運命の石が、また巡り廻る2
翌日。
穂摘は黒崎優理佳に呼び出される。
今までは夜に料亭に呼び出されていたが今日は日曜で穂摘も昼間から動ける為、呼ばれたのはメイヴカンパニーの自社ビルであった。
私服姿の穂摘を迎えたのは、茶髪で顔色の悪い受付嬢。
「あ、あれ? 更科さん?」
だが更科翔は穂摘を睨みつけて、その声を低く響かせる。
「……上から話は聞いてるから、着いて来て」
どこか不貞腐れたような更科に案内されるがままエレベーターに乗って着いた部屋に入ると、広い室内に整然と置かれた大きな机があり、それに向かった椅子に座っている黒崎が居た。
上北優は居ないらしく、更科が去ると室内は穂摘と黒崎の二人きりとなる。
和服の女はその格好とは不釣り合いな豪華な欧風応接セットに移動して静々とそこへ腰を下ろし、彼女の手で促された穂摘も向かいに座った。
何故呼び出されたのかもよく分からない穂摘に、黒崎がまず話を切り出す。
「用意した戸籍の代金を、お支払い頂きたく思います」
この女は何を言っているのか。
自分の周囲にはわけの分からない事を言う女しか居ないのか。
穂摘は勿論、
「……そんなもの用意して貰った覚えはないんだが」
と、至極真っ当な返答をしたのだが、黒崎は書類を取り出してそれを穂摘に渡した。
「そちらが契約書類です。まだ穂摘様のサインは頂いておりませんが、これから頂けるものと信じております」
「な、何を言ってるんだアンタ」
よく分からないまま、取り敢えずその書類を手にとって眺める。
詳細は書かれていないものの、金額と、そしてきっと買った戸籍の名義であろう姓名が書かれていた。
日本人によくある姓、そして下の名前は……予想してはいたが、アリア。
直にその名を見て、穂摘は書類を持つ手が震え始める。
彼の反応に、黒崎はやわらかく微笑んで続きを説明した。
「彼女の外見的特徴を有してもおかしくない血筋など様々な点を考慮してその金額になっているのですよ。そして、彼女は支払い能力が無いとこちらで判断致しましたので、穂摘様に肩代わりして頂く事に……」
「こんな契約が通ると思っているのか?」
「ええ。貴方は無収入の彼女にこの額の借金を背負えだなんておっしゃらないでしょうから」
「……そ、そうかも知れないが、アリアとこの数ヶ月で稼いだ金を使ってもこれはちょっと足りないし、今までのように違法な仕事の請負はもう出来ない。僕にだって払いようが無いじゃないか」
「穂摘様」
そこで黒崎はするりと着物の袖口からリボンを取り出した。
例の呪が掛かっている、白いリボン。
ぎょっとした穂摘は避ける事も出来ずにそのリボンを上から掛けられ、体の自由を奪われてしまう。
縛らずとも投げるだけで事が済む、エスラスが作った対妖精の最強拘束アイテム。
この尋常ではない虚脱感は、贋物ではなく本物だ。
ずるりとソファに凭れる穂摘を、黒崎が深く黒い瞳で見下ろしている。
「な、にを……」
「別に穂摘様をどうこうしようと言うわけではございません。お気づきになりませんか? その体は……まだ、治っていない事を」
「あっ」
そう、あの夜アリアはさっさと自分の体を人間に変えたは良いが、その際に穂摘達の体は放置していた。
かなり酷い話だ。
アリア自身はきっと自分が元に戻る事に必死で忘れていたのだろうし、穂摘としてもアリアが人間になった事によってこれ以上自分の体が妖精に寄る事は無い上に、現時点では生活には支障も無い為、すっかり抜け落ちていたその点。
「アリア様の剣は、穂摘様の所に残ったままだそうですね」
「……何が言いたいんだ」
「彼女が居なくとも、まだアリア様の妖精としての因子を肉体に残し、あの剣を扱える穂摘様はご自分お一人で今まで通り妖精対処の仕事を請け負える、と言う事です。そうすれば……すぐに返せる金額でしょう」
「ばっ、僕は剣なんて上手く扱えないぞ」
「アリア様の不敗の剣を持っているのなら、剣の腕など二の次ですよ」
そして黒崎は机の引き出しから朱肉を持って来て、穂摘の親指に押し付ける。
「や、やめ……」
穂摘の口だけの小さな抵抗も虚しく、赤く染まった指は書類にしっかりと判を押した。
眼鏡がずれて、穂摘のぼやける視界に映る黒崎。
夏の爽やかな薄物の上に広がる黒く長い髪が、じわじわと広がっていくような幻覚が見えてくる。
悪魔だ。
悪魔が居る。
昨日砕けた穂摘の心を、更に細かく切り刻む女がそこに居た。
書類を整えてから黒崎は、穂摘の眼鏡がずれている事に気がついてそこだけ直してやる。
ただし、リボンはまだ解かぬまま。
「ちなみに、穂摘様が私の下へ来るのでしたらこの契約は無かった事にしても構いませんが」
「そっちのほうが絶対損だ……」
「そうですか? 優は喜んでいますよ」
「アレと一緒にしないでくれ。いいよもう、稼げばいいんだろ。だからこのリボンを取ってくれないか」
穂摘が観念した事を見取り、黒崎の指が彼に掛かっているリボンを拾い上げた。
「エスラスを捕らえたとは言え、彼女のばら撒いた『事件となり得る元凶』は他にも様々な物があるようです。相変わらず依頼は減っておりませんし、しばらくは後処理に忙しいのですよ」
「だろうなぁ……僕のところにも受付停止してるのにメールだけならどんどん来るし」
そう言って穂摘は、小さな石をポケットから取り出して眺める。
アリアの力の石と比べると随分小さい、ビー玉くらいの緑の石。
「それが、不敗の剣ですね?」
ドルイドである黒崎には、多少ならばその石の力を感じ取れるのだろう。
見た目は剣では無いにも拘わらず、彼女はその石を剣だと言う。
黒崎の確かめるような問いに、穂摘は静かに頷いた。
「ああ。この剣を扱える者は限られてるとは言え、手離すのは不安でさ。普段は石にして肌身離さず持ってるんだ」
「……穂摘様の運命は生まれる前から、そしてこれからも、アリア様の石に翻弄され続けるのかと思うと少しだけ楽しく思います」
「その楽しいは翻弄されてる当人に面と向かって言うものじゃないだろ」
「これは失礼致しました」
黒崎は、頭も下げずに口だけで謝る。
嫌味な発言自体がきっとわざとで、心のこもっていない謝罪を見ながら、やはりこの女性は結婚出来ないと力強く思う穂摘だった。
そんな穂摘の失礼な心中は今回はバレていないようで黒崎は頬をつねって来たりはせず、代わりに穂摘の手元に顔を近づけ、アリアの剣である緑の石をまじまじと見つめる。
「全く……私がこれほど妬ましいと思う人は、きっと穂摘様以外に現れる事は無いでしょう」
「そんなにコレが欲しいのか? その呪いの掛かったリボンがあれば、剣なんて無くても妖精の対処なんて簡単じゃないか」
「このリボンは実際に現場で使うには難しいのですよ」
「と、言うと?」
「リボンが持てて、妖精がきちんと見えて、更にリボンで縛った後に対処出来る者、と制限が多いのでどうしても使用者が限定されてしまいまして、人手の足りない当社では宝の持ち腐れ状態になっております」
「なるほど……」
黒崎やエスラス、そしてきっと穂摘の父も。
そのような、ドルイドと呼ばれるくらいの者でも無ければ使いこなせないのだ。
リボンはあくまで縛るだけの物。
動きの鈍い人間相手ならまだしも妖精はそうでは無い可能性も高く、避けられたらそれで終わりであり、更にリボンだけで退治が出来るわけでも無い為、実際に現場に出ているであろう上北のような妖精に持たせる事が出来る強力な武器のほうがメイヴカンパニーにとっては使い勝手が良いのかも知れない。
「なので今のところは、先程のように穂摘様を脅すくらいしか使い道が」
手に持ったリボンを、ぴんと張ってにっこり笑う黒崎。
「や、め、ろ! ……ところでエスラスはどうなったんだ? 妖精を使って事件を起こしたところでそんな人間を法的に罰する方法は無いんだろう?」
「法で裁けなくとも方法はいくらでもあります。そう、メイヴカンパニーで奴隷の刑、とか」
「え」
さらりと言ってのけられた、その言葉。
エスラスは今この会社のどこかで奴隷にでもなっているのか。
有り得る、有り得るぞ。
この女なら罪に問われない犯罪者を奴隷に仕立て上げる事など朝飯前だ。
穂摘はすんなりと受け入れて、その恐ろしさに息を飲む。
「私達は表向きの法律に縛られている団体ではございません。警察も勿論事件を追いますが、妖精関連で表立って処罰出来ない者達を警察から預かり更生させる事も請け負っているのです。先日ガラスの箱の痕跡から完全に足がついた、更科翔もその対象にあたります」
「も、もしかして更科さんが受付嬢をやっていたのは」
「はい、お勤め頂いております」
それなら穂摘をあんな風に睨んできたのも納得だ。
穂摘を信じてガラスの箱を渡したのに、そのせいでこの会社に連行されたのだろうから。
「でも法律も無いのにどうやって言う事を聞かせたんだ?」
「簡単な事です。法も何も無いのですから脅したに過ぎません。彼女にはいわゆる死を運ぶ犬の際に使われたものと似た形の呪いを掛けさせて頂きました」
「何だって!?」
「知らなかったとは言え呪い殺したのは事実なのですから、それだけの事をしたのだと自覚しなければならないでしょう。大丈夫です、彼女のお勤めはそこまで長くはありませんし、拘束などせずに普通に出勤して頂いているだけです」
もしかしてこの会社に勤めている人間は皆、そういう過去があっての事なのか。
だとすれば薄給で務めているのも頷ける。
メイヴカンパニー自体も戸籍などを含めて随分あくどい事をやっている気もするが、国の裏側とある程度は繋がっているのだから、戸籍を違法に売り買いしていると言うよりも、実は国を通して正式に捏造しているのかも知れない。
違法なルートで入手するのでは無く、正式に捏造しなければ、とてもではないがアリアと言う名前を都合良く持って来られないはずなのだから。
正式に捏造……何だか字面で見たなら矛盾を包容する結論に行き着いたが、穂摘はそれ以上考える事を止めた。
考えるだけ、無駄だ。
全てを諦め受け入れた穂摘は、程無くして帰される。
用件さえ済んでしまえば穂摘の扱いなどそんなものだ。
桁の違う額の借金を背負わされて、肩を落としながらビルの玄関ロビーまで戻って来ると、笑顔を作る気の無い無愛想な受付嬢が彼を見た。
「お疲れ様。私も大変だけど、穂摘さんもあの元妖精サンのせいで大変そうだね」
行きは睨まれていたけれど、帰りは幾許かその険は取れている。
穂摘が背負った内容を知っているのなら、それによって落ち込んでいる穂摘を見たならそうもなるのか。
「ああ……更科さんも、その、ごめん。言い訳になるけれど、まさかこんな落とし穴があるだなんて知らなかったんだ」
彼女は人を呪い殺したのだから決して罰自体に同情するわけでは無いが、あの件に関して裁く事は出来ないと言ったのに結果としてこうなってしまった事は謝らなくてはいけない。
穂摘が頭を下げて謝罪をすると、更科はほんの少しだけ笑って見せた。
「いいよ。もう、ちゃんと納得したから」
「……そっか」
まだぎこちない笑顔だったけれど、以前の彼女の昏さは晴れている。
黒崎が何か言ったのか、更科の心を変えた理由は分からないけれど、お勤めさせるまでにきっと何かがあったのだ。
きちんと更生させる事が出来るのであれば、メイヴカンパニーのやっている事は結果が伴っているのではないか。
「土日は大体居るから、いつでも来て」
「週二日……?」
「うん、私、学生だから。この会社遠いし。法外に安いアルバイトを強制させられてるだけだね」
「や、優しい奴隷制度だなぁ」
きっとエスラスはこれよりも酷い扱いだとは思うが、更科が意外と辛い目に遭っていなくて穂摘はほっとしていた。
穂摘の表情が緩むのを見て、更科は一つ忠告する。
「私の事でそんな顔して……相変わらずお人好しだよね。良いところだと思うけど、あの元妖精サンにまで世話焼く事は無いと私は思うな」
「僕もそう思ってはいるんだけど、なかなか」
「……分かってるのに直せない事って、いっぱいあるから仕方無いか」
穂摘と話しているはずなのにどこか独り言のように呟いて遠い目をした更科。
深入り出来ない気がした穂摘は、じゃあ、と軽く手を上げて更科を後にする。
最後にぽつりと、
「報われない想いが憎しみに変わらないようにね……」
後ろから小さく響いた言葉を……答えずに受け止めて。
ビルの外に出たなら、まだ時間は昼をまわった辺りで、直射日光が全力で降り注いでいる。
穂摘の比較的白い肌は、すぐに赤くなりそうだ。
更科の抱えていた闇に、穂摘は今までもこれからもずっと一切踏み込まずに済ませるつもりだ。
彼女との距離は、そこまで近くない。
だから彼女がどうしてあんな事をしたのかは知らないまま。
けれど先程の言葉のニュアンスは「自分の経験から出たもの」だろう。
更科の件で吸血妖精に殺された者達は、更科をいいように扱っていた連中だったと聞いている。
なら、確かに更科と穂摘の状況は、見ようによっては似ているのかも知れない。
いいように扱われているのに、無下に出来ずにずるずると付き合いを続けているのだから。
「僕は彼女のようにそのうちアリアを逆恨みしたり、するのかな……」
宙に問いかけても、答えは返って来ない。
けれど、穂摘は自分の中で答えを出せる程度に大人であった。
無下に出来ないと言う事は結局、どこかで穂摘も利を得ていての事なのだ。
気が弱いから断れないタイプでは無い自分が、それでもアリアに押しきられてしまう理由は、結局のところ彼女と居る時間が、いいように扱われる事よりも大なりなのでしか無い。
悔しいなとは思うが結局のところ彼女がどこの誰を向いていようとも、穂摘は彼女の借金を背負えてしまえるくらい大事なのだと言う事だった。
それはただ単に異性としてならばかなり重い愛のようだが、多分そうでは無い事も青年は気付いている。
共に笑い、泣き、時に叱り、自分を作る事無く曝け出して接して、それでも嫌いになったりせずに損得関係無く尽くせる関係は……別に恋愛感情だけで構築されるものでも無い。
「とんでもない提案だったけど、アイツが身内になるのは別に嫌じゃないんだよなぁ。でもなぁ、それってどうなんだホント。僕はアリアを母さんだなんて呼べるのか?」
ぶつぶつと血迷った事を言いながら真夏の空の下を歩き出す穂摘。
彼の幸せの形は、悲しい程痛々しくて見えそうにない。
明日夜の更新で完結となります。