運命の石が、また巡り廻る1
消えてしまったアリアの行方は掴めないままだったが、それから黙って待つ事一週間。
穂摘新は、久しぶりに静かな週末を送っていた。
夏堀の誘拐に関しては専門家である父に任せておくだけで済み、あれからはインターネットでの請け負いも休業しており、本当に何もする事が無い休日を堪能する。
だが、物足りない。
心にぽっかり空いた穴は、文字通り予定がぽっかり空いているせいだ。
アリアが居ないからでは無い。
そう、穂摘は自分に言い聞かせた。
窓の外に広がる雲の一切無い青空は、穂摘の出掛ける気分を全力で削ぐ。
天気が良いから外に遊びに行こう?
有り得ない。
エアコンの効いた室内で過ごすのが一番だ。
そういえば折角買ったポットも少し使っただけだったな、と暇なので一人、紅茶を淹れてみる。
何となくいつも通り淹れてみたなら、ポットに収まったのは二人分。
ああそうか、いつもの分量は二人分だったんだ。
暇で淹れたはずの紅茶に、淹れる前よりも空しい気分にさせられて……自主的に飲むのなら珈琲のほうが多い穂摘は、ティーセットを夏堀椿に譲ろうかなどと考える。
紅茶を注ぐととぽとぽと心地良い水音が白い器の中で跳ね返り、琥珀の瞳はその緋色が深く濃くなっていく様を虚ろに映していた。
そこへ、青年の耳に別の物音が届く。
カチャリと鍵が回され、キィとドアが開き……どう考えても誰かが部屋に入ってきた音だ。
当然誰だか予想が出来ている穂摘は、さほど驚きを見せずに音のする方へ振り返った。
「遅かったな、アリ……ア!?」
「アラタァァァァ……」
彼女が戻って来た時点では驚く事も無い。
そのうち挨拶にでも来るのだろうと思っていたのだから。
けれどいざ振り返って彼女の姿を見てみたなら、それどころでは無かった。
呻きながら穂摘の部屋を訪れたのは、アリア。
それは間違い無い。
だが彼女は男物の大きな黒いTシャツだけを着ていて、足は赤く傷だらけでぼろぼろだったのだ。
「どうしたんだよその格好!?」
金髪の間から長い耳が見えないところを見るともう妖精では無いはずだが、妖精の頃と変わらないどころか、それ以上に酷い格好をしている。
アリアは薄汚れたその身を容赦なく穂摘に押しつけ、抱きつき、わんわん泣き始めた。
「人間になる為に体を再構築して戻ってみたなら、皆があの場に居なかったのだ! 酷いぞ、置いて行くだなんて!」
「も、もしかして……」
「ずっと、ずっと歩いて来たのだぞ! 人間は何て不便なのだ! ローブは出せぬし少し歩けばすぐに足が痛い! もう、もう、死ぬかと思って……っ」
一通り叫び終え、アリアは穂摘の胸に顔を埋めてすすり泣く。
確かにあの山に放置されたのなら、それは野たれ死んでもおかしくないレベルだ。
どう凌いだのか疑問に思うほど。
「は、裸を見せては変質者扱いされると言っておっただろう……だ、だから頑張って隠れながら、干してあった洗濯物を拝借したり、そこらに生えていた草を食べたり……ううう、後で服を一緒に返しに行ってくれぬか」
「悪かった、僕が悪かったよ、いくらでも一緒に謝りに行くよ」
アリアはきちんと穂摘の言う人間社会のルールを守ろうとしていたらしい。
人間になったのだから、と。
だがそこはむしろ裸でも誰かに助けを求めたほうが、彼女の身の安全は確保された気がしないでも無い。
説明が面倒なので穂摘は敢えてそれを言わないけれど。
さめざめと泣き続けるアリアを一先ず風呂に押し込み、あの日回収しておいた衣服を脱衣所に置いておく。
多分空腹だろうから簡単に食事も用意して、出来上がった頃に丁度アリアは風呂から上がってきた。
「流石に街に来てからは人の目に触れるのを避ける事は適わなかった。ここに来る間にも白い目で見られて、もしかすると変質者の居る建物と認識されてしまったかも知れぬ……」
「いいよ」
多分、男物のTシャツ一枚でぼろぼろになりながらこの真夏の空の下を歩いていたアリアは、変質者ではなく「悪い男から逃げている最中の可哀想な女性」として見られていただろうから。
その辺りの違いの説明もやはり面倒なのでしなかった穂摘は、それよりももっと根本的な部分を問う。
「って言うかよく僕のマンションの鍵をまだ持ってたな」
「アラタの家の鍵はいつもの公園に、普段は隠して保管していたのだ」
「それ、万が一見つけられて盗まれたら、僕が困るんだぞ?」
「む、それもそうか」
言いつつ、アリアはさっと席についた。
食卓に広がっているのは、鍋料理ではなくリゾットの様な物だった。
肉を使わずにオイルやチーズでコクを出しただけの品ではあったが、色鮮やかな夏野菜がふんだんに使われている。
口に運べばまず黒胡椒が効いて、後から野菜とブイヨンの旨味がじゅわりと滲み出す……ひもじい腹にはこれ以上無いほど染み渡る一品。
「これはアラタのレシピでは無いな?」
「夏堀さんから、アリアが帰って来た時にって教えて貰ったんだ。口頭でしか教えて貰ってないんだけど、あの子の教えてくれるレシピは簡単で美味しいんだよなぁ……」
