形の様につるりとしていて、きめの細かい肌が輝いていた。
羨ましい、と思いながら夏堀はアンダーとトップを測り、メモしてその差を計算する。
数値を見て夏堀は、まず最初に困った。
夏堀より高い身長からして、このカップでこのアンダーならば体型は細いと言えるだろう。
だがこのサイズに合う下着で、更にワイヤー無しの物を探すのは困難では無かろうか、と。
特注をした方が早い気がしてならない夏堀は、次にデザインの好みも聞いておく。
「ちなみにデザインはどういうのが好きなんですか?」
「その辺りは気にせん。着け心地と肌触りは大事だが、見た目は今は求めておらぬ。見た目を気にするのは勝負する時だけでいいからな!」
「しょ、勝負ですか」
この妖精は、いつ勝負するのだろう。
穂摘相手に勝負する予定があるのか?
いや、そんな相手に体のサイズを測らせようとはしないはずだ。
女ならばいつかは勝負する時も来るのだ、と言う事にしておいて、夏堀は聞き流す。
とにかく、彼女の価値観ならばフルカップが無難そうである。
「あと、何色の下着がいいですか?」
「この前の物の色はなかなか綺麗だったぞ!」
「それなら良かったです……ボトムはどうします?」
「ああ、それなんだが」
そこでアリアは半裸を晒したまま、すたすたとクローゼットに向かって歩いていく。
一応穂摘の部屋にも拘わらず容赦なくそこを開け、掘り出したるは先日夏堀が買った下着一式。
この妖精は、穂摘のクローゼット内まで把握しているのか、と何だか微妙な気分になりつつ夏堀が他人行儀に眺めているとアリアが言った。
「この前の物は開放感が無いからな、こっちの方がいい!」
そして更に掘り出したのは、今度は別の布。
形状は女性下着のそれではなく、男性の……
「トランクス、と言うんだったか? これがいい!」
多分それは穂摘の下着だ。
「駄目です! 却下です! 何でそんなに開放感を求めているんですか!?」
「正直、履く必要が無いと思っているからだ。仕方なく履くならこれがいい」
「だーーーめーーー!!」
上下の組み合わせなんて完全無視、大体において本当は履きたくないなど、解決不可能な問題をどうしろと言うのか。
アリアは妖精だ。
人間では無い。
けれど、夏堀にとってそこは大きく気にする部分では無かった。
夏堀は穂摘とは違う、今まで妖精など見えた事の無かった普通の人間だ。
だからこそ彼女はアリアを妖精としてなど扱えず、その事情を完全に無視して言った。
「女性なんだから、誰に見せなくても、可愛い下着を着てください!!」
これは、少なからずともアリアの外見に憧れている夏堀の心の声だろう。
こんなに綺麗なのに、可愛いのに、飾らない彼女が勿体無いのだ。
許せない程に。
夏堀の叫びはアリアに伝わったのかも知れない。
我儘を言っていた妖精は急にしおらしくなり、普段のからっとした雰囲気が無くなった。
「それは……人間ならば、誰でも思う事か?」
「思うと思います。実際、穂摘さんだってアリアさんに着ろ着ろ言ってるわけでしょう?」
「そう、だな。すまない。折角だから女としての魅力を引き立ててくれるような下着を見繕ってくれないか」
対照的に、夏堀の表情が明るくなる。
この妖精は決して、綺麗になるつもりが無いわけでは無いようだ。
単に少し価値観が違うだけの話で、打てばきちんと響くのだ。
「分かりました! だからとりあえず、きちんと選びに行く為にこの前の下着と、ええと、服もあるんですか? それ着てください! 今度一緒に買いに行きましょう!!」
「ううううううぬ、あい分かった。着ようではないか!!」
アリアが、ばっとローブを全て脱ぐ。
覚悟を決めた女妖精、その立ち振る舞いは何だかもうひたすら勇ましかった。
夏堀にとって、見るのは二度目であるアリアの全裸。
右腕に籠手を付け、普段ローブの裾から見えているブーツは室内である今は履いていない。
夏堀はふと気になった事を聞いてみる。
「そういえば、その腕のやつはどうしていつも着けてるんですか?」
「……ああ、これか」
帽子と籠手以外は纏わぬ微妙な格好のまま、アリアは自分の右腕に視線を落とした。
銀に鈍く光る、右の腕と手を包み込むガントレット。
下着は着ないにも拘わらず、その籠手だけは彼女は外していなかった。
「これが無いと、私の右腕は動かないのだ」
「えっ」
夏堀は思わず息をのんでその腕を見つめた。
人間ならば籠手を付ける事で動かぬ腕が動く様になるなど有り得ない。
だが彼女は妖精。
この籠手に何かしらの呪いが掛かっていると考えたほうが妥当だろう。
「私は……とある事情で右腕が使えなくなった。アラタにはもう話したのだが、ツバキには言っておらんかったな。先日の温泉で会った女が居ただろう」
「居ましたね、何だかお知り合いのようでしたけれど」
「あやつは、私が腕を使えなくなった事で降りた位に一時期だが座っていて、要は私の後釜を務めた事のある妖精なのだ」
「そ、そんな関係だったんですか!」
「別に私と仲が悪いわけでは無いが、私からすれば複雑な相手だ」
自分の代わりを誰かが務めると言う事は、それが本意で無い事情があった場合、穏やかな心境では居られない。
自分の代わりなどいくらでも居る。
使えなくなった自分は、不要。
誰に直接言われずとも、事実はそう訴えてくる。
アリアは、またクローゼットを掘り返して、以前穂摘から買って貰った服一式を取り出した。
まずは夏堀が選んだ下着をゆっくり着て行く。
その手際は悪く、あまり着慣れていない事が伺える。
次に着た服一式は、かなりシンプルなTシャツとジーパン。
彼女を飾る気が一切無い事がよーく分かる穂摘のチョイスに夏堀はげんなりしたが、それでもアリアは全て着ると見違える様だった。
スタイルがいいからか、それとも外国人の容姿が夏堀にそう見せるのか。
ポーズを取らせれば雑誌の表紙にさせられそうな程、スタイリッシュ。
シンプルな衣服でも、元が良ければ何でも絵になる。
夏にはそぐわぬ耳当て帽子と、物騒な籠手が違和感を残すが、そこは仕方ない。
「アリアさん、服着たら凄く可愛いですよ!」
「そ、そうか? ツバキに言われると何だか嬉しいぞ!」
各々の存在の理屈ですら違うのに、彼女達は意気投合していた。
いや、それは夏堀の性格が大きいのだろう。
まだ十五歳、高校生になって間も無い娘の真っ直ぐな心は、例え妖精相手であったとしても響くのだ。
裏表の無い言葉は、妖精にとっては好ましいものなのだから。
第三話は少し長く、全部で六ページとなります。
お付き合いくだされば幸いです。
なおアリアのブラジャーは、
夏堀の初見の見立てではDカップを選びましたが
実際はぎりぎりEカップの為
真ん中が浮いてややワイヤーが食い込んでいる状態と言う裏設定です。