作った穂摘も思わず自画自賛をしたくなる程の美味しさなのだが、刻んで軽く煮詰めるだけの料理を自分の手柄にする気も無い。
材料さえ覚えていたなら、分量は多少ずれてもどうにかなります。
……そう言われた通り、夏堀のレシピは本当にどうにかなってしまう「余裕」があるのであまり料理に興味があるわけでも無い男の手でも作りやすかった。
夏堀の名前が出て、アリアは納得する。
「相変わらずいつでも嫁に行けてしまいそうな娘だのう。どうだアラタ、ツバキを嫁に貰っては」
「何を言ってるんだ、夏堀さんにも選ぶ権利があるぞ」
「確かにそれを言われると反論出来ぬな」
「そこは反論してくれ」
そこまでのやり取りを交わしたところでまた食事を口に運んだ穂摘に、余程腹が空いていたのか既に食べ終えてしまっているアリアが、少し冷めてしまった紅茶を自分で注ぎつつ呟いた。
「私としてはツバキが自分の娘だったら嬉しいとは思うのだがのう」
「ん? ああそうか、お前は相当年取ってるはずだもんな」
人間としての戸籍やらがどうなったかは知らない、人間に変わった事で肉体年齢がどれくらいなのかも見た目だけでは分からない。
だが少なくともアリアは、本来は長い刻を見届けて来ているはずなのだ。
人間など全て、彼女からしたなら子供同然の幼さだろう。
だが、そこでアリアは照れ臭そうに穂摘を上目遣いに見つめた。
金の睫毛が飾るグリーンアイに思わず喉を詰まらせそうになった青年は、どうにかその衝動を抑えて咳払いをしてから問う。
「何でそこでそんな目で見てくるんだよ」
年を取っていると言われた事に対して……にしては、少し違和感の感じるものだ。
年寄り扱いされて照れる女など聞いた事が無い。
では何故?
その回答を、彼女はゆっくりと紡いだ。
「……その、だな。私としては、うむ。ツバキだけでなく、アラタも自分の息子だったら嬉しい、と思っていてな」
「えーと、褒め言葉か? それ」
「も、勿論だ! この数ヶ月見ていて思ったぞ! お主に母と呼ばれるのも悪くは無いと!」
「いくら顔が同じだからって、お前を母親がわりにする気は僕には無い。いや、そんな風に誤解させてたならそりゃきっと僕が悪いんだろうけど」
はっきり重度のマザコンだと宣言された穂摘は、アリアに母親の影を見続けていた事を否定する気は無い。
妙に放っておけずに世話を焼いていたあの行動も、よく考えてみたなら母親に対するマザコン男そのものだ。
けれど、だからと言って見た目の若いアリアを母と呼ぶ気までは無いわけで。
先程まで穂摘を見つめていた瞳は、今はテーブルの上の皿達を順番に追っていた。
視線のやり場に困っている、そんな風に。
挙動不審なアリアが全く理解出来なくて、穂摘は食事の手を止めて彼女に真っ直ぐ向き合う。
「どうしたんだ」
意図せずしてお膳立てされた状況。
それに後押しされるように、意を決した強い眼差しをもってアリアは穂摘をきちんと見た。
白い肌を紅潮させ、彼女のシェルピンクの唇が動き出す。
「アラタ、私の息子になる気は無いか!」
「嫌だよ」
いきなりの養子宣言に穂摘は真顔で答えた。
即答で拒否されたアリアは、椅子から崩れ落ちて床に這い蹲ってしまう。
雰囲気からして強い意志のある決断だった事は穂摘にも分かるが、そこまでして息子を求める理由が分からない。
「……もしかして、人間になってしまうと子供が作れなかったりするのか? いや、それだと僕が母の血をひいている事の説明がつかないな」
なら、自分は実は、母の親戚の子供を養子に迎え入れた存在?
それでは今度は他にも色々と矛盾が生じてくる。
考え込んでしまった穂摘に、アリアは上半身だけ起こして、それでも強く願う。
「そうでは無い。私は……アラタの母になりたいのだ。だからこそラウファーダのような生き方を選ばず、こうしてこの身を人間に変えたのだから」
「……うーん、ちょっと待ってくれないか。僕の脳味噌はその辺りの事情を知る事を拒絶しているような気がする」
「真面目に聞いてくれ! 私は、お主の父と婚姻を結びたいのだ!」
「はは、やっぱりそういう事か」
「うむ、そういう事だ! ずっと言えずに済まなかった。デリケートな問題故にやはりまずは互いを知る事が大事だと思ってな。いきなり見知らぬ女が母親になりたいと言って訪ねて来ても困るであろう?」
「あー、うん、それはもういいから」
アリアは服を着ている。
大丈夫。
穂摘は膝をついたままのアリアの手を取って起こしてやると、そのまま彼女の背中を押して玄関まで連れて行き、ドアを開けて外に出した。
部屋から押し出されて完全に目が点になっているアリアに、穂摘は笑顔で言い放つ。
「この年で新しい母親なんていらん!!!!」
バタン! と強くドアを閉め、チェーンをかける。
鍵自体はアリアも持っているが、チェーンをかけられては今の彼女はどうしようも無い。
「アラタァァァァ!!」
マンションの廊下で、青年の名前を呼ぶ声が響く。
ドンドンと、戸を叩く音がしばらく続く。
だが穂摘はそれらを無視し、残ったリゾットをヤケクソで平らげたのだった